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火を惜しむ

明日は小正月。
この土日に「どんと焼き」などの行事を予定している地域もあるだろう。
元日、2日と、炎上する街並みや航空機の映像を見続けたせいか、無事を祈られずにはいられない。
田中角栄さんの目白御殿が全焼してしまったこともあるし、火は美しいが怖い。

子供の頃、「どんどん焼き」だと思っていた左義長。
どんどんくべろ、どんどん燃えろ、どんどん焼いて、どんどん食え(笑)。

正月飾りや書初めを燃やし、その火で餅を焼く。
爆ぜる火花。
立ち上る煙。
やがて崩れ落ちるやぐら。

幼い頃、見たそれの記憶は鮮明だ。
その行事は、子供のためのものではなく、大人のためのもの。
若い男女が集い、酒を飲み、1年の息災を祈る。
そこにある出会いや駆け引き。
生涯添い遂げる恋もあれば、一夜限りのそれもあるだろう。

古い小さな神社の横に、おそらくは棄農された田んぼか畑の残骸があった。
あの頃、農業以外に主たる産業のない北陸の小さな村の空き地というのは、多少なりともそういういきさつを持っていたと思う。
昔は誰それさんの畑だったところ、というやつだ。

昼間、祭りのやぐらのような土台が、若い衆(実はかなりおじさん)らの手によって組まれ、持ち寄られた藁や木々の枝がいい格好にセットされる。
点火は夕暮れ。
あとは、これに書初めやら松飾りを投入する。

餅は、神棚に飾ったもので、小枝に繭玉のようにくっつけられたものだったが、これは食用として焼いたのではなくたぶん縁起物としてくべたのだと思われる。
食べる餅は、お雑煮やぜんざいに入れる普通の餅を、はじのほうでちまちまと焼いていたのだろうが、食べた記憶はない。
私はこのとき、年齢のわりにませた子供だったので、「年中行事」の持つ形式的なつまらなさとともにその大切さも漠然と感じていた。
そして、この「大人向け」の静かな祭りが持つ妖しさもどこかで感じ取っていた。

雪国の女性にありがちな白い頬が、炎を映して赤く輝く。
私は、餅が焼けるのを待っていたのではなく、たぶんその妖しさの先にある世界のはじっこのはじっこの雰囲気に好奇心を抱いていたのだろう。
同年代の子供と遊ぶという体験もなく、いつも大人の世界のはじっこにいて、その顔色を見、思惑を想像して暮らしていたから。

かつて「天声人語」に左義長のことが書かれていた。
いまはもう、どの新聞も購読していないが、報道はともかくコラムを読む機会がなくなったのは残念。
その天声人語に幸田文氏がかつて同誌に寄せた随筆「燃す」の一節が紹介されていたことを思い出す。

(幸田氏は)「庭で紙くずや枯れ葉を燃やしながら、その熱をいとおしみ、『ものの最後の力だと思うと、その火を惜しまずにはいられない』と綴った。」

天声人語

「火を惜しむ」
自分にとって要・不要ばかりがそのものの価値の基準としてしまう中で、ただそのものの最後をいとおしみ、そのものを消し去ってしまう火すら惜しむという幸田氏の感性に打たれる。

自分というものをとりはずして、ただそのもののだけの価値を味わう。
そんなふうなモノとの付き合い方は、私にとってある意味衝撃だった。
私はいつだって「私というフィルター」を通すことを大事にしてしまうから。

この言葉は、私にとって、自分の価値観が暴走しないための楔のように思える。

「静脈に 映す炎の 緋の色で 君を溶かすか 我が融けるか」

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