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どうかしてるほど高いけど買ってしまった。

焼きあがると、食パンがパンッ!と飛び出すトースターは、結婚するときに買った。
あのパンッ!は、私にとって、新生活のスタートの象徴であるだけでなく、ある意味で「文明開化」だった。
私を含めた実家は、上京して20年経っても、意識の上では田舎者で、婚家にとっては「未開人」のようなものだった。
育った生活レベルの差は、感覚の違いに顕著である。

結婚当初、天ぷらは天つゆにつけて食べるものだとは知らなかったし、すき焼きを卵に浸して食べるなどとは想像したこともなかった。
夫にすれば「いつの時代の人?」「どこの国の人?」という感じだったろう。

ほどなくして、ロールパンやピザの温めには、ドアを開ける形のオーブントースターが便利とわかり、飛び出すトースターは棚の上部にしまわれたままになった。

片付けをしていたある日、それに気づいて、実家の母にあげた。
母も、最初は飛び出すのが面白くて使っていたようだが、いつのまにか棚に片づけてしまった。

実家の朝食がご飯とみそ汁からパンと珈琲に変わったのは、いつのことだったか。

上司とケンカをしては退職を繰り返す父が、知人の詐欺師の口車に乗っては何度も会社を興した。
そして、結果として有り金を持ち逃げされたり、保証人になったゆえに多額の借金を背負わされて倒産、夜逃げというお決まりのコースをたどった果てに、ようやく何度目かの事業が軌道に乗り出したのは、私が高校生の頃だ。
でなければ、私の進学は叶わなかったと思う。

自営となって、納期が近くなると、両親は昼夜を問わず働いた。
おそらく、そのあたりに、朝食の簡易化のための和洋転換が図られたのだと思う。

そうして、私があげた飛び出すトースターの短い使用期間を除いて、母はいつも「焼き網」で食パンを焼いていた。

私は、母に料理を教わるという経験がないので、「おふくろの味」的なものは、すべて私の想像による試行錯誤の結果である。
それでも、懐かしいという母の味はあって、ひとつは「卵焼き」、もうひとつは「トースト」。
両方とも、ひどく焦げている。
火にかけながら、仕事のことに気も手も取られ、ちょっと目を離したすきに焦げてしまったという代物で、ほかの人から見れば明らかな失敗作である。

夫と別れ、一人暮らしになって、まず食べたのは「母の卵焼き」。
醤油ではなくだし汁と砂糖を入れたきれいな黄色で、焦がすなどもってのほかという夫の基準から解放され、母の、いや母と私の卵焼きには醤油を入れる。
だから、そもそもがきれいな黄色じゃなくて茶色がかっている。
それを私は、さらにわざと焦がす。
醤油が焦げたところが美味しい。

そして、トーストだ。
この数年間、ずっと探し続けていた「焼き網」。
嫁いでからも、実家ではガス直火焼きのトーストにありつけたが、すでにその実家はない。
「あれは絶対トースターで焼いたのより美味しかったよね」と思い出を共有する家族もいない。

あのトーストを再現したいというのが、私のここ数年の念願だった。
しかし、実家にあったような焼き網にはなかなか出会えない。
母が購入したものだから、高価なものではありえない。
スーパーやホームセンターで容易に手に入る普及品であろうとたかをくくっていた私は、ずっと肩透かしをくらったような気分だった。

先々週だったか、なにげなく検索してみたら、想像していたのとは違うが、ちょっと良さげな商品を見つけた。
しかし、値段が高い。
焼き網にそんな金額を出すなんてどうかしてる。
当然、スルーした。

だが、買った人のコメントに「これで焼いたトーストが美味しい」というのがあって、頭から離れない。
1週間、朝食のたびに、あの焼き網が脳裏に浮かぶ。

私はあと、何回朝食を食べられるだろうか。
コンビニに牛乳を買いに行く途中で車に撥ねられた記憶が、3年近く経ったいまも生々しい。
あのとき死んでいてもおかしくなかった。

コロナ禍になってから旅にも出ない、外食もしていない、飲み会にも参加していない、美術館にも行っていないという、家電総買い替えのときに使った言い訳が、しきりに頭の中を行きつ戻りつする。
迷っているふうを装って、なんのことはない、私は私自身を懸命に説得していたのだった。

そして、先週の初め、ついにポチッた。
在庫切れとなっていたのだが、急ぐ話でもない。
楽しみに待とう。

おなじみの大手通販サイトではなく、町工場の名残りを感じる製造会社に直接申し込んだ。
けれど、職人さんが頑張ってくれたおかげで、昨日、無事に商品が到着。
父と同じ職人のにおいがする。

わざと焦がすと、母の味になった。
とてつもなくゴキゲンになって、昨日のコスモスに引き続き、バラを見に外出。
お隣の友人を誘ってみた。
一人の機会をあえてやめて、人を誘って出かけるなんて、私には珍しいこと。

ソフトクリームも食べてしまった。

バラとミルクのミックス

帰り道で「はちみつ屋」さんを見つけて、フラフラと吸い込まれる。

10種類くらいを試食して、これに決めた。
アーモンドの香ばしさの中に、南欧の白い花のイメージがこぼれる。
午後2時過ぎに帰宅して、また「朝食」を食べた。

イングランドで、「この国で美味しいものにありつきたかったら朝食を3度食べればいい」と言われたのを思い出した。

昨日は、追悼の思いで「アリス」を聴き始めたけど、やっぱり今の私には日本語の歌は無理と感じて3曲でリタイアしてしまった。

時代が変わっても昔と同じ感覚なのも嬉しいが、変わりゆくものも大切。

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