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私はこうして社会人になりました その3 引きこもりと出逢い…

皆様、こんにちは。

もしもこれをご覧になられる方、
冒頭、私は25歳後半から31歳あたりの
一部の記憶が欠落しています。

それを踏まえてこの先お話しさせていただきます。

本日もよろしくお願いいたします。

時は1995年の10月から始まる。

退院して、仕事も辞め、目指すものがない…
お先真っ暗…
どうしていいのか分からなくなっていた。

次第に恐怖心が芽生え始め、
毎日何かに怯え、襲われるのではないか?
そんなことばかり思う毎日…

自信も失っていた。

自分は何の役にも立たない
社会のお荷物…

時折、布団に潜り込んでしまう始末。

眠れない日が連日続き、
3日、4日寝ないのがあたりまえになって
二階の自室から朝日が昇って見る日々もある…

テレビばっかり見て…
午後からば昼寝の毎日…

郵送で同窓会通知があったけど、
当時無職でもあり、恥ずかしさもあり、断った。

これだけは忘れもしない。
10月30日…
病気のことがどこかしら漏れたんだと思うが
短大時代から仲良くした友人から解消の申し出があり、
去る者は追わず来る者は拒まずを考え、
アイツはそこまでの人間だったと思い、承諾した。

社会的に…
人的にすべて失い「ぼっち」になった…

食欲もなく…体重はみるみるうちに減り、
一時12kg落ちた。

母からは

「いつ治るんだ!」
「早く治せ!」

ほぼ毎日この繰り返し…

このままではダメだと分かりつつも
勤労意欲が薄れて行く。

たまにひとりで外出すれば
バスへ乗ったはいいが見慣れている風景なのに
「どこ連れて行かれるのか?」
恐怖が先走って途中下車はあたりまえの状態。

当然、今のように自動車やバイクの運転はできない。
自転車に乗って眩暈して転倒するくらいだからね…

転院を繰り返し、当時住んでいた病院は行き尽くした。

当時25歳だった自分は…
短大時代もう一人「K」なる友人がいて、
私が無職なのを知りつつ、
千葉習志野から遠路はるばるやってきて
ドライブに連れてってくれた。

あの時は感謝で頭が上がりません。

土浦駅前/以下のの写真も友人が送付してくれた。
当時ここを皮切りに千葉銚子まで連れていかれたのを思い出す。
JR偕楽園駅/建て替えられてキレイになりました…
日本三名園 偕楽園

その夜父と話し合い、
「精神科受診してみては?」

私は抵抗があった。

入院?
手足縛られるのか?

それと言うのも
前日ドキュメンタリー映画を見てしまって、
その記憶があったから。

場所は…県北にある
「国立水戸病院」

父が公休でない時、母に付き添ってもらい、
嫌々ながらも週1回の通院生活が始まる。

初診前、待合スペースで再会があったのを覚えている。

「M」は中学1年の頃、同じクラスで
2年生の時、転校して行ったヤツとの再会。

同じ病を抱えたようで
どのような会話をしたのか記憶が薄いが、
私から声を掛けることが無かったこと、
小学生時代の話などした記憶だけはある。

そこで「S」先生との出逢いがあったけど、
よりにもよってはじめましての日に
医師の転院が決まっていた。

「茨城県立友部病院」

異動に伴い、私も移るか否かの選択を迫られ、
紹介状を携え、転院を決めました。

診断は「うつによる圧迫不安神経症」

診断を受けた時は
「そんな病ってあるの?」
そう感じたのが第一印象です。

ここから投薬治療とカウンセリングが
始まるのだが…

11月に継続できない事情が出て来た。

ここまでご覧いただきありがとうございます。
皆様にとって佳き一日であることを祈ります。


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