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「人生ゲーム」が好きじゃなかった。

父は、その日に食べるものもないのに、必要ないものにお金を使ってしまう人で、特に「賭け事」に目がなかった。
パチンコやマージャンや競馬などのギャンブルはもちろん、家庭でも何かあるごとに「賭けるか」と言った。
それで、ゲームをやりたがった。

そしてついに、家にあるトランプや花札や麻雀だけで満足せず、ボードゲームを買ってきた。
支払いを滞納して、電気が止まるか、アパートを追い出されるか、というときにだ。

「人生ゲーム」の8代目版が発売されたそうだ。
その初代か2代目が、私がやった最初のボードゲームだ。

ゲーム盤では、特に「高給」とされる職業のマスに止まれなかったときも、最低限の職業が保証されて給料がもらえる。
すごいことだと思った。

当たり前のように「結婚」もする。
「子供が生まれる」マスも、やたら多かった。
増えた子供のピンがコマである車に差し切れなくて、無理やり横向きに入れた。
その「当たり前さ」、「普通さ」、「多くの人がそうだ」ということに違和感を抱きながら、ルーレットを回した。
だから「隕石に当たった」とかの突拍子もないマスに止まることは、たとえマイナスであっても、私に歓喜をもたらした。

最新版では「結婚」しないままゲームを進めるケースもあるという。
「子供が生まれる」から「子供を迎える」になった。
「産む」に固執しなくなったのはいい感じだ。

何代目かからは、ラスト何マス目かでの「大立者」の一発逆転がなくなったらしい。
あれは本当に不思議なシステムだった。
すべてのプレーヤーがそこに止まって、人生の最後の決算をする。
株券を売却し、保険証券や子供の数によって手当がもらえる。

そしてすべてを現金に換えて、それを賭けてルーレットに勝つと「大立者」になれる。
大立者になると、自動的にすべてのプレーヤーのトップになる。
いまは、勝つと賞金がもらえるだけになったようだ。
それはそれでつまらない。

父は、その性分から、必ず大立者にチャレンジした。
お金やスピードがトップを走っていても、最後に賭けをした。
そして、ほとんどの場合で、全財産を失ってビリになった。
それでも父は嬉しそうだった。
現実の人生における父の選択と、きちんと合致していた。

私も母も兄も、現実生活で懲りていたので、2位も3位も喜んで受け入れ、けしてそのチャレンジをしなかった。
たとえゲームでも破産なんかまっぴらだと思っていた。

それにつけても「大立者」とは何ぞや?
いまもよくわからない。

それにもましてわからないのは、最後にたくさんお金を持っている人が勝ちという価値観だった。
途中でお金をたくさん持っているのはいい。
若くて活動できるうちに、その資金がたくさんあるのは幸せなことだ。

でも、人生の終わり間近で、保険も全部解約してしまって、あとは死ぬだけなのに現金を一番持っている人が勝ちなの?

実は、私は「人生ゲーム」があまり好きじゃなかった。
早く進んで、一番先に橋を渡った人が、あとから来る人の通行料をもらえるのもなんか理不尽だった。
「早ければいい」という価値観が合わなかっただけのもあるが、商売があくどいではないか。

最初に高給の職業に就けた人と、そうでない人の差が、最後まで縮まらず、逆転現象がほとんど起こらない。
序盤で人生の「上がり」の見通しがついてしまうことが面白くなかった。

年を重ねて、いまは父の気持ちがわかる。
最後に「一発逆転」のために全財産を賭ける父の。

でも、いまもたぶん、私は大立者になりたいとは思わない。
そして、リニューアルされた人生ゲームもあまりやりたいとは思わない。

でもやったのは、父の笑顔が見たかったから。
そんなときしか見られなかったから。
嫌いなゲームのニュースに飛びついたのは、もう2度と顔を見ることのない家族を懐かしんでいるから。


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