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あなたも

10年以上も前だが、忘れられない光景がある。
私は、父の四十九日を終えて帰宅する途中だった。

ボストンバッグと喪服の入った紙袋を抱えてホームのベンチで電車を待った。
すると、逆方向の電車から、老いた女性とその息子だと思われる中年の男性が降りてきた。

女性は、泣きそうな声で繰り返している。
「危ないよ、危ないよ。」

女性の足は、なかなか前に出ない。
降りたのも、ドアが閉まるギリギリだった。
本当に危ない。

思わずベンチから立ち上がり、ふたりのもとに歩み寄った。
何か声をかけたい。
何か手をさしのべたい。
そんな突き上げるような衝動があった。
抱えていた荷物をベンチに残したままだった。

そのとき。

私の目の前に、別の女性の姿が割り込んだ。
そして、躊躇なく、母親と思われる女性の手を取った。
私と同年代の女性だった。

老母の息子さん(たぶん)は、両手に荷物を持っていて、うまく彼女を支えることができないのだった。
私は、息子さんが持っている母親の花模様の布袋やらなにやらを持ち、空いた片手を彼女に差し出すよう促した。
そして、三人で「大丈夫、大丈夫、もう危なくない」と繰り返した。

ふたりが降りた方向の電車がまた来た。
この駅で下車するのかと思ったら、そうではなく、車内で彼女が騒ぐからいたたまれなくなって降りたらしい。
ふたりは、また電車に乗らなければならないのだ。

いったんおさまった彼女の泣き声がまた響きだした。
「危ないよ、危ないよ」

1歩ずつ前に進めようとするが、老いた身体は腰を引いて拒絶する。
電車とホームの間は、それほど空いていないが、彼女にしてみれば地獄の口が足元に開いているように見えるのかもしれない。

なぜ、これほどの人を電車で連れて行かなければならないのかという意見を、私は遮断する。
車がない人、免許がない人もいるし、なぜないのかと言われても、手に入れるお金がない人だっている。

いや、母親本人が車を拒絶しているのかもしれない。
それしか方法がないからしているのだ。
しかたなく、けれども必死にやっているのだ。

手がつけられないほど呆けた父を、なぜ病院や施設に入れないのかと言ってくださる人があったことを思い出す。
それができたら、とっくにそうしているのに。

人はみな、できることとできないことが違う。
自分に可能な範囲で精一杯解決を図るしかない。

発車の音楽が鳴った。
ドアに手をかけ、閉まらないようにする。
駅員さん、こっちを見て!
まだ、閉めないで!

泣いて怯える彼女を、押し込むように車両に入れる。
先に乗った息子さんが引き上げる。

みんなで繰り返す。
大丈夫、危なくないよ。

ドアが閉まる。
荷物を床に放り出して、息子さんが老いた母を抱きしめている。
その目に涙があふれている。

見ず知らずの通りすがりの女性とふたり、電車を見送った。
どうかつつがなく目的地に着けますように。

何か話したいと思ったが、声が出なかった。
声を出そうとすると、嗚咽になりそうだった。

心の中で、あなたも、ですか?と問うた。
あなたも、老いた親御さんをお持ちですか?
病んでいますか?
呆けていますか?

彼女の目が濡れて、私に同じ問いかけをしていた。
あなたも?

結局、とりたてて言葉は交わさずに別れた。
それでいいと思った。


ひとさまの内情を詳しく知る機会は少ない。
だからこそ、わずかでも感じた共通の土壌にすがらずにはいられない。

みんな、暗闇は怖いのだ。
だから目を凝らすのだ。
安心したいから、好きになりたいから、相手の置かれた状況を、そして心を知りたいのだ。
そして、どうしても知ることが叶わないとわかると、不安や恐怖を覚えて逃げ出す。

昨夜からひどい下痢になって、連休明けの初日はリモート勤務。
夕飯を食べる気がしない。
食べたらまた痛くなるのではないかと思うと、食欲よりも恐怖心のほうが勝つ。

何を怖いと思うかも、人それぞれ。
ときには他人には想像もつかないこともある。


読んでいただきありがとうございますm(__)m