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「きつねの窓」

両の人差し指と親指とで四角い枠を作って夕映えの街を覗き込むと、さっきまで顔も知らなかった旅人が
「きつねの窓ですね」
と笑った。

なんのことかわからずに、曖昧な笑みを返して「窓」を引っ込めた。
私は大学生になっていた。

15歳で初めて一人で旅に出たとき、父から大きくて重いカメラを借りた。
いかにも分不相応なことは自分でもわかっていて、借りたはいいけれど、出して構えることが恥ずかしかった。
いや、構えているのを誰かに見られることが。

私はいまでも「かっこいい」ものが恥ずかしい。
かっこいいと思っている自己陶酔の感じを他人に悟られると、途端に居心地が悪くなる。

当時、写真を撮っている人たちは、よく指で枠を作って構図を確認していた。
私も真似をしてみたけれど、「子供」の私が、いかにも「大人の真似をしています」と見えることもまた恥ずかしい。
背伸び感を知られたくない。

それで、指で作った四角形は、その意図を隠すためにいつのまにかひし形に変わっていった。
そして、写真とは関係なく、その仕草は無意識の私の癖になっていた。
たまたま隣に居合わせた旅人は、私のそれを見て「きつねの窓」と言ったのだ。

それが、「安房直子」という作家を知ったきっかけだ。
旅を終えて書店に出向く。
読みたい(買いたい)本を「探す」という過程の楽しみを重視していて、文庫棚の「あ」のところから順に見ていくのを習慣としていたから、目当ての名はすぐに見つかった。

主人公の「ぼく」は、きつねを追って山で道に迷い、見たこともない桔梗の花畑の中で染物屋を見つける。
子ぎつねが化けているんだと気づいて、ここはひとつ化かされたふりをしてやろうと、ぼくは思う。
そして、窓をつくる親指と人差し指を染めることを勧められるのだ。

「ねえ、お客さま、ゆびをそめるのは、とてもすてきなことなんですよ」
という「染物屋のききょう屋」の小僧さんの放つ言葉の活字が、音として耳に滑り込んだ。
黙読しているはずなのに、目から入った情報が脳で音に変換されてしまう。
中高と演劇部と放送部だった私は、ただの活字にも抑揚を意識する機会が多かった。

気に入った物語はそらで暗じるくらい読んでしまう。
「きつねの窓」は、昔の小さなフォントで10ページちょっとのものだから、本を手放しても十分に語れるくらいになった。

それを3度、人に語ったことがある。
当時の恋人と、恋人になりたいなぁと思っていた人。
もちろん、時期的に重ならないようになっている。
夜、自宅に送ってもらう道を遠回りして物語をした。
その結果、語り終わったタイミングで、告白やプロポーズをされる結果と相成った。
3度目は、前2回に味をしめて、ひそかに企んでいたふしがある。
いずれにしても効果絶大の物語。

それから。
私も「ぼく」のように「窓」の中に別の世界を求めるようになった。

家々の屋根がオレンジに染まっていく夕暮れや、ポツンポツンと灯っていくマンションの窓の灯り。
空を分かつ電線の波や、揺れている公園のブランコ。
忘れもののような三輪車。
きつねの窓の中に収めると、そこだけ何か違った空間が広がる気がして。

そんなことはあるわけないとわかったうえで、覗かずにいられないというときが人生にはあると思う。

物語は、次のように結ばれている。

それでも、ときどき、ぼくは、ゆびで窓をつくってみるのです。
ひょっとして、なにか見えやしないかと思って。
きみはへんなくせがあるんだねと、よく人に笑われます。

人それぞれの好みだと思うけれども、私は、誰かが「このお話が好き」というとき、その物語との出会いのいきさつやその後の関わりも知りたいと思う。
それを知ったとき、興味の対象が「もの」から「ひと」につながっていく。
これもきっと「旅」と同じ。

それなしでは、すべてが「他人の本棚」の話で終わってしまう。
所詮は他人の価値観と割り切っていても、それだけではやはり淋しい。

なお、「きつねの窓」は、「南の島の魔法の話」に収録されている。
この中では、「鳥」も大好き。
またいつか書くかもしれない。

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