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「フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇)」を読み解こう

※2022年9月14日現在、note引用元のsagtmod氏からの指摘修正
 このnoteはあとがき以外は無料で読めます。


まえがき

 タイトルの通りであるが、

キリスト教の造詣に富むsagtmod氏のnote「フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇)」を読み解いていこうと思う。宗教の問題点について述べたnote少子化対策について述べたnoteで軽く触れたことはあったが、今回はほぼ全文を解説する。とはいえそれでもかなり難解であるため、読者の方にも理解するための苦労を強いることになってしまうであろう。ご了承頂きたい。
 実は1年程前から書こうとしていたテーマだったのだが、私に精神的余裕がなかったのに加え何より文章があまりに難解すぎたため、1年越しでの執筆となる。また、noteの参考文献となっている書籍を読んではいないためあくまでnote単独の話になる。そのため読解を間違えているところがあったらコメント等で指摘して頂けるとありがたい。(筆者本人からの指摘であればコメントを確認し次第すぐに修正する)

 また、今回紹介するのはあくまで前篇である。

前編では、キリスト教の男女観を提示する前に、我々自身がよく馴染んでいる男女観を、後編の理解に役立つ様な仕方で提示したところまでで論を止めている。

引用 : フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇)
sagtmod
以下断りがない限り引用元の表記省略

 本当は後篇まで公開されてから書くのが筋かもしれないが、時間がかかっているようなので差し当たり前篇のみとする。
 それでは本編へ向かおう。


キリスト教的男女観と成長発達人間観

 キリスト教は、今日のジェンダー論的概念で特徴づければ、家父長主義以前の一対婚に拘る宗教である、と概ね言えるのだが、保革左右双方の多くの人とって、その事態は、そう言われただけではピンと来ないのではないだろうか。理解を妨げているのは私達の思考の型であり、それは男女観というより、男女観がその中に収まるより大枠の人間観と言った方が良いのだが、私はさしあたり成長発達人間観と呼んでいる。

 「家父長主義以前の」という部分はnoteの方でも述べられているので後述するが、キリスト教は一対婚(一夫一妻)を良しとする価値観があるということだ。

 また、成長発達人間観という筆者の造語が出てくるが、この言葉の意味としてはキリスト教的価値観とは違う人間観という程度の理解で構わないと思われる。つまり、キリスト教的な一夫一妻制という価値観とは違うということだが、実はこの後、

性の言説で我々の現実生活形成に介入する権力をかなり勝ち得た文化左派の男女観は、私が見る所大筋この枠組の中にあるし、悲しいことに反動右派もそう変わらない。〈略〉成長発達人間観の浸透力は一般的にもかなり強く、気がつくとキリスト教もその枠組の中に収められて誤解されてしまう(この傾向は、後に触れる様に日本だけの問題でも過去の一時期の問題でもないようだ)。

と述べ、私たちの男女観が成長発達人間観の枠組み内にあることを強調し、そのせいでキリスト教的価値観を理解できないのだとしている。

 このキリスト教的価値観とは何なのかというのは後の方に述べられているため、焦れったいと思われるかもしれないが文章の時系列順に説明していく。
 すぐに結論を知りたい場合は本noteの目次まで戻って頂き、  キリスト教の一対婚への拘りと成長発達人間観  まで飛んで頂きたい。sagtmod氏のnoteであれば  2:成長発達主義的人間観、あるいは、「創造と堕落」の物語を見誤らせる「成熟と喪失」の物語  の辺りからが本題であろうか。そこまで飛んで頂きたい。ただ個人的には時系列順に読んだ方が(私も筆者も前の章で述べたことを知っている前提で書くので)理解しやすいのではないかと思う。
 文章の時系列順にご覧になりたい方はそのまま進んで頂きたい。


「野蛮な進化心理学」

 筆者はダグラス・ケンリックの「野蛮な進化心理学」を挙げ、米国人がキリスト教を支持しているかどうかと彼らの婚期の時期に相関が見られるということを紹介している。

大学進学などのキャリア形成によりどうしても婚期が遅れがちな人々は、〈略〉性的伴侶として恋人や行きずりの相手を求める。その関係はキリスト教的な一対婚規範からすれば外れるものになってしまう訳で、人間にとってかなり根本的な渇望である性的満足の為に取らざるを得ない経路を塞いでしまう様な教えを奉じ続ける苦行を営む動機は常人には維持しづらい。一方、低学歴で働き始め早く家庭を築く人達(※1)はこの種の葛藤にさほど苛まれずに済む。〈略〉
(※1)比して以下のような本邦の現状も、宗教性の有無という観点から解き明かせば面白いのではなかろうか。
https://twitter.com/RodinaTP/status/1326666107646746624?t=v6erg11ZGT9C5dUsDvd7vw&s=19

 「以下のような本邦の現状」は上に挙げたリンクから直接飛べるので参考にして頂きたい。

 つまりまとめると、高学歴の人ほどキリスト教的価値観から外れ(成長発達人間観の枠組みにより近い)、低学歴の人ほどそのような傾向が見られなかったということだ。これは低学歴の人は馬鹿だから宗教的価値観に疑問を抱かず、高学歴の人は頭がいいから宗教的価値観に惑わされないというわけではなく、単なるライフスタイルの違いである。

 また、noteで以下に紹介するブログが挙げられている。

人生の早い時期に結婚して不倫もしない品性公正なマイホームパパと、全然モテない上にこれからの人生でもさっぱりモテそうにない非モテ男子は性に厳格な(婚外交渉を厳しく罰する)信仰を強く支持し、逆に、モテモテだったり、大学院まで進学して高度な知識や技術を習得する代わりに結婚の時期を先送りにしようと考えている人間は保守的な信仰心を否定するリベラルな思想を支持する傾向がある、ということです <略> 。

引用 :  『野蛮な進化心理学』ダグラス・ケンリック 著 レビュー①~思想とカルチャーの規定要因について~
kattann2525

 このサイトで紹介されている「野蛮な心理学」の引用を以下に挙げる。

結婚前のセックスを罪悪と見る規範は、人々を早婚へと向かわせる。また中絶と避妊を罪悪とすることで、子づくりが促される。ジェイソンは、これらによって宗教右派に属する一般的な人物像が、リベラル左派のそれに比べ学歴が低い理由の説明ができると主張する。つまり、家族の面倒を見る時間が増えれば、学校に残って哲学や神経科学といった分野で高い学位を取得するのが難しくなるというのだ。これは、一夫一婦制を遵守しながら高い出生率を達成するという長期的な戦略をとる場合に生じるトレードオフのひとつだ。
またこの戦略には、純粋に繁殖という観点から見ても、コストと利益の両方がある。たとえば一夫一婦制を守る家庭的な男性が、妻や子供に多くの投資をしているのなら、それは他の交配機会をあきらめることを意味する。だが一方で、男性は自分が子供の本当の父親だと知ることができないため、乱交を禁じる厳格な宗教規範があれば、実は別人が父親だったというリスクが減り、自らを助けることになる。これに対し、一夫一婦制を守る家庭的な女性は、男性を補完するような形の妥協的立場に置かれるー規範を厳しく適用することで夫の浮気はなくなるが、よりセクシーな遺伝子を子供に与えるであろう、自由奔放な魅力的な男性と付き合う機会も減ってしまうのである(中略)。

引用 :  『野蛮な進化心理学』ダグラス・ケンリック 著 レビュー①~思想とカルチャーの規定要因について~
kattann2525

 引用が長いが、要はモテない男は自分の妻に托卵されるリスクを減らすために保守的な宗教的価値観を持ち、モテる人は自分の性的自由を制限されたくないのでリベラルになる、という身も蓋もない話である。また女性は高学歴だとライフプランとして社会進出をしたがる傾向にあるためリベラルになり、低学歴だと家庭に入ることを選ぶようになる傾向にあるので保守的になる。リベラルな女性でも家庭に入りたい願望があるのは自明の理だが、ここでは触れないことにする。

 またこのことからどちらかというと恵まれた人がリベラルになりやすく恵まれていない人が保守になりやすいことも読み取れる。


「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」

 また、筆者はサトシ・カナザワとアラン・S・ミラーの共著である「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」も挙げている。

とかく物騒視されやすい宗教原理主義の中で、自爆テロを起こすのは殆どイスラームだけであり、その原因は〈略〉現世において伴侶獲得競争を激化させる教義上許容された一夫多妻制と、篤信者が受ける資格を得るとされる天国での処女フーリーの饗しという、部外者無しでも成り立つ彼らの世界観内での自己完結的なメカニズムが、敗北者の男性信者に命がけのテロリズムを敢行させる動機を与えている事を解き明かしている。実際、テロリストはほぼ例外なく独身男性なのだと言う(※2)。〈略〉(※2)そうした事実を踏まえると、ミシェル・ウエルベックの様なひねくれ者の反動的男性作家や、日本の市井アンチフェミニスト達が、イスラームを、堕落したリベラリズムを撥ね返す強靭な対抗馬を見る様な目である種の感嘆込みで持ち上げるのはかなり奇妙な事態に見える。リベラリズムが、男性間の性的勝敗の格差肥大という点で問題視されているのであれば、同じ問題を神の権威を以て正当化するイスラームは尚更疎ましいと思うのだが…。

 イスラム教では一夫多妻制度が教義上許されており、そのため妻を得られなかった弱者男性は容易に「無敵の人」になり得る。こうして不満を募らせた弱者男性が起こすのがテロである。これはフェミニズムによるバックラッシュと似ている。これはフェミニズムによって実質的な一夫多妻制度のようになっているためだろう。

 元々はリベラルであったはずのフェミニズムがイスラム教と同じような状況になっているのは皮肉と言わざるを得ないが、とにかくイスラム教はこのように「無敵の人」を生み出しやすい点でフェミニズムと近い部分がある。そのため、アンチフェミ界隈でイスラム教を持ち上げるのはお門違いだと筆者は述べている。そしてその一方で、イスラム教と同じような一神教という側面を持ちながらも一夫一妻制に拘るキリスト教と対比している。

片や、スティーブン・ピンカーが指摘するように、キリスト教は成立当初より一夫一婦への強いこだわりを武器としている。〈略〉ケンリックの調査からもわかる様に、このこだわりは今日でも中々強い。

 そしてスティーブン・ピンカーの著書「心の仕組み」を紹介している。その後に「進化心理学で宗教の起源を解説」という関根弘葵氏のnoteが収録されていたように記憶している(ブックマークしていたのでURLは追えた)が、残念ながらURLが無効になっているので削除されたのかもしれない。「関根弘葵」なる人物も見つけられなかった。読んだことのある方がいらっしゃったら(もしくは筆者ご本人が)内容を教えて頂けると大変ありがたい。

 話を戻そう。キリスト教が貧しい男(弱者男性)に受けたのは、一夫一妻制という規範のおかげで自分も配偶者獲得の機会を得られるからである。

 ただ、だからといってキリスト教が、保守的な意味でのフェミニズムの対抗馬になると安易には考えないことだ。その理由は次の章で説明する。


宗教への期待の批判

 今日、宗教、特に一神教の意義を唱える人々は、その何に期待しているのだろうか?共通善や自然法と云った普遍的基準を提示し、結局のところ人間のエゴイズムを増長させるに過ぎないリベラリズムと人権思想の弊害によりバラバラになった孤立個人達を統一する為の、強力な権威としての神なのだろうか?
 道徳の基礎づけに神をもって来る立場を道徳的「神命説Divine Command Theory」と呼ぶのだが、この立場は神不在の世界を、ひたすら肥大していく個人の我儘、身勝手、私利私欲、短慮の前に為す術もない我欲まみれの亡者共の沼地の如くカリカチュアライズして描き勝ちに思う。対して、宗教は公共意識や利他性や自己犠牲精神や神の前での人間の謙虚さや、といった忘れ去られた諸徳を培ったり、有無を言わせぬ強力な神命で以て秩序を崩壊から守ったりする、という訳だ。

 人間の欲望を助長するリベラリズムは宗教によって抑えられる。このように考える人がいるが、そういう人の主張ではさも宗教がない状況では制約がないと人間が欲望を抑えられないかのように描写されていることが多い。

 似たような言説として「リヴァイアサン」で有名なトマス・ホッブズの「万人の万人に対する闘争」があるが、これも人間を性悪説で捉えている。人間は自由な状態では欲望を抑えられないので、大きな権力(神命説では宗教、リヴァイアサンでは政府)が必要だということだ。

 このような宗教へのある種の期待に関して、筆者は懐疑的である。

だが、先のイスラームのジハディストを例に取っても、蓋を開けてみれば彼らの動機は劣情塗れであり、神への信仰を余り有さない我々多くの日本人にとっても(是認も信用も出来ないが)共感や理解は(特に男性であれば)出来る欲望の成就を狙ったものであるようだ。三大一神教の中では最も保守的で反リベラルと目してよかろう、イスラームの中の更に極右的過激派ですらそうなのだ。他の二教も推して知るべしであり、キリスト教に至っては、寧ろ「律法から恵みへ」という形で道徳的神命からの解放を大なり小なり売りにしている面すらある。

 イスラム教原理主義者によるテロはもちろん許されることではない。しかしその背景を考えてみれば、特にフェミニズムによって抑圧されてきた男性であれば共感できるのではないか。三大宗教の中でも最も保守的なイスラム教でさえ我々が理解できるような欲望の成就を目的としている。況んや、他の二宗教をや。

 この後4つリンクが貼られているが、これらに関する言及はない。初めの2つは宗教とは何かについて語っている。

 宗教とは超自然的なもの(神や仏など)を信じることを宣言し、多くの人が信仰するように努力するものだとデネットは定義付けている。また、キリスト教の関連ではデネットが神に抱くイメージがサタンのようなものだという。

 そしてキリスト教が「保守的で道徳的な」規範で縛るようなものではないのに「道徳的な一夫一妻制」と保守派の人々に語られていることを皮肉っている。

 これで、保守派がよく主張するという、リベラリズムへの対抗馬としての期待を宗教に向けるのはお門違いであることが理解できたかと思う。少なくとも「キリスト教は保守的な一夫一妻制を維持している」という考えは誤りなのだ。


経済の左派・右派にも性が絡む

 小山氏が述べているのは、キリスト教右派が宗教的には右派であるのに、経済政策では左派であるのは珍しいということだ。しかし、キリスト教右派であっても経済では左派を支持する場合が多いのだ。むしろそちらが主流でさえあるようである。

 そもそも経済左派・右派とは一体何か。

自国通貨の価値を毀損してまで流動性を供給するとか、公共投資を増やしてケインズ的な効果を狙うというのは、国際的な常識から見れば極めてリベラルな経済政策に属します。ですから、現在の安倍政権というのは政治的には保守ですが、経済政策は相当に左寄りだということが言えます。
 反対に、「目先の景気よりも、中長期的な財政規律」を心配する態度であるとか、自国の通貨を防衛しようという立場、あるいは公共投資などの支出を抑制しようと言う姿勢は、保守の経済政策になります。ですから、安倍政権と比較すると、その前の民主党政権というのは政治的にはリベラルでも、経済政策は保守ということになります。

引用 : 日本の経済政策は、なぜ右派と左派でねじれているのか?
冷泉彰彦

 端的に言うと、自由主義的な経済政策を行うのが経済左派、公共投資を抑制するのが経済右派である。この経済左派・右派だが、これにもキリスト教の男女観が関わっている

今となっては、福音派(キリスト教保守派)といえば共和党の支持基盤であり、小さな政府を掲げる経済右派の御用宗教の様なイメージがあるが、実はそれはかなり最近と云って良い様なある時期からの事で、意外なことにそれもキリスト教の性への拘りを一因としている。彼らが経済右翼政策を掲げる共和党の支持に集中し始めるのは1970年代からであり、60年代に勃興した性革命に反発した保守的な人々が福音派の成長を促し、共和党がこの票田に目をつけ、その後の蜜月に至るというのがことの成り行きであるらしい。福音派が共和党を支持する主な理由は、その性的保守性であって経済右派性にさほどの頓着はないようである(※3)。〈略〉(※3)有料コーナーへ。コミュニタリアニズムとは、ユダヤ・キリスト教に支えられた、C・S・ルイス的な文化保守と経済左派の両立路線と見なせるのだが、日本人でもアンチリベラルに多い、コミュニタリアン的主張を唱える人達は、一体どの宗教を思想的支えを頼るつもりなのか、という批判。

 その後、筆者は「アメリカの恩寵」と「キリスト教の精髄」を挙げて引用を記している。

すでに見てきたのは、1960年代の終わりから1970年代はじめの数年間に、劇的に性的規範が変化したさまだった。婚外交渉、同性愛、ポルノグラフィーそして中絶の含まれる、これら相互に結びつきあった問題は長き60年代に白熱した。その次代に全国的な規範はリベラルな方向に変化したが、〈略〉文化革命に飲み込まれなかったアメリカ人は、その革命〈略〉に対する自らの抵抗への支持を、より保守的な宗教系統に求めた。すぐ後に見るのは、性道徳(或いは不道徳)についての懸念が、福音主義の台頭に緊密に結びついているという事である。『アメリカの恩寵』p120

白人アメリカ人における宗教性は今日では、貧困者への政府支援に対する保守的な見方と結びついているが、このつながりは <略> 性道徳に対する見方の間の相関よりはずっと小さく、また政党支持やイデオロギーと、貧しい人への支援に対する見方の間の相関よりもずっと小さい。p256

1970年代に先立っては、教会に行くかどうかは政党選考とほぼ関係がなかったことはこれまで見てきた。…六十年代の社会的喧騒のために、まさしく非常に個人的な争点の新たな集合によって政治は定義されるようになり、その中に中絶が含まれていた。…長き六十年はアメリカ社会に対する衝撃であって、その影響は未だ感じられるものになっている。引き続き到来した第一の余震は、アメリカ社会に響き渡るもので、神学的に保守的なーー主として福音派のーー宗教が復興した。この第一の余震はまたアメリカ政治に波及し、選挙民の中に新たな分裂と連携を生み出した。宗教的な者の合同が一体となり始め、そして宗教右派として知られる政治運動が誕生した。p387

 アメリカでは規範がリベラル寄りになっており、その反動として福音派という保守的なキリスト教の系統が台頭してきたというわけだ。いつの時代でも、ある思想に偏ると必ず揺り戻しが起こるのだという好例だろう。

もしこんな社会が現実にあって、私達がそこを訪れたとしたら、私達は奇妙な印象を抱いて帰ってくるのではないかと思う。その経済生活は非常に社会主義的であり、その意味では「進歩的」だが、その家庭生活や礼儀作法はどちらかというと旧式で、儀礼的・貴族的とさえ言えるーーこんなふうに我々は感ずることだろう。我々はそれぞれ、この社会のある面を好ましいと思うだろうが、この社会全体が気に入ったという人は、余りいないのではないかと私は思う。しかしキリスト教が、人間という機械を動かす為の全体的計画であり、またその計画通りに人間が動いたとするなら、今言ったような結果にならざるを得ないのである。『キリスト教の精髄』C・S・ルイスp140

 「キリスト教の精髄」の方は引用が上記のものだけで文脈が読めないため推測でしかないが、恐らく「こんな社会」とはすなわちキリスト教的価値観が根を下ろした社会であり、キリスト教の思想が一義的ではないことを示していると私は解釈したが、違う解釈があったり筆者本人の解釈があったりしたらコメント欄で教えて頂けるとありがたい。

 その後のリンクは筆者のツイートだが、チャールズ・テイラーの「〈ほんもの〉という倫理」の引用を紹介している。

 アメリカのキリスト教右派は、性道徳の面では保守的になり(中絶を否定するプロライフもこちら)経済では左派的になる。逆に自然保護を訴える人々が女性の中絶の権利を訴えたりする。
 まさに、「野蛮な資本主義経済左派に反対する人達の方が、野蛮な資本主義を何の迷いも無く擁護する人達よりも所有的個人主義宗教左派(ここでは中絶の権利)を徹底する事がある」のである。何とも皮肉的である。

 以下のサイトはnoteに貼ってあったリンクではなく私が見つけてきたものだが、これも宗教右派と経済左派という矛盾を端的に説明しているだろう。

バックリーはカトリックですが、第二バチカン公会議では改革派に反対する保守派の立場で、強硬な反共産主義でした。ゴールドウォーターの大統領選挙敗北を受けて、バックリーは「自由のためのアメリカ青年運動」YAFによって共和党の保守の人材育成につとめ、小さい政府を謳うリバタリアン主義としての「家庭重視」「性道徳重視」「キリスト教的な倫理観」を基盤に保守思想を形成しました。

引用 : キリスト教右派から読み解くアメリカ政治
(太字とリンクは筆者加筆)


ここまでのまとめ

 時系列に従ってここまで読んで下さった方には感謝する。私自身勉強不足な点もありその上参考文献の書籍は1冊たりとも読めていないため、誤読や誤解もあったかもしれない。間違いの指摘等はコメント欄にして頂けるとありがたい。

 これまでの章のまとめとしては、

恵まれた人がリベラルになりやすく恵まれていない人が保守になりやすいが、保守は万能ではなく、イスラム教という三大宗教の中でも最も多く保守的な宗教でさえフェミニズムのような状況に陥る。ましてキリスト教は推して知るべし。従って、宗教をフェミニズムの対抗馬とすることはできるが、保守的な意味でのフェミニズムの対抗馬と考えるのは間違いである。また、政治・経済の分野ではカトリックなのに保守的であったり、文化右派な立場のキリスト教が経済左派を支持していたりと、一見矛盾しているように思われるが、キリスト教的にはむしろそちらの方が多く起こることである。福音派が政党を支持する動機においては経済政策等はどうでもよく、性道徳に関するスタンスのみである。

 大方こんなところだろうか。私としてはキリスト教の男女観そのものというよりはその背景だったり、政治・経済分野でも男女観が関係しているというようなところを述べていたように見受けられた。つまりここまでは実は本題までの長い前置きのようなものであり、本題はこの後からなのだ。

 長くなったが、本題の章の解説に入りたい。


キリスト教の一対婚への拘りと成長発達人間観

 先の章で、本題は  2:成長発達主義的人間観、あるいは、「創造と堕落」の物語を見誤らせる「成熟と喪失」の物語  の章からであると述べたが、私個人は本題はその少し前の辺りからだと感じた(一気に飛べるように章の区切れ目を選択したまでである)。それは、1:進化心理学者達の着眼点、性と宗教の関係  の章の最後の方の段落である。

進化心理学は、キリスト教が一対婚に拘る事までは理解できても、どの様にしてその拘りを成立させているかまでは、余り理解していないか余り興味を持っていなのではなかろうか。〈略〉性に関する言説で根拠薄弱ながらかなりの勢威を勝ち得てしまったフェミニズムの影響下に大なり小なりある左翼知識人達は、一対婚及び男女の性規範を、一種の窮屈なお仕着せ、性の領域における押しつけがましい道徳リゴリズムの様に見なしている。実は誰もそんな束縛の中に閉じ込められたくないのに、「ありのまま」の本当の欲望や情熱を「抑圧」されているのだ、特に男性により女性が「支配」を課されてそうなっているのだ、と。右派もまた一対婚への評価の是非は左派と逆転しているとしても、一対婚のあり方への理解は左派とそう変わらないのではないだろうか。一対婚は、〈略〉男女の性的欲望に抑制をかけ適切なレベルに収める為の一種の道徳的な枷なのであり、そういう枷は多少窮屈でも世のため人のため何より当人達のために必要なのだ、と。

 フェミニズムではかつての「保守的」な男女観を「男社会からの押し付け」であるとしてそれからの脱却を試みる思想である。アンチフェミ左派(≒マスキュリスト左派)もそのような男女観が「女性からの押し付け」であるとして脱却を試みる。だが実は保守派も同じである。「保守的」な男女観を是としている点はフェミニズムやアンチフェミ左派とは違うが、「保守的」な男女観は欲望がそのままでは崩壊するから抑えるのだという考え方である。

 これらは制約がなければ欲望が解放されるという考え方の面で似ているのだが、ここの段落は実は最初の方の章で否定されている。

イスラームのジハディストを例に取っても、蓋を開けてみれば彼らの動機は劣情塗れであり、〈略〉欲望の成就を狙ったものであるようだ。三大一神教の中では最も保守的で反リベラルと目してよかろう、イスラームの中の更に極右的過激派ですらそうなのだ。他の二教も推して知るべしであり、キリスト教に至っては、寧ろ〈略〉道徳的神命からの解放を大なり小なり売りにしている面すらある。

 もちろんその文の直後でも再び否定されている。

この様な見方は、〈略〉デネットの神観が恐らくそれなりに当てはまる所の、人間の道徳的行為の支えとしての絶対神という神命論的傾向が3大一神教の中で最も強いイスラームにおいてこそ、〈略〉古今東西の性欲を持て余した男性が憧れそうなエロティックな夢想であったりすることや、逆に三大一神教の中で神命論的道徳基盤としての神の存在感は最も弱いキリスト教において、一夫一婦結婚生活への固執がかなり強いことを上手く説明できない様に思われる。

 保守的な色合いが濃いイスラム教においては俗的な欲望(性欲)を満たす傾向が出て、リベラル色が強いキリスト教(≒カトリック)一夫一妻制への拘りが見られるという矛盾がある。これは先程述べた「制約がなければ人類の欲望は野放図になり崩壊する」という言説では説明が付かないというのだ。
 この「制約がなければ人類の欲望は野放図になり崩壊する」という考え方こそが、最初の方に述べた成長発達人間観であろう。これによりキリスト教がなぜ一対婚に拘るのかを理解する際に誤解を生じやすくなるのだ。


一対婚は当為ではなく憧憬や郷愁

 ここからnoteは次の章へ移る。

では、キリスト教は、どの様に男女一対婚への固執を成り立たせているのだろう?結論から言うと、〈略〉キリスト教の一対婚への固執は、欲望(したい)を抑制する道徳的当為(べし)として神という有無を言わせぬ権威から押し付けられる概念的な倫理的当為命題以前に、溯源的・退行的な憧憬や郷愁が結びつく原風景の想念として提供されているらしい、という事だ。

 キリスト教が一対婚に拘るのは、欲望に対する制約としてではない。遡源的・退行的な憧憬や郷愁を得たいがためであるということであろう。

 その後『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』の引用を紹介している。

 キリスト教の信仰の対象であるイエスは、信仰者に対して命令を下していない。重要なのは「この世界をどの様に見えるのか」であるのだという。

 誰しも自分で自分を存在に至らしめた訳ではないのだから、自己の存在が初めて成り立たった始端への遡行は、自由や自発性に回収しきれない他由的、他発的な否応なき人間の条件を各々に弁えさせると共に、その後の歴史の展開の中で失われていく「本来そうだった筈の有様」(「ある」でも「べし」でもない)として、ある種の規範的に機能し私達の発想を規定する。そしてこの規範は道徳的な概念原理というよりは、審美的な想念原型として、私達の「意志」より私達の「心」を捉える。

 我々は自分一人で自分を「存在」させることはできない。そのため、自分が存在するとされた時というのは我々にとって極めて重要なものである。これが、「本来そうだった筈の有様」としてある種規範のように我々の根源的な部分に働く。これは「意志」で制御できるものではなく、「」に訴えかけるものだ。

 これだけでは抽象的すぎて分かりにくいので、この後に具体例が登場する。その具体例は次の通りである。(リンクは筆者加筆)

非常に多くの場合、人間の性関係や性行為は、審美的な想念を通じて我々が郷愁を覚える原風景への遡行の欲望、或いはもっと深い渇望と強い繋がりがある。〈略〉非常にありふれた一例をあげれば、雄が雌の乳房を弄り乳首を吸う生き物は人間だけであり、〈略〉恋人の女の乳房に顔を埋め乳首を吸う男は、性交という成人同士にしか許されない経路を通じて、幼児退行的な願望を確かに満たしても居る。Twitterでこの様な事を言えば即座に「女はお前のママじゃない!」とフェミニストからの猛烈な反感が飛んできそうだが、『性と愛の脳科学』によれば、成人カップルが互いを「ベイビー♪」などと親しみを込めて呼びあう、という非常に良く見られる現象に対応して、睦み合う恋人同士の脳内では赤ん坊の受容時に出るのと同じホルモンが分泌され絆の形成に役立っているのだそうだ。どうやら「ママ代わり」も結構な割合の女性たちが満更でもない様子である。

 性行為の際に女の乳首を吸ったりカップル同士で互いを「ベイビー」などと呼んだりする行為を通じて脳内では赤ん坊のとき本来そうだった筈の有様に分泌されていたのと同じホルモンが分泌されるのだという。我々は恋人同士との睦み合いを通じて自分が赤ん坊だった頃への憧憬や郷愁を感じているのだろう。


「本来そうだった筈の有様」

 人はしばしば、キリスト教やユダヤ教の様な父権的一神教は、この母性的な原風景から良くも悪くも人間を引き離し、個人として自立させ、大人としての規律や規範を叩き込む宗教だと思っている。エデンの園とは自意識のまどろみの中で母の腕に包まれ、労苦もジェンダーもなかった天使的に無垢な幼少期を意味するのであり、堕罪とは自意識や個我の目覚めを意味しーーその証拠に性的羞恥心という思春期らしい特徴がこの時現れるーー楽園追放とは、大人になる事、即ち労働の苦労を引き受け、性的に成熟した人間として伴侶を持ち、家庭をよく収める家長の役割を引き受ける事を意味するのだ、と。

 「本来そうだった筈の有様」とは赤ん坊だった頃であり、エデンの園であり、労苦もジェンダーもなかった時期である。大人になるということは、このエデンの園から追放される、すなわち労苦や性的役割を引き受けることを意味する。人はしばしば、キリスト教は労苦や性的役割を背負わせる、つまり自立させるような宗教であると考える。以下エーリッヒ・フロム「愛と性と母権制」の引用。

’楽園の生活とは何を意味するのか。母親の胸に抱かれた乳飲み子の生活である。楽園では息子は労働する必要も、土地を耕す必要も、己の衣服を縫い上げる必要もなかった。息子は、惜しみなく与え、慈悲深い、愛情溢れた母親、すなわち肥沃な大地によって庇護され、扶養された。(…)「堕罪」、すなわち楽園追放とは、オイディプス葛藤の叙述であり、乳飲み子が父親と同一化する少年へと変身を遂げていく過程の叙述、息子が成人となった結果として父親の側から近親相姦の制限を打ち立てる過程の叙述である。’『愛と性と母権制』エーリッヒ・フロムp206

 このような「神話的」なものはそれを信仰している人にとっては事実であるというわけではなく、信仰している人もフィクションとして考えていることが多い。これが我々がキリスト教を誤解しやすい所以であると筆者は指摘している。

キリスト教の創造と堕落に描かれる人間観は、人間の成長発達の神話的表現とは全く以て見せないものである。信仰者にとってはそれは神話や象徴などではなく事実なのだ、と言いたい訳ではない。百歩譲って仮に単なるフィクションとして見ても、まるでそういう話として読めないのだ。私見では、我々日本人がキリスト教を見誤り続けているのは、この点での誤解のせいが大きい。

 とはいえ、フロムはかなり昔の人だそうで(果たして1980年代まで生きた人を昔の人というのかはさておき)、その言説は今では通用しないのではないかと筆者は前置きし、ジョーダン・ピーターソンの「生き抜くための12のルール」にも似たような言説があることを述べている。以下引用。

 アダムとイブは、はじめに楽園に置かれた段階では、意識が朧げだったようだ。自意識は明らかに持っていなかった。その証拠に、人類最初の男女は裸だったが、恥ずかしいと感じなかった。p74ジョーダン・ピーターソン、以下同

神は、最初の男と女を楽園から追放した。幼児期から、無自覚な動物の世界から追い立てられ、歴史の恐怖そのものの中へ放った。82

人間のなかには、堕落する以前の状態もいくらか残っている。いわば、わたしたちは覚えている。子供時代の無邪気さ、神聖かつ無意識の生き物としての「ビーイング」、触れるもののない大聖堂のような原生林に立ちし、永遠に懐かしい気持ちを抱いている。そういったもののなかに、ひとときの休息を見出す。そういったものを崇拝する。たとえ私達が無神論の環境論者を自称していても、私達はそれを信じている。こう考えると、自然の本来の状態が楽園という事になる。しかし人間はもはや自然と一体ではなく、一体だった頃へ単純に戻る事もできない。86

もともとのアダムとイブは、創造主と切り離せない一体として存在していたが、意識を持っていなかった(勿論自意識もなかった)。目が開いていなかった。完成度においては、堕落した後の人間より下だ。87

悪は、自意識と共に世界に侵入する。アダムは神から労働の呪いをかけられた。それだけでもかなり悪い。イブは出産の痛みと夫への依存を課せられた。これも、ささいな事ではない。これらは、苦痛を伴う。

労働の必要性は、原罪の報いとして神がアダムとその子孫に課した呪いの一つであることを思い出して欲しい。〜犠牲と労働はほとんど違いがない。また、どちらも人間ならではのものだ。

 我々人間は皆赤ん坊であった。労苦も性的役割も引き受ける必要はなく、無邪気であった。楽園を追放されて労苦や性的役割を引き受けるのは大変な苦痛を伴うものである。キリスト教はこの労苦や性的役割を引き受けさせる父権的一神教であるのだという。

 また筆者はさらに江藤淳の「成熟と喪失」の引用も対比として紹介している。

(母=自然から)拒まれた者は決して純潔ではありえない。なぜなら拒否されたものは同時に見捨てられた者でもあるからである。そして自分が母を見捨てた事を確認した者の眼は、拒否された傷口から湧き出てくる黒い血膿の様な罪悪感の存在を、決して否認できないからである。「成熟」するとは、喪失感の空洞の中に湧いてくるこの「悪」を引き受ける事である。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。『成熟と喪失』p32江藤淳

「自然」も「死」も、もとより善悪の彼岸(筆者注:「堕罪」とは善悪識別の木の実の摂食であった事を思い出して欲しい)にあるもの、「悪」を解消させて「純潔」に変えるものである。しかしそういう「自然」に焦点をあわせて『海辺の光景』を書き上げた時、安岡氏は実は「悪」の自覚による新しい「自由」を獲る道を、自ら半ば閉ざしたのである。氏はつまり「純潔」を選んで、「悪」から眼をそらしたのである。『成熟と喪失』p33江藤淳

 母である自然から拒まれることには、大きな罪悪感が生まれる。この悪を引き受けることが大人になることであり、自由を得ることなのだという。


キリスト教への誤解と成長発達主義的人間観

 前の章でいくつか紹介した文献から読み取れる言説は次の通りである。

キリスト教は、「本来そうだった筈の有様」という「母性的な原風景」から引き離し、労苦や性的役割を引き受けさせ大人にならせていく父権的一神教である。

 筆者が挙げた限りでも多くの文献でこのような考え方が垣間見える。この考え方は多くの人のなかなかにかなり根深く存在するものなのだ。

それはおそらく〈略〉有象無象の教育者や心理学者や精神科医達を経由して、さらに本邦含む東アジアの場合は元より根付いていた儒教の教育主義的関心と相通じ合い、舶来のものでありながら土着的旧弊固陋を強固化させるという紛らわしくも厄介な機能を果たしながら今日に流れ込む、かなり根の深いものである。さしあたり成長発達主義的人間観、とでも呼んでおくこの異教的関心の中で、父なる神を崇める一神教は〈略〉、道徳的な当為を強いて人間を将来に向けて前進させる役回りを託されがちだ。対して郷愁を誘う母子癒着の審美的な原風景には、そこから離反して前進して行くことを余儀なくされた若者にとって退行的な欲望が結びつく。

 成長発達主義的人間観は、成長発達人間観とほとんど同じ意味と思って差し支えないだろう。つまりこれもキリスト教への理解を妨げるものだ。また、キリスト教には父性的な面もあるのだが、母性的な面もある。父性的な面とは先程いくつか挙げたように、労苦や性的役割を引き受けさせるいわば「前進させる役回り」である。一方で母性的な面とは「郷愁を誘う審美的な原風景」であり、いわば「退行的な」ものである。

実践理性の運用としての道徳行為は自立した足を将来に向けて踏み出す前向きの進行だが、性行為は運動としてみれば後ろ向きである。

 キリスト教は父権的一神教であるだけではなく、母権的でもある。にも関わらずキリスト教が父権的でしかない、すなわち保守的に道徳を身に付けさせるためにのみはたらいているという誤解が生まれることが多く、これがキリスト教の理解を妨げる。この誤解を筆者は成長発達人間観だとか成長発達主義的人間観と呼んでいる。この原因は様々あるが、一つには儒教のような保守的で年功序列の色合いが強い、かつ道徳的な思想が挙げられるだろう。このような思想と相まって、キリスト教は「道徳的な宗教である」と勘違いをされてしまうのだ。


母性的な原風景の担い手

 この後、noteでは次のように述べられている。

家族である父母の外で出逢う異性(異性とはこの場合女性を意味する。既にお気づきかもしれないが、この物語は基本的に男の子を主人公として組み立てられているからだ。〈略〉女性を主人公とする物語のベースを提供できることは、キリスト教の有意義な特徴の一つである(※1)。)は、母から離反したが完全に父の命令に服している訳でもない人生行路の反抗的なモラトリアム的段階、個我は目覚めたが完全に大人になりきれている訳でもない孤立個人の相関者として掛け替え無き個対個の関係を託される恋愛の相手候補でもあれば、一方でイデアルな審美原型の担い手たる母の劣化互換的代補者として、幼児退行的な情欲を満たす遡源の営為としての性行為の睦み合いの導き手でもある。
(※1)一例を挙げれば、〈略〉アーバンギャルドの作詞家、松永天馬は、日本の少女趣味的美的的文化が無自覚に囚われている死や罪の闇を浮き彫りにする視点として、彼の神学的教養を駆使している。〈略〉これもキリスト教的観点の効用であることに違いない。彼の作詞を自分に「刺さる」ものとして受容して来た層は主に若い女性たちであったことは、後ほど触れる「少女フェミニズム」打破の一方途を示すものとしても注目に値する。

 男の子を主人公としている云々とその注釈については後程紹介する。ここで述べられているのは、(男性から女性への)恋愛というのは、「個我は目覚めたが完全に大人になりきれている訳でもない」いわば子供と大人の境目である人との関係を結ぶことであり、また「イデアルな審美原型の担い手たる母の劣化互換的代補者」として赤ん坊の頃本来そうだった筈の有様への退行的な欲望を満たす行為でもある。
 このような「女性とは何か」という問いに対する答えは時代を追うごとに変遷しているらしい。

フロムによれば、初期ロマン派から後期ロマン派への移行は、重視される女性観が「恋人」から「母親」へ、という移行に対応しているらしい(※2)。筆者が知る限りでも確かに、初期ロマン派の詩情世界を標的に定めエミュレートする事で批判する、というキルケゴールの屈折した試みの中で、ボヘミアン生活を送る審美家達の女性賛美は殆ど恋愛至上主義や刹那的な享楽主義と同義であり、「母性」は所帯じみた退屈な市民生活に属する没趣味なものに分類され、詩情の源泉としては余り見られていないようだ(※3)。先ず恋の相手、次に母性、というロマン主義におけるこの女性観の変遷の順序はなかなか興味深い。

(※2)ドイツ観念論や初期ロマン派と異なり、後期ロマン派の場合には、女性とは何かという了解の意味転化が傾向的に生じたように思われる。前者では、女性とは本質的に愛される対象であり、女性との合一が真の「人間性」に至る所以であったとすれば、後者では女性は次第に母親の意味になり、女性との関わりは「自然的なもの」への回帰、自然の体内における新たな調和を意味するようになる。p167フロム
(※3)キルケゴールが造形した架空の語り手達の中で、母性を称えるのはボヘミアン達ではなく、人生の先輩として彼らに穏やかな訓戒を施すメンター的倫理家、落ち着いたプチブル紳士といった人柄の予審判事ウィルヘルムである。『あれかこれか』や『人生行路の諸段階』で取り扱われている審美家と倫理家の違いは、進化心理学で言う所のGood GenesとGood Dadの男性類型の違いに似ている所がある。そして重要なのは、キルケゴールは、宗教性をどちらでもないものとして提示している事である。

 恋愛における女性観は、「子供と大人の境目である、恋人としての女性」と「赤ん坊の頃への退行的な欲望を満たす、母親としての女性」という二面性を持っている。もちろんこの両者は完全には一致せず、母親としての女性は恋人としての女性にはなり得ず、恋人としての女性は母親としての女性にはなり得ない。

 これはちょうど、女性にとっての男性観である「身体的魅力の高い、恋人としての男性」と「収入や家事能力のある、父親としての男性」というものが完全には一致しないのと同じである。


松永天馬とアーバンギャルド、内村鑑三、そして再び江藤淳

 先程の文章での男の子を主人公としている云々に関する部分のみ引用する。

異性とはこの場合女性を意味する。既にお気づきかもしれないが、この物語は基本的に男の子を主人公として組み立てられているからだ。〈略〉女性を主人公とする物語のベースを提供できることは、キリスト教の有意義な特徴の一つである(※1)。
(※1)一例を挙げれば、〈略〉アーバンギャルドの作詞家、松永天馬は、日本の少女趣味的美的的文化が無自覚に囚われている死や罪の闇を浮き彫りにする視点として、彼の神学的教養を駆使している。だからといって、同種の感受性に長けていた内村鑑三と違い、彼は護教的作家ではなく、あくまで異教文化に封じ込められた毒気を 〈略〉 独特の妙味を醸し出すための手段として利用しているだけであるが、これもキリスト教的観点の効用であることに違いない。彼の作詞を自分に「刺さる」ものとして受容して来た層は主に若い女性たちであったことは、後ほど触れる「少女フェミニズム」打破の一方途を示すものとしても注目に値する。

 音楽グループ「アーバンギャルド」の作詞家である松永天馬は、キリスト教の知識に長けていた。彼はその知識を歌詞に盛り込んだ。

 2014年というかなり最近の時期(その割には私は全く聞いたこともないが)にリリースされた「さくらメメント」。この曲の歌詞でも松永天馬のキリスト教の知識とジェンダー的な色が垣間見える。これが少女フェミニズムの打破に繋がるかもしれないと筆者は言う。

『さくらメメント』に限らないのですが、松永天馬の歌詞には、「女の子が一皮むける」方向性があるからです。〈略〉それが出来るのは、救済宗教的な素養や感受性があり、その観点から、美的、芸術的な世界を批判的に見られる事と無関係ではありません。

 筆者は松永天馬の神学的教養への感受性と同種の感受性に長けていたとして内村鑑三を紹介しているが、この両名の間の関係については見つけられなかったのでどなたか分かる方がいらっしゃったら教えて頂きたい。

 内村鑑三は、「失望と希望」で美しくも罪悪な日本の前途を憂いている。

芙蓉の峰はいつも美しいですが、これを仰ぎ見る民の心は常闇(とこやみ)の闇で包まれています。その名こそは桜花国ですが、その実は悲憤国です。絶望国です。人々は憂愁と怨恨(えんこん)とを懐いて、いやいやながらに世渡りをしている国なのです。

 内村鑑三と松永天馬の間に直接的な関係は見受けられなかったが、日本の前途への憂いという意味であれば両者に通ずるところがあるだろう。筆者は恐らくこの点で彼ら二人を結びつけたのだと考えられる。アーバンギャルドの「鬱くしい」という表現も内村鑑三の憂いと似たところがあるように思われる。

 この後筆者は、再び江藤の「成熟と喪失」を紹介している。

というのは、江藤淳は『成熟と喪失』(※4)の中で、吉行淳之介の『星と月は天の穴』を扱い、近代化の波に飲まれ母子癒着の安らぎから否応なく引き離されて行く日本人(ここでも日本人は自明の如く男性なのだが)が、しかし敗戦という父権を失墜させる戦後日本の特殊事情によって、父の背中を追いかけて大人になるという規範的な成長ルートも塞がれ、刹那的な異性交遊に憂き身をやつす事しかできなくなった救いがたく不毛な姿を主人公〈略〉に見出していたりするからだ。江藤の女性観は母、次いで恋人(〈略〉破壊的で不毛で刹那的な情事の相手)、という順番で、ドイツ・ロマン派とは逆向きに見いだされている訳である(※5)。

(※4)有料コーナーへ。ネットで悪名高い上野千鶴子の、母の不倫に悩む高校生への助言の遠因になっていると思しき、上野が解説文を寄せ称賛している江藤淳の『成熟と喪失』内の『抱擁家族』論には、作中の設定に合わない奇妙な所がある、という指摘。
https://twitter.com/reirei_pot/status/1309083848551157760?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1309083848551157760%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fsagtmod%2Fn%2Fnd769d0c70960

(※5)この発見の順番は、大塚英志が『江藤淳と少女フェミニズムの時代』で江藤から上野千鶴子に引き継がれていくと見なしている、「少女フェミニズム」の本邦における非常な隆盛に、何らかの影響を及ぼしているかもしれない。
https://twitter.com/tanakatosihide/status/1247696613327269889?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1247696613327269889%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_c10&ref_url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fsagtmod%2Fn%2Fnd769d0c70960

 江藤は愛妻家として知られていたが、実は妻にDVを働いていた。

 このブログでは、大塚英志の「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」を読み、その考察を書いている。これによると、大塚が言うことには江藤は「少女フェミニズム的」なのだという。

江藤と少女フェミニズムをつなぐのは、江藤が幼い頃に亡くした実母への憧憬(ロマン的想念)である。
 江藤は、最後まで一貫して亡き母との関係において自分を考え、戦後日本を考えた思想家だった。江藤の実母は、近代的な思想を持つ女性(モダンガール)だったが、結婚後、家制度の犠牲となって崩壊していった(死んだ)。そのため、江藤は、この母を救うことを実存レベルの欲求として持っていた。その欲求は、家制度から解放された近代的女性が、それでもなお「崩壊」せずに生き生きと生きられるような世界を夢見ることへとつながっていく。
 つまり、江藤が自らフェミニズム的な主張を直接していたというわけではない。だが、江藤の選評を読み解くと「(江藤は)明らかに「人工的な空間」で生き生きと暮らす、あるいは庇護される女の子にひどく甘い」(大塚 [2001]2004:101)ということが見えてくる。この点をもって、大塚は、江藤が不在の母を介して少女フェミニズムに到達していたと論じている。〈略〉
だから、戦後の女性たちは(近代において)、母になることを遅延し、少女であり続けようとしている。これが少女的フェミニズムである、 という議論になっている。

引用 : 大塚英志の「少女フェミニズム」
ポストフェミニズムに関するブログ

 戦後の女性は、母になるという「性的役割」を嫌がり、「少女」であり続けようとする

男女共同参画社会から「いつまでも娘の立場で語っていて、社会や親、男に対しての攻撃の仕方が、自分が親、あるいは自分が社会だという認識が欠落している」精神的に未熟な少女フェミニズムが生まれた根底には、男にはある「覚悟」が女にはないことがある。

引用 : ルサンチマン・フェミニズム/少女フェミニズム/公正無私なフェミニズム
Prof.Nemuro

 この後筆者はアイザイア・バーリンの「バーリン ロマン主義講義」を引用している。

 何にも縛られない、純粋で「怠惰な」少女。この純粋な状態への退行的な欲望が高じて少女フェミニズムとなったのだと考えられる。


少女フェミニズムの具体例

 現代でも悪名高い現役フェミニストの上野千鶴子氏は、江藤と対談したり「成熟と喪失」を涙なしには読めないと語ったりしたという。彼の「少女フェミニズム的」な思想が彼女に影響を与えた可能性は十分にあるだろう。

 初期ロマン派から後期ロマン派にかけて、重視される女性観が「恋人」から「母親」に変化していたが、江藤はその逆を行っていた。

江藤の女性観は母、次いで恋人(〈略〉破壊的で不毛で刹那的な情事の相手)、という順番で、ドイツ・ロマン派とは逆向きに見いだされている訳である

 つまり、「母親としての」女性より「一人の女(少女)としての」女性の方が重要であるということだ。これを端的に述べたのが画像の文である。

「女」を封印せよという権利は息子にもない

 これはまさに少女フェミニズム的であろう。上野氏は、母親としての義務より少女としての生き方の方を重視している。しかもその少女としての生き方をあろうことか息子に認めてやれと言っている。これほど義務を放棄し権利だけを貪るフェミニズムを端的に表したものはないだろう。

 また、少女フェミニズムによって共同親権が認められないという問題もある。

 記事が削除されているので以下のリンクから飛んで頂きたい。

共同親権は「基本的人権」のひとつだという趣旨を訴状で述べているのも共通する(共同親権関連資料 訴状(共同親権集団訴訟)子の連れ去り違憲訴訟)。〈略〉
その経緯は当欄でも以前触れた(DVというブレーキ~共同親権を阻むもの)。ただし僕の議論は、DVも大いに含むジェンダーギャップ低位置国と、少数の単独親権採用国(日本含)が重なることから、むしろ単独親権がDVを生むのでは、と問題提起をしている。〈略〉
DV阻止=単独親権という発想なのだが、これを推し進めてきたのが、「男女共同参画社会」を積極的に支持してきたフェミニズム、という点も見逃せない。

引用 : 「少女フェミニズム」が単独親権を続ける
共同親権ニュースドットコム

 フェミニズムでは、DV阻止の観点から離婚後の単独親権を進めてきた。DVの被害者の9割が女性であるとして子供連れ去りや単独親権を支持しているのだ。

 しかし以下の資料から、DVの被害者の男女比はほぼ1:1ではないかということが窺えるし、

子供の虐待も実母が圧倒的に多い。

 このようなことから共同親権にすべきという意見が増えているが、フェミニストは頑なに既得権を手放したくないようである。それどころか、反対を言論封じと考える人も見受けられる。

 このような矛盾が生じるのも、フェミニズムが「少女的」であるが所以であろう。


江藤の女性観

 筆者は再び江藤の「成熟と喪失」の引用を紹介している。

 ここには「記憶」が拒否されるように「自然」も「季節」もない。しかしまたこの人工的な世界には正確に言えば「人間」も居ない。「父」と「母」という二つの根源的な原理を抹殺して、「人間」を超えるものの姿を見失った時、「人間」は皮肉なことに「人間」にとどまることができずに、抹消的な感覚に解体されざるを得ないからである。『成熟と喪失』江藤淳p203以下同

 もし近代文学史の通説の説く様に、日本の近代文学が「個人」の確立を目的にして来たとするなら、その帰結がこの様な前衛華道のオブジェの様な人間を作ることにあったはずはない。しかし、彼らを現に枯死させているのもまた、同じ思想を公認の価値にかかげた戦後という時代にほかならない。

 作家にとってすべては感覚の断片をコラージュに仕上げる技工に帰着すれば良いのかもしれない。しかしその結果われわれは、現代生活の性的断片を、丹念に組み合わせる事を生きることに変えている人間の影を得るのである。彼の姿は積木細工をつくる子供に似ているが、そこには実は子供の自足した孤独も安息もない。彼には既に「母」はなく、「父」もまたないからである。」

 この姿は言うまでもなくわれわれ自身の姿に酷似している。だが、だからといって不毛なストイシズム(筆者注:江藤が、刹那の享楽主義を、大抵は禁欲主義と同義である所のストイシズムと表現していることは興味深い。母性から切り離された刹那主義を、幼児退行的な真の欲望成就への断念と見ているからだろう)がいったい何を生むだろうか?「父」と「母」を抹殺し、「父」にも「母」にもならぬことを自己証明にしようとする枯渇した「子」というものが、一体どんな生命力を回復できるだろうか。

 江藤は幼い頃に実母を亡くしている。つまり、幼児退行的な欲求を満たす対象がいない。その絶望的なものがここでは述べられていると考えられる。彼の女性観は、幼い頃に実母を亡くしたという経験が大きく影響しているだろう。

 とはいえ、江藤の女性観を知るには貼られたリンク資料が少なすぎる。よって先程紹介した再びこちらのサイトから江藤の女性観を紐解いていこうと思う。

 先程も少し触れたが、江藤は愛妻家として知られていた一方で、妻にDVを働いていた。大塚英志は、この行動について、次のように解釈している。

若い批評家(江藤淳)はその母体の喪失という甘美な痛みを麻薬のように反復するために不完全な「家」で「妻」の崩壊を何度も再現してしまうのである。そのように母の崩壊という甘美な体験を反復する役回りを「妻」は負わされた、とさえ言ってよい。(大塚[2001]2004:45)

引用 : 大塚英志の「少女フェミニズム」
ポストフェミニズムに関するブログ

 幼児退行的な欲望を満たせる母親が亡くなり、「甘美な痛み」だけが残った。江藤は母親によって満たされていた「退行的な欲望」を妻に求めていたのである。すなわち江藤にとって妻は、「母親の下位互換」のような存在であったのだ。

 こう考えると、江藤が少女フェミニズムと親和的だったというのも頷ける。江藤は妻を母親に見立てて母親からの離反の体験という「甘美な痛み」をもたらす行動を江藤は繰り返していたからだ。これは先程述べた「退行的な欲望」ひいては上野氏や単独親権の例と通ずるところがあるだろう。


エヴァンゲリオンと「汚らわしい」性

 筆者はここで話題をエヴァンゲリオンの方に移す。

 成長発達主義的物語の中で、母性には、かつて生まれたての幼子だった自己への退行的欲望の辿り着く先としての由来が託される一方、恋人としての女性には将来でも由来でもない、今この瞬間の掛け替えのない個性が託される。既に古典的アニメとして不動の地位を獲得した『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』での、〈略〉ヒロイン綾波レイと、〈略〉主人公碇シンジに「キモチワルイ」という、受容的な母性とは打って変わって冷ややかな一言を浴びせるもう一人のヒロイン、跳ねっ返り娘の惣流・アスカ・ラングレーは、この二つのタイプの女性像の相違を誇張的に表している。実際はレイとアスカの様に母性的存在と扱いづらい反発的な個我の持ち主が別々に役割分担して存在するというより、女性であれば一人物が両義的な期待を込めて男性から見られもすれば、彼女自身実際その様に差異をはらみながら存在してもいる、という方が近いだろう。

 女性というものは、恋人としての存在と母親としての母性的存在の二面性を持つ
 関連して、エヴァンゲリオンのキャラクターの父性・母性については他のnoteでも指摘されている。

少年が様々な経験を経て成長していくビルドゥングスロマンの場合、主人公を導いていく父性的、母性的なキャラクターが必須となるがエヴァには基本的にそういう存在が出てこない。ゆえにシンジ少年がいつまでも成長出来ない。

引用 : シン・エヴァンゲリオン評/壊れたビルドゥングスロマンは補完されうるか
魔色

 こちらの考察については本筋から大きく外れるので割愛する(そもそもエヴァンゲリオンを見たことがないのに考察も何もないのだが)。

 話を戻そう。筆者はこの女性観を、性欲や性交がリベラルな社会で嫌われる、すなわち「汚らわしい」ものであるとされるのかを解き明かす鍵となると説明している。

 この事は、なぜ性欲や性交が、リベラルな近代世界にあってすら厭うべきものとみなされるのかの理由の一つを提供する。それは掛け替えのない個人を、母性というイデアルなイメージの劣化互換として貶める事への、ありとあらゆる古典主義に対するロマン主義的反抗、本質主義に対する実存主義的反抗の一種である。もう一つ、性交が汚らわしい理由は、男性が性行為を通じて遡るべき無垢なる原風景を、自己(男性)が性的に未熟であった赤子時代に定めてしまった事で生じる内的不整合である。〈略〉大人だけに許される子供返りとしての性行為において、その目的地を純粋視すれば、どうしても経路は不純という事にならざるを得ない。

 性欲や性行為というものは、退行的な「子供返り」的な行動である。純粋であるはずの「原風景」を赤ん坊の頃であると定めてしまったことで、この退行的な欲望が汚らわしいものとされてしまった。

 性は最初から汚らわしいものとされていたわけではなく、むしろ聖職とも関係していた。性を不浄なものであるとしたのは他でもない宗教である。

 しかし筆者は、この「汚らわしい性」について違う解釈を示しているようだ。

かくて、個性尊重主義的恋愛至上主義は、時間の流れの中で出会われながら、退行と進行、後ろ向き前向き、どちらの時間の流れに乗る運動も拒む「瞬間」の静止的永遠化を、その極北において要求する。〈略〉キルケゴールが宗教的使命感からその批判に余念が無かった「永遠の宿る瞬間」(※5)という初期ロマン派的標榜は、今日でも少年少女の恋心を扱う大衆文化の中で高らかに歌われており、成長発達人間観における性の不純視は、外の世界からの勝手な価値の押しつけ〈略〉の帰結などではなく、自己完結的な世界観に内在する問題であるという点では先のイスラームの自爆テロと同様の、構成要素同士の軋み合いに近いのである。因みに、キリスト教では、これもまた成長発達人間観の構成員が逆に考えたがる事だが、この様な性の不純視は、世界観の枠組みを護る限りは生じない。なぜなら、キリスト教は、原風景において最初から人間を性的に把握しているからである。

(※5)《私は直接性を探し求める。個人個人が愛の瞬間において、はじめて互いにとって存在するということが愛における永遠的要素なのだ》《婚約の煩わしさは常にその倫理的側面にある……。美的なものの天下では、全てのものが軽やかで美しく儚い。倫理的なものが現れると、そのときすべてのものは厳格で、堅苦しく、無限に退屈になる》’誘惑者ヨハンネス(キルケゴールが生み出した、享楽的な架空の語り手)

 キリスト教は、最初から人間を性的に把握している。そして、性を汚らわしいものとしたのは「自己完結的な世界観に内在する問題」であるとしている。キリスト教とは全く別系統の世界観である成長発達人間観の中で、性は不浄視される(儒教とかであろうか)のだという。それほどまでに成長発達人間観というものは強い影響を及ぼす。

 筆者は「キルケゴール著作集〈第18巻〉わが著作活動の視点・野の百合・空の鳥 (1963年)」の引用を示している。

 前後関係が分からないので読解しにくいが、先程述べた(※5)と関連しているのだろう。

《私は直接性を探し求める。個人個人が愛の瞬間において、はじめて互いにとって存在するということが愛における永遠的要素なのだ》《婚約の煩わしさは常にその倫理的側面にある……。美的なものの天下では、全てのものが軽やかで美しく儚い。倫理的なものが現れると、そのときすべてのものは厳格で、堅苦しく、無限に退屈になる》’誘惑者ヨハンネス(キルケゴールが生み出した、享楽的な架空の語り手)

 結婚式の際(キリスト教式であれば)「永遠の愛を誓う」という表現を聞くことがあるだろう。しかし、時間把握が苦手な女性でなくとも、「永遠」という言葉は煩わしい。これは「永遠に相手に尽くさなければならない」「永遠に義務を果たさなければならない」という「倫理的側面」の重さを感じるからだ。それなのに「美しい愛」などという「美的なもの」の皮を被ると、途端にそれは永遠という時間をあたかも軽いもののように見せる。倫理だけなら永遠というものは堅苦しく退屈なものだが、これを「何となく綺麗な感じの言葉」で飾り立てることで永遠という重みをなくす。


「少女革命ウテナ」とジェンダー

 話はまた変わり、「少女革命ウテナ」に移る。筆者はこの「少女革命ウテナ」を「鋭いジェンダー論点観点を含んでいる」と高く評価している。

私に言わせれば、『少女革命ウテナ』は同時期のエポックメイキング作で今日まで人気のある『新世紀エヴァンゲリオン』に比べても段違いに優れた作品であり、〈略〉『アナと雪の女王』などの近年のディズニー映画よりも遥かに鋭いジェンダー論的観点を含んでいる。その様な作品が、批評する能力と意思のあるサブカル知識人によってもまるで相応しい扱いを受けている様に思えないのだが、私が無知なだけなのだろうか?「これは」というものをご存じの方はお教え願いたいものだ。

 私はこの「少女革命ウテナ」をよく知らないので、筆者の説明を読んだ方が早いであろう。

自然を傷つけ、自然から拒絶されてしまった少年の葛藤を扱った日本サブカルチャーにおける好作品として、『少女革命ウテナ』の、主人公天上ウテナのライバルの一人たる薫幹(かおる・みき)少年にスポットが当たる放送第四話・第五話の『光差す庭』がある。母子ではなく双子の兄妹として描かれているが、幼少期に木漏れ日の下で仲睦まじくピアノを弾いていた双子が大人達のお眼鏡にかない、コンサートを企画される。人前でピアノを披露する事を怖がる妹を兄は説得するが、当日体調を崩し、妹だけがコンサートの演台に立つ。独奏を怖がる妹は演奏を途中放棄し逃げ出し、この体験で傷つき、以来兄に心を開かなくなりピアノも弾くのをやめ、思春期に入ると〈略〉男子生徒を誘惑する不良少女になってしまう。その原因が、二人の親密な関係を部外者である大人たちへの見世物にしようとした自分の裏切りである事に後悔の念を覚え心を痛めながらも、挑発的な妹と向かい合えば態度を頑なにする事しか出来ない幹は、ある日、本作のファム・ファタル的メインヒロインたる姫宮アンシーが昔の妹と同じ音色のピアノを弾く事に気づき、彼女の音色を大人たちから守るために(そのために彼女を所有しなければならない事で葛藤するが、動機においては彼女を所有するために、ではないのだ)、つまりかつて自分が犯した過ちのやり直しの為に、アンシーとの特別な関係が公認されている主人公ウテナに決闘を挑む事になる。
 幹と梢の兄妹が登場する『光差す庭』『幹の巣箱』では、原初の自然の親密さ、傷つけられた自然の妖婦的堕落、傷つけ拒絶された少年の後悔と自責、と言った江藤淳的テーマがコンパクトに纏められている。私は、「あるがまま」の女性達の良き尊重者たろうと欲する多くの男性フェミニスト達の姿勢に、ウテナに敗北する幹と同じ様な限界を見出すのである。

 「あるがまま」の女性、すなわち純粋で「怠惰」で「少女的」な女性。この女性を理解したいがために葛藤している様子が男性フェミニストと重なるのだという。性犯罪者がフェミニストとして女性に近づく場合もあるが、そうではなく純粋に「フェミニズムを信仰している」男性である。

スンボムは、「男をフェミニストにする最初の地点は、母親の人生に対し、自責の念を抱くことにあると信じてやまない」という。韓国は、日本と似たり寄ったり、ときには日本以上に女性差別が横行している国であり、30代のスンボムの母親世代は当然、女性が家庭の犠牲になることが多かった。スンボムの母親は、保険の外交で父親以上の収入を得ながらも、家事、育児をワンオペで行い、DVにも耐えていたという。
実際、日本や韓国で今30代以上ならば、母親の犠牲のうえに自らの人生を築き上げている可能性が多いにある。母親世代の女性は、今以上に家事育児介護などの無償労働を行う時間が男性に比べて長く、社会的地位も低かったのだから。
「無償労働や低賃金を引き受けざるをえなかった無数の母親たちの犠牲の上に、自分の生活がかろうじてなりたっているのかもしれない」「自分自身が家父長制の恩恵を受け、母に無性の労働を押し付ける加害者でもあったのかもしれない」と考えるのは、気分が良いことではない。だからこそ、直視するのには勇気がいる。

引用 : 男がフェミニストになると得るモノ、失うモノ|チェ・スンボム著『私は男でフェミニストです』レビュー
原宿なつき

 スンボムの母親の状況には同情する。が、なぜただ生まれてきたというだけで母親への加害者とされなければならないのか。もちろん母親に育ててもらったことそれ自体は感謝すべきことであろう。だが、加害者とされてしまっては敵わない。男性フェミニストは、自分が男性として生まれたばかりに加害者という烙印を押されてしまいしかもそれを受け入れている。男児でありながらフェミニストである子供は、いわば母親やそれ以外の女性たちのヤングケアラーである(女児のフェミニストもヤングケアラーになり得るが、より当事者性が高いので一概には言えないだろう)。


あとがきと次回予告

 これは私のnoteのという意味ではなく、sagtmod氏のnoteでのあとがきに相当する部分と次回予告に相当する部分のことだ。彼は次回予告の章に移る前に次のように述べている。

改めて断っておくが、私はキリスト教の世界観を、これまで説明して来た諸々とは異質なものとして(ただし『ウテナ』だけは少し違うが)提示する積りでいる。〈略〉偉大な先人キルケゴールに肖り、と言うのも烏滸がましいが、ここまでやって来たのは主にそういう作業である。プロ・アマ問わず日本人クリスチャンによる宣教的試みは、どうもこの点を全く弁えずに、受け手にとっては殆ど外国語の様なキリスト教世界の内側の教義学的神学的概念を切り売りして相手を戸惑わせるか、異教徒の悪習と戦おうとする場合は相手の核心を見誤るか(多神教の多元主義vs一神教の普遍主義、という様に)、相手の姿をそれなりに上手に捉えている場合はしばしば伴う好意的な本音に打ち負かされて、そういう底意があるにせよ無自覚にせよキリスト教側が異教に換骨奪胎されてしまう事に一役買ってしまうか、どれかであると思う。

 ここで述べられているのは、筆者のキリスト教の未来への憂いであろうか。クリスチャンによる宣教によって却ってキリスト教が異教に換骨奪胎されるという心配をしているようである。
 先程挙げた記事では、このように述べられている。

キリスト教における「悪魔」とは、異教の神々がキリスト教に取り込まれる際に唯一神に敵対する悪魔としての地位を与えられることとなったもの

引用 : 「性は聖」?聖娼の物語① 豊穣の女神と巫女たち
アラ父さん

 つまり、キリスト教が異教という「悪魔」と戦うという物語を作っているのだが、ともすればその異教がキリスト教に取って代わってしまう。筆者はそれを心配しているのだろう。

 そして、次回予告で筆者はこのように述べている。

フロム、ピーターソン、バーリン、江藤淳、エヴァンゲリオン、ウテナの幹回に言及したのは、日本人が予め有している世界観の中で一神教の位置づけを探ると、母子癒着の原風景から人を離反させる前向きの駆動力の源泉の様に(それを厭うのであれ求めるのであれ)見られやすいが、そうではないし、その様に見ている限りは、人はまだ母子癒着的世界の中にいるのだ、ということを示したかったからである。〈略〉母に甘えれば多神教だが父に服せば一神教なのではない。母も父も、男も女も子供も、全ての在り方を変えてしまうのがキリスト教である。保革左右、殆どすべての立場の思想家が、この事を解っていない。
 キリスト教の三位一体の神は人間を原風景から引き離すのではなく、原風景の内容を書き換えてしまう。いや寧ろ、原風景として私達が母子癒着を思い描く時、その風景は、真の原風景を喪失した後のイリュージョンとして心を満たす、偽りの、まやかしの原風景にすぎない、と、私達の発見の順番と生じた事実の順番を逆に提示する。それがキリスト教の創造と堕落の物語なのである

 キリスト教は父性的に「原風景」から引き離して道徳を身に付けさせるものというわけではない。ただ、「原風景」が偽りのものであると提示するだけなのである。


キリスト教がなぜ一対婚に拘るのか 考察

 さて、noteでは冒頭から「キリスト教は一対婚に拘る宗教である(と概ね言える)」と述べられていた。が、ここまでお読み頂いても、キリスト教がなぜ一対婚に拘るのかははっきり分からないだろうと思う。実際noteでもはっきりとは示されていない。ただ一つ示されているのは、一対婚は赤ん坊だった頃の母性的な原風景を提供するものであるということだけだ。よって、ここで私の解釈を述べるものとする。

 キリスト教は、父性的な面と母性的な面の両方を持っている。父性的な面では道徳や役割を身に付けさせ、母性的な面では幼児退行的な欲望を引き受ける。これと同じことが恋愛でも起こる。

成長発達主義的物語の中で、母性には、かつて生まれたての幼子だった自己への退行的欲望の辿り着く先としての由来が託される一方、恋人としての女性には将来でも由来でもない、今この瞬間の掛け替えのない個性が託される。

 これはnoteの引用であるが、つまり、恋愛の相手像は一義的に定まらない。これは男性でも女性でも同じである。そして、この幼児退行的な欲望の方が、キリスト教がなぜ一対婚に拘るのかを解き明かす鍵になる。

 母と子は本来一対一の関係である。双生児等の場合は別かもしれないが、それでも子にとって母は一人である(現代では養子や同性婚カップルの親等で例外はあるだろうが)。この母子癒着という一対一の関係が、キリスト教において一対婚を求める原因の一つなのではないか、ということだ。
 つまり、母と子という一対一の関係を恋人や伴侶にも求め、自分と相手とで一対一の関係にしたかったということだ。

 ただ、私はこの論理にも懐疑的である。というのは、キリスト教が一対婚に拘る理由が「母性的な原風景を求めるから」であるとしているのは、私が探した限りではsagtmod氏のnoteだけだからである。
※追記:精読当初に私が解釈した、「キリスト教では母子癒着という一対一の関係を一対婚に求めた」という論理は誤読であることが判明した。

キリスト教における一対婚は、原風景において成立していたが、成長と共に良かれ悪しかれ引き裂かれたしまった母子癒着関係の再獲得などではないのです。 我々が通常思い描くノスタルジックな原風景の中で、我々は赤ん坊として我々を思い描きます。赤ん坊こそが無垢です。そしてその無垢な我々を包み込んでくれている最も親密な他者が母です。
しかし、キリスト教の原風景、即ち堕落前の被造界の中で、人間は赤ん坊ではなく夫婦になる男と女としてそもそも造られています。そして造ったのは母ではなく三位一体の神です。
原風景の中に、父なる神は出てきても母は出てきません。〈略〉
通常の発想ですと、性関係は母子癒着の原風景から離反した後に人が営む営為であり、結婚もその様な段階での対人関係です。しかし、キリスト教では、人は始原の無垢の状態で既に性関係者として造られているわけです。

 キリスト教で神が作ったのは赤ん坊という無垢な存在ではなく完全な男女だった。つまり、キリスト教は最初から人類を性的なものとして認識していたのだ。そのため、「キリスト教における一対婚は、原風景において成立していたが、成長と共に良かれ悪しかれ引き裂かれたしまった母子癒着関係の再獲得などではない」。

 このように考えると、個人的には保守的な社会を形成するために一対婚にして、その建前として「母性的な原風景」というものを持ち出してきたのではないか、という方がしっくりくる。だからこそキリスト教は「原風景」が偽りのものであると提示していると筆者が述べたのではないか、と。

 私のこの思考こそが筆者の言う「成長発達人間観」そのものなのだが、この仮説以外でキリスト教に父性的な部分と母性的な部分の二面性があることをどう説明するのだろうか。もちろん宗教は一人で作ったものではないはずなので、必ず矛盾や不合理、齟齬が生じるのは当然である。仮に一人で作ったとしても矛盾は必ず出てくるはずだ。ちょうど一人の女性に母性的な面と一人の「人間としての」個性という面とが両方存在しているように。

 母性的な「原風景」を提示しつつもそれを偽りのものであるとし、父性的に前進させようとする役割がキリスト教で、「原風景」に戻ることをよしとするのが先に述べた少女フェミニズムであり江藤の女性観である。これが私の解釈である。



noteを読んでの感想とオマケ

 ここから述べる内容は、特にnoteの筆者本人にとっては、目に触れてあまり気持ちのいい内容ではないかもしれないので、不愉快な方はブラウザバックして頂きたい。



 皆さんもsagtmod氏のnoteを読んで感じたと思うが、彼の文章は元々内容が難解なのに加えて文章も読みにくい。例えば「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」の部分で挙げたnoteの引用だが、〈略〉を使ったのはそこで文が切れていたからではなく、全て一文だったからだ。〈略〉で省いた部分を太字にして全て見てみよう。

 また、サトシ・カナザワとアラン・S・ミラーは共著『進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観』で、とかく物騒視されやすい宗教原理主義の中で、自爆テロを起こすのは殆どイスラームだけであり、その原因は「一神教」の不寛容やら排他性やら狂信性やらではなく(それならユダヤ教もキリスト教も一緒なのだから)、逆に西欧米文明の抑圧に抗する虐げられた者の叫びでも経済格差でもなく(彼らは占領軍の米国異教徒よりも同胞のイスラーム信徒同士で見境なく殺し合ったり、イスラエルがパレスチナの要求を殆ど全面的に認める停戦合意後もあいも変わらずイスラエルへの自爆テロを止めなかったり、右派の民族自決主義や左派の共産主義や環境団体のテロには見られない様な特徴を持っているという)、現世において伴侶獲得競争を激化させる教義上許容された一夫多妻制と、篤信者が受ける資格を得るとされる天国での処女フーリーの饗しという、部外者無しでも成り立つ彼らの世界観内での自己完結的なメカニズムが、敗北者の男性信者に命がけのテロリズムを敢行させる動機を与えている事を解き明かしている。

 この長い文で一文である。一文が長いと読みにくくなることは皆さんも国語の授業で学んだであろうが、この筆者はそのお約束ごとをまるっきり無視している。
 この文の内容を変えずに読みやすくしてみよう。

 また、サトシ・カナザワとアラン・S・ミラーは共著『進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観』の中で次のように主張している。とかく物騒視されやすい宗教原理主義の中で、自爆テロを起こすのは殆どイスラームだけであり、その原因は、伴侶獲得競争を激化させる教義上許容された一夫多妻制と、篤信者が受ける資格を得るとされる天国での処女フーリーの饗しという、自己完結的なメカニズムである。これが、敗北者の男性信者に命がけのテロリズムを敢行させる動機を与えているのだという。決して「一神教」の不寛容やら排他性やら狂信性やらではなく、逆に西欧米文明の抑圧に抗する虐げられた者の叫びでも経済格差でもない。「一神教」の不寛容やら排他性やら狂信性はユダヤ教もキリスト教も一緒であるし、イスラーム信者は占領軍の米国異教徒よりも同胞の同士で見境なく殺し合ったり、イスラエルがパレスチナの要求を殆ど全面的に認める停戦合意後もイスラエルへの自爆テロを止めなかったり、右派の民族自決主義や左派の共産主義や環境団体のテロには見られない様な特徴を持っているからだ。

 これでもまだ読みにくいだろうが、長い修飾部を省き、結論と補足の順番を入れ替えた。私が文章を書く上で意識していることだが、「その原因は」とか「なぜなら」という言葉を使ったらなるべく結論を先に書くようにしている。そしてその後に補足説明を加えると読者としても何が重要かを拾いやすいので幾分読みやすくなるだろう。

 さらに、彼の文章では本筋から外れているものが多い。ほとんどが本筋に向かうための前置きか補足である、と言っても過言ではないだろう。文章を書く人が論題に興味があればあるほど起こりやすいことではあるのだが、彼の場合はそれが著しい。ともすれば、何の話をしていたのかを読者のみならず筆者自身までもが忘れてしまう危険もある。よもや忘れているはずはないだろうとは思っているのだが、太字になっているところであるのに本筋から外れている(ように見える)のを見ると、より一層疑いが強まってしまう。

 IQが20違うと話が通じないというが、本当に頭のいい人は頭がよくない人にも分かるように説明してくれると思う。sagtmod氏は教養は計り知れないしキリスト教についても相当造詣が深いのだなとは思うが、失礼ながら文章を書くのはあまり得意ではないように見受けられた。私が言えることではないのかもしれないが。

 また、個人的に読んでいてがっかりしたのは次回予告の部分。

さて、前置きが長くなってしまったが、後編ではいよいよキリスト教の男女観そのものを扱う。

 ……まだ本題じゃないんかい!!

 後篇では本題に入るとのことだが、その後篇も公開されていないし、彼はもう書くつもりがないのかと疑ってしまう。前篇が公開されたのが2020年の11月で、あれから1年半は経っているからだ。というより、もう書く気がないことを彼自身が表明しているようである。

 しかし、何にせよ私はこのようにsagtmod氏のnoteのほぼ全文をなるべく平易な単語に置き換える作業をすることで文章読み取り能力が上がった気がするし、何より彼のnoteは読んでいて興味深かった。sagtmod氏のnoteはまだあるのでそちらの方も書くかもしれないが、そのときはまたお付き合い頂けると幸いである。


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