※2022年9月14日現在、note引用元のsagtmod氏からの指摘修正
このnoteはあとがき以外は無料で読めます。
まえがき
タイトルの通りであるが、
キリスト教の造詣に富むsagtmod氏のnote「フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇)」を読み解いていこうと思う。宗教の問題点について述べたnoteや少子化対策について述べたnoteで軽く触れたことはあったが、今回はほぼ全文を解説する。とはいえそれでもかなり難解であるため、読者の方にも理解するための苦労を強いることになってしまうであろう。ご了承頂きたい。
実は1年程前から書こうとしていたテーマだったのだが、私に精神的余裕がなかったのに加え何より文章があまりに難解すぎたため、1年越しでの執筆となる。また、noteの参考文献となっている書籍を読んではいないためあくまでnote単独の話になる。そのため読解を間違えているところがあったらコメント等で指摘して頂けるとありがたい。(筆者本人からの指摘であればコメントを確認し次第すぐに修正する)
また、今回紹介するのはあくまで前篇である。
本当は後篇まで公開されてから書くのが筋かもしれないが、時間がかかっているようなので差し当たり前篇のみとする。
それでは本編へ向かおう。
キリスト教的男女観と成長発達人間観
「家父長主義以前の」という部分はnoteの方でも述べられているので後述するが、キリスト教は一対婚(一夫一妻)を良しとする価値観があるということだ。
また、成長発達人間観という筆者の造語が出てくるが、この言葉の意味としてはキリスト教的価値観とは違う人間観という程度の理解で構わないと思われる。つまり、キリスト教的な一夫一妻制という価値観とは違うということだが、実はこの後、
と述べ、私たちの男女観が成長発達人間観の枠組み内にあることを強調し、そのせいでキリスト教的価値観を理解できないのだとしている。
このキリスト教的価値観とは何なのかというのは後の方に述べられているため、焦れったいと思われるかもしれないが文章の時系列順に説明していく。
すぐに結論を知りたい場合は本noteの目次まで戻って頂き、 キリスト教の一対婚への拘りと成長発達人間観 まで飛んで頂きたい。sagtmod氏のnoteであれば 2:成長発達主義的人間観、あるいは、「創造と堕落」の物語を見誤らせる「成熟と喪失」の物語 の辺りからが本題であろうか。そこまで飛んで頂きたい。ただ個人的には時系列順に読んだ方が(私も筆者も前の章で述べたことを知っている前提で書くので)理解しやすいのではないかと思う。
文章の時系列順にご覧になりたい方はそのまま進んで頂きたい。
「野蛮な進化心理学」
筆者はダグラス・ケンリックの「野蛮な進化心理学」を挙げ、米国人がキリスト教を支持しているかどうかと彼らの婚期の時期に相関が見られるということを紹介している。
「以下のような本邦の現状」は上に挙げたリンクから直接飛べるので参考にして頂きたい。
つまりまとめると、高学歴の人ほどキリスト教的価値観から外れ(成長発達人間観の枠組みにより近い)、低学歴の人ほどそのような傾向が見られなかったということだ。これは低学歴の人は馬鹿だから宗教的価値観に疑問を抱かず、高学歴の人は頭がいいから宗教的価値観に惑わされないというわけではなく、単なるライフスタイルの違いである。
また、noteで以下に紹介するブログが挙げられている。
このサイトで紹介されている「野蛮な心理学」の引用を以下に挙げる。
引用が長いが、要はモテない男は自分の妻に托卵されるリスクを減らすために保守的な宗教的価値観を持ち、モテる人は自分の性的自由を制限されたくないのでリベラルになる、という身も蓋もない話である。また女性は高学歴だとライフプランとして社会進出をしたがる傾向にあるためリベラルになり、低学歴だと家庭に入ることを選ぶようになる傾向にあるので保守的になる。リベラルな女性でも家庭に入りたい願望があるのは自明の理だが、ここでは触れないことにする。
またこのことからどちらかというと恵まれた人がリベラルになりやすく恵まれていない人が保守になりやすいことも読み取れる。
「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」
また、筆者はサトシ・カナザワとアラン・S・ミラーの共著である「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」も挙げている。
イスラム教では一夫多妻制度が教義上許されており、そのため妻を得られなかった弱者男性は容易に「無敵の人」になり得る。こうして不満を募らせた弱者男性が起こすのがテロである。これはフェミニズムによるバックラッシュと似ている。これはフェミニズムによって実質的な一夫多妻制度のようになっているためだろう。
元々はリベラルであったはずのフェミニズムがイスラム教と同じような状況になっているのは皮肉と言わざるを得ないが、とにかくイスラム教はこのように「無敵の人」を生み出しやすい点でフェミニズムと近い部分がある。そのため、アンチフェミ界隈でイスラム教を持ち上げるのはお門違いだと筆者は述べている。そしてその一方で、イスラム教と同じような一神教という側面を持ちながらも一夫一妻制に拘るキリスト教と対比している。
そしてスティーブン・ピンカーの著書「心の仕組み」を紹介している。その後に「進化心理学で宗教の起源を解説」という関根弘葵氏のnoteが収録されていたように記憶している(ブックマークしていたのでURLは追えた)が、残念ながらURLが無効になっているので削除されたのかもしれない。「関根弘葵」なる人物も見つけられなかった。読んだことのある方がいらっしゃったら(もしくは筆者ご本人が)内容を教えて頂けると大変ありがたい。
話を戻そう。キリスト教が貧しい男(弱者男性)に受けたのは、一夫一妻制という規範のおかげで自分も配偶者獲得の機会を得られるからである。
ただ、だからといってキリスト教が、保守的な意味でのフェミニズムの対抗馬になると安易には考えないことだ。その理由は次の章で説明する。
宗教への期待の批判
人間の欲望を助長するリベラリズムは宗教によって抑えられる。このように考える人がいるが、そういう人の主張ではさも宗教がない状況では制約がないと人間が欲望を抑えられないかのように描写されていることが多い。
似たような言説として「リヴァイアサン」で有名なトマス・ホッブズの「万人の万人に対する闘争」があるが、これも人間を性悪説で捉えている。人間は自由な状態では欲望を抑えられないので、大きな権力(神命説では宗教、リヴァイアサンでは政府)が必要だということだ。
このような宗教へのある種の期待に関して、筆者は懐疑的である。
イスラム教原理主義者によるテロはもちろん許されることではない。しかしその背景を考えてみれば、特にフェミニズムによって抑圧されてきた男性であれば共感できるのではないか。三大宗教の中でも最も保守的なイスラム教でさえ我々が理解できるような欲望の成就を目的としている。況んや、他の二宗教をや。
この後4つリンクが貼られているが、これらに関する言及はない。初めの2つは宗教とは何かについて語っている。
宗教とは超自然的なもの(神や仏など)を信じることを宣言し、多くの人が信仰するように努力するものだとデネットは定義付けている。また、キリスト教の関連ではデネットが神に抱くイメージがサタンのようなものだという。
そしてキリスト教が「保守的で道徳的な」規範で縛るようなものではないのに「道徳的な一夫一妻制」と保守派の人々に語られていることを皮肉っている。
これで、保守派がよく主張するという、リベラリズムへの対抗馬としての期待を宗教に向けるのはお門違いであることが理解できたかと思う。少なくとも「キリスト教は保守的な一夫一妻制を維持している」という考えは誤りなのだ。
経済の左派・右派にも性が絡む
小山氏が述べているのは、キリスト教右派が宗教的には右派であるのに、経済政策では左派であるのは珍しいということだ。しかし、キリスト教右派であっても経済では左派を支持する場合が多いのだ。むしろそちらが主流でさえあるようである。
そもそも経済左派・右派とは一体何か。
端的に言うと、自由主義的な経済政策を行うのが経済左派、公共投資を抑制するのが経済右派である。この経済左派・右派だが、これにもキリスト教の男女観が関わっている。
その後、筆者は「アメリカの恩寵」と「キリスト教の精髄」を挙げて引用を記している。
アメリカでは規範がリベラル寄りになっており、その反動として福音派という保守的なキリスト教の系統が台頭してきたというわけだ。いつの時代でも、ある思想に偏ると必ず揺り戻しが起こるのだという好例だろう。
「キリスト教の精髄」の方は引用が上記のものだけで文脈が読めないため推測でしかないが、恐らく「こんな社会」とはすなわちキリスト教的価値観が根を下ろした社会であり、キリスト教の思想が一義的ではないことを示していると私は解釈したが、違う解釈があったり筆者本人の解釈があったりしたらコメント欄で教えて頂けるとありがたい。
その後のリンクは筆者のツイートだが、チャールズ・テイラーの「〈ほんもの〉という倫理」の引用を紹介している。
アメリカのキリスト教右派は、性道徳の面では保守的になり(中絶を否定するプロライフもこちら)経済では左派的になる。逆に自然保護を訴える人々が女性の中絶の権利を訴えたりする。
まさに、「野蛮な資本主義に反対する人達の方が、野蛮な資本主義を何の迷いも無く擁護する人達よりも所有的個人主義(ここでは中絶の権利)を徹底する事がある」のである。何とも皮肉的である。
以下のサイトはnoteに貼ってあったリンクではなく私が見つけてきたものだが、これも宗教右派と経済左派という矛盾を端的に説明しているだろう。
ここまでのまとめ
時系列に従ってここまで読んで下さった方には感謝する。私自身勉強不足な点もありその上参考文献の書籍は1冊たりとも読めていないため、誤読や誤解もあったかもしれない。間違いの指摘等はコメント欄にして頂けるとありがたい。
これまでの章のまとめとしては、
大方こんなところだろうか。私としてはキリスト教の男女観そのものというよりはその背景だったり、政治・経済分野でも男女観が関係しているというようなところを述べていたように見受けられた。つまりここまでは実は本題までの長い前置きのようなものであり、本題はこの後からなのだ。
長くなったが、本題の章の解説に入りたい。
キリスト教の一対婚への拘りと成長発達人間観
先の章で、本題は 2:成長発達主義的人間観、あるいは、「創造と堕落」の物語を見誤らせる「成熟と喪失」の物語 の章からであると述べたが、私個人は本題はその少し前の辺りからだと感じた(一気に飛べるように章の区切れ目を選択したまでである)。それは、1:進化心理学者達の着眼点、性と宗教の関係 の章の最後の方の段落である。
フェミニズムではかつての「保守的」な男女観を「男社会からの押し付け」であるとしてそれからの脱却を試みる思想である。アンチフェミ左派(≒マスキュリスト左派)もそのような男女観が「女性からの押し付け」であるとして脱却を試みる。だが実は保守派も同じである。「保守的」な男女観を是としている点はフェミニズムやアンチフェミ左派とは違うが、「保守的」な男女観は欲望がそのままでは崩壊するから抑えるのだという考え方である。
これらは制約がなければ欲望が解放されるという考え方の面で似ているのだが、ここの段落は実は最初の方の章で否定されている。
もちろんその文の直後でも再び否定されている。
保守的な色合いが濃いイスラム教においては俗的な欲望(性欲)を満たす傾向が出て、リベラル色が強いキリスト教(≒カトリック)で一夫一妻制への拘りが見られるという矛盾がある。これは先程述べた「制約がなければ人類の欲望は野放図になり崩壊する」という言説では説明が付かないというのだ。
この「制約がなければ人類の欲望は野放図になり崩壊する」という考え方こそが、最初の方に述べた成長発達人間観であろう。これによりキリスト教がなぜ一対婚に拘るのかを理解する際に誤解を生じやすくなるのだ。
一対婚は当為ではなく憧憬や郷愁
ここからnoteは次の章へ移る。
キリスト教が一対婚に拘るのは、欲望に対する制約としてではない。遡源的・退行的な憧憬や郷愁を得たいがためであるということであろう。
その後『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』の引用を紹介している。
キリスト教の信仰の対象であるイエスは、信仰者に対して命令を下していない。重要なのは「この世界をどの様に見えるのか」であるのだという。
我々は自分一人で自分を「存在」させることはできない。そのため、自分が存在するとされた時というのは我々にとって極めて重要なものである。これが、「本来そうだった筈の有様」としてある種規範のように我々の根源的な部分に働く。これは「意志」で制御できるものではなく、「心」に訴えかけるものだ。
これだけでは抽象的すぎて分かりにくいので、この後に具体例が登場する。その具体例は次の通りである。(リンクは筆者加筆)
性行為の際に女の乳首を吸ったりカップル同士で互いを「ベイビー」などと呼んだりする行為を通じて脳内では赤ん坊のときに分泌されていたのと同じホルモンが分泌されるのだという。我々は恋人同士との睦み合いを通じて自分が赤ん坊だった頃への憧憬や郷愁を感じているのだろう。
「本来そうだった筈の有様」
「本来そうだった筈の有様」とは赤ん坊だった頃であり、エデンの園であり、労苦もジェンダーもなかった時期である。大人になるということは、このエデンの園から追放される、すなわち労苦や性的役割を引き受けることを意味する。人はしばしば、キリスト教は労苦や性的役割を背負わせる、つまり自立させるような宗教であると考える。以下エーリッヒ・フロム「愛と性と母権制」の引用。
このような「神話的」なものはそれを信仰している人にとっては事実であるというわけではなく、信仰している人もフィクションとして考えていることが多い。これが我々がキリスト教を誤解しやすい所以であると筆者は指摘している。
とはいえ、フロムはかなり昔の人だそうで(果たして1980年代まで生きた人を昔の人というのかはさておき)、その言説は今では通用しないのではないかと筆者は前置きし、ジョーダン・ピーターソンの「生き抜くための12のルール」にも似たような言説があることを述べている。以下引用。
我々人間は皆赤ん坊であった。労苦も性的役割も引き受ける必要はなく、無邪気であった。楽園を追放されて労苦や性的役割を引き受けるのは大変な苦痛を伴うものである。キリスト教はこの労苦や性的役割を引き受けさせる父権的一神教であるのだという。
また筆者はさらに江藤淳の「成熟と喪失」の引用も対比として紹介している。
母である自然から拒まれることには、大きな罪悪感が生まれる。この悪を引き受けることが大人になることであり、自由を得ることなのだという。
キリスト教への誤解と成長発達主義的人間観
前の章でいくつか紹介した文献から読み取れる言説は次の通りである。
筆者が挙げた限りでも多くの文献でこのような考え方が垣間見える。この考え方は多くの人のなかなかにかなり根深く存在するものなのだ。
成長発達主義的人間観は、成長発達人間観とほとんど同じ意味と思って差し支えないだろう。つまりこれもキリスト教への理解を妨げるものだ。また、キリスト教には父性的な面もあるのだが、母性的な面もある。父性的な面とは先程いくつか挙げたように、労苦や性的役割を引き受けさせるいわば「前進させる役回り」である。一方で母性的な面とは「郷愁を誘う審美的な原風景」であり、いわば「退行的な」ものである。
キリスト教は父権的一神教であるだけではなく、母権的でもある。にも関わらずキリスト教が父権的でしかない、すなわち保守的に道徳を身に付けさせるためにのみはたらいているという誤解が生まれることが多く、これがキリスト教の理解を妨げる。この誤解を筆者は成長発達人間観だとか成長発達主義的人間観と呼んでいる。この原因は様々あるが、一つには儒教のような保守的で年功序列の色合いが強い、かつ道徳的な思想が挙げられるだろう。このような思想と相まって、キリスト教は「道徳的な宗教である」と勘違いをされてしまうのだ。
母性的な原風景の担い手
この後、noteでは次のように述べられている。
男の子を主人公としている云々とその注釈については後程紹介する。ここで述べられているのは、(男性から女性への)恋愛というのは、「個我は目覚めたが完全に大人になりきれている訳でもない」いわば子供と大人の境目である人との関係を結ぶことであり、また「イデアルな審美原型の担い手たる母の劣化互換的代補者」として赤ん坊の頃への退行的な欲望を満たす行為でもある。
このような「女性とは何か」という問いに対する答えは時代を追うごとに変遷しているらしい。
恋愛における女性観は、「子供と大人の境目である、恋人としての女性」と「赤ん坊の頃への退行的な欲望を満たす、母親としての女性」という二面性を持っている。もちろんこの両者は完全には一致せず、母親としての女性は恋人としての女性にはなり得ず、恋人としての女性は母親としての女性にはなり得ない。
これはちょうど、女性にとっての男性観である「身体的魅力の高い、恋人としての男性」と「収入や家事能力のある、父親としての男性」というものが完全には一致しないのと同じである。
松永天馬とアーバンギャルド、内村鑑三、そして再び江藤淳
先程の文章での男の子を主人公としている云々に関する部分のみ引用する。
音楽グループ「アーバンギャルド」の作詞家である松永天馬は、キリスト教の知識に長けていた。彼はその知識を歌詞に盛り込んだ。
2014年というかなり最近の時期(その割には私は全く聞いたこともないが)にリリースされた「さくらメメント」。この曲の歌詞でも松永天馬のキリスト教の知識とジェンダー的な色が垣間見える。これが少女フェミニズムの打破に繋がるかもしれないと筆者は言う。
筆者は松永天馬の神学的教養への感受性と同種の感受性に長けていたとして内村鑑三を紹介しているが、この両名の間の関係については見つけられなかったのでどなたか分かる方がいらっしゃったら教えて頂きたい。
内村鑑三は、「失望と希望」で美しくも罪悪な日本の前途を憂いている。
内村鑑三と松永天馬の間に直接的な関係は見受けられなかったが、日本の前途への憂いという意味であれば両者に通ずるところがあるだろう。筆者は恐らくこの点で彼ら二人を結びつけたのだと考えられる。アーバンギャルドの「鬱くしい」という表現も内村鑑三の憂いと似たところがあるように思われる。
この後筆者は、再び江藤の「成熟と喪失」を紹介している。
江藤は愛妻家として知られていたが、実は妻にDVを働いていた。
このブログでは、大塚英志の「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」を読み、その考察を書いている。これによると、大塚が言うことには江藤は「少女フェミニズム的」なのだという。
戦後の女性は、母になるという「性的役割」を嫌がり、「少女」であり続けようとする。
この後筆者はアイザイア・バーリンの「バーリン ロマン主義講義」を引用している。
何にも縛られない、純粋で「怠惰な」少女。この純粋な状態への退行的な欲望が高じて少女フェミニズムとなったのだと考えられる。
少女フェミニズムの具体例
現代でも悪名高い現役フェミニストの上野千鶴子氏は、江藤と対談したり「成熟と喪失」を涙なしには読めないと語ったりしたという。彼の「少女フェミニズム的」な思想が彼女に影響を与えた可能性は十分にあるだろう。
初期ロマン派から後期ロマン派にかけて、重視される女性観が「恋人」から「母親」に変化していたが、江藤はその逆を行っていた。
つまり、「母親としての」女性より「一人の女(少女)としての」女性の方が重要であるということだ。これを端的に述べたのが画像の文である。
これはまさに少女フェミニズム的であろう。上野氏は、母親としての義務より少女としての生き方の方を重視している。しかもその少女としての生き方をあろうことか息子に認めてやれと言っている。これほど義務を放棄し権利だけを貪るフェミニズムを端的に表したものはないだろう。
また、少女フェミニズムによって共同親権が認められないという問題もある。
記事が削除されているので以下のリンクから飛んで頂きたい。
フェミニズムでは、DV阻止の観点から離婚後の単独親権を進めてきた。DVの被害者の9割が女性であるとして、子供連れ去りや単独親権を支持しているのだ。
しかし以下の資料から、DVの被害者の男女比はほぼ1:1ではないかということが窺えるし、
子供の虐待も実母が圧倒的に多い。
このようなことから共同親権にすべきという意見が増えているが、フェミニストは頑なに既得権を手放したくないようである。それどころか、反対を言論封じと考える人も見受けられる。
このような矛盾が生じるのも、フェミニズムが「少女的」であるが所以であろう。
江藤の女性観
筆者は再び江藤の「成熟と喪失」の引用を紹介している。
江藤は幼い頃に実母を亡くしている。つまり、幼児退行的な欲求を満たす対象がいない。その絶望的なものがここでは述べられていると考えられる。彼の女性観は、幼い頃に実母を亡くしたという経験が大きく影響しているだろう。
とはいえ、江藤の女性観を知るには貼られたリンク資料が少なすぎる。よって先程紹介した再びこちらのサイトから江藤の女性観を紐解いていこうと思う。
先程も少し触れたが、江藤は愛妻家として知られていた一方で、妻にDVを働いていた。大塚英志は、この行動について、次のように解釈している。
幼児退行的な欲望を満たせる母親が亡くなり、「甘美な痛み」だけが残った。江藤は母親によって満たされていた「退行的な欲望」を妻に求めていたのである。すなわち江藤にとって妻は、「母親の下位互換」のような存在であったのだ。
こう考えると、江藤が少女フェミニズムと親和的だったというのも頷ける。江藤は妻を母親に見立てて母親からの離反の体験という「甘美な痛み」をもたらす行動を江藤は繰り返していたからだ。これは先程述べた「退行的な欲望」ひいては上野氏や単独親権の例と通ずるところがあるだろう。
エヴァンゲリオンと「汚らわしい」性
筆者はここで話題をエヴァンゲリオンの方に移す。
女性というものは、恋人としての存在と母親としての母性的存在の二面性を持つ。
関連して、エヴァンゲリオンのキャラクターの父性・母性については他のnoteでも指摘されている。
こちらの考察については本筋から大きく外れるので割愛する(そもそもエヴァンゲリオンを見たことがないのに考察も何もないのだが)。
話を戻そう。筆者はこの女性観を、性欲や性交がリベラルな社会で嫌われる、すなわち「汚らわしい」ものであるとされるのかを解き明かす鍵となると説明している。
性欲や性行為というものは、退行的な「子供返り」的な行動である。純粋であるはずの「原風景」を赤ん坊の頃であると定めてしまったことで、この退行的な欲望が汚らわしいものとされてしまった。
性は最初から汚らわしいものとされていたわけではなく、むしろ聖職とも関係していた。性を不浄なものであるとしたのは他でもない宗教である。
しかし筆者は、この「汚らわしい性」について違う解釈を示しているようだ。
キリスト教は、最初から人間を性的に把握している。そして、性を汚らわしいものとしたのは「自己完結的な世界観に内在する問題」であるとしている。キリスト教とは全く別系統の世界観である成長発達人間観の中で、性は不浄視される(儒教とかであろうか)のだという。それほどまでに成長発達人間観というものは強い影響を及ぼす。
筆者は「キルケゴール著作集〈第18巻〉わが著作活動の視点・野の百合・空の鳥 (1963年)」の引用を示している。
前後関係が分からないので読解しにくいが、先程述べた(※5)と関連しているのだろう。
結婚式の際(キリスト教式であれば)「永遠の愛を誓う」という表現を聞くことがあるだろう。しかし、時間把握が苦手な女性でなくとも、「永遠」という言葉は煩わしい。これは「永遠に相手に尽くさなければならない」「永遠に義務を果たさなければならない」という「倫理的側面」の重さを感じるからだ。それなのに「美しい愛」などという「美的なもの」の皮を被ると、途端にそれは永遠という時間をあたかも軽いもののように見せる。倫理だけなら永遠というものは堅苦しく退屈なものだが、これを「何となく綺麗な感じの言葉」で飾り立てることで永遠という重みをなくす。
「少女革命ウテナ」とジェンダー
話はまた変わり、「少女革命ウテナ」に移る。筆者はこの「少女革命ウテナ」を「鋭いジェンダー論点観点を含んでいる」と高く評価している。
私はこの「少女革命ウテナ」をよく知らないので、筆者の説明を読んだ方が早いであろう。
「あるがまま」の女性、すなわち純粋で「怠惰」で「少女的」な女性。この女性を理解したいがために葛藤している様子が男性フェミニストと重なるのだという。性犯罪者がフェミニストとして女性に近づく場合もあるが、そうではなく純粋に「フェミニズムを信仰している」男性である。
スンボムの母親の状況には同情する。が、なぜただ生まれてきたというだけで母親への加害者とされなければならないのか。もちろん母親に育ててもらったことそれ自体は感謝すべきことであろう。だが、加害者とされてしまっては敵わない。男性フェミニストは、自分が男性として生まれたばかりに加害者という烙印を押されてしまいしかもそれを受け入れている。男児でありながらフェミニストである子供は、いわば母親やそれ以外の女性たちのヤングケアラーである(女児のフェミニストもヤングケアラーになり得るが、より当事者性が高いので一概には言えないだろう)。
あとがきと次回予告
これは私のnoteのという意味ではなく、sagtmod氏のnoteでのあとがきに相当する部分と次回予告に相当する部分のことだ。彼は次回予告の章に移る前に次のように述べている。
ここで述べられているのは、筆者のキリスト教の未来への憂いであろうか。クリスチャンによる宣教によって却ってキリスト教が異教に換骨奪胎されるという心配をしているようである。
先程挙げた記事では、このように述べられている。
つまり、キリスト教が異教という「悪魔」と戦うという物語を作っているのだが、ともすればその異教がキリスト教に取って代わってしまう。筆者はそれを心配しているのだろう。
そして、次回予告で筆者はこのように述べている。
キリスト教は父性的に「原風景」から引き離して道徳を身に付けさせるものというわけではない。ただ、「原風景」が偽りのものであると提示するだけなのである。
キリスト教がなぜ一対婚に拘るのか 考察
さて、noteでは冒頭から「キリスト教は一対婚に拘る宗教である(と概ね言える)」と述べられていた。が、ここまでお読み頂いても、キリスト教がなぜ一対婚に拘るのかははっきり分からないだろうと思う。実際noteでもはっきりとは示されていない。ただ一つ示されているのは、一対婚は赤ん坊だった頃の母性的な原風景を提供するものであるということだけだ。よって、ここで私の解釈を述べるものとする。
キリスト教は、父性的な面と母性的な面の両方を持っている。父性的な面では道徳や役割を身に付けさせ、母性的な面では幼児退行的な欲望を引き受ける。これと同じことが恋愛でも起こる。
これはnoteの引用であるが、つまり、恋愛の相手像は一義的に定まらない。これは男性でも女性でも同じである。そして、この幼児退行的な欲望の方が、キリスト教がなぜ一対婚に拘るのかを解き明かす鍵になる。
母と子は本来一対一の関係である。双生児等の場合は別かもしれないが、それでも子にとって母は一人である(現代では養子や同性婚カップルの親等で例外はあるだろうが)。この母子癒着という一対一の関係が、キリスト教において一対婚を求める原因の一つなのではないか、ということだ。
つまり、母と子という一対一の関係を恋人や伴侶にも求め、自分と相手とで一対一の関係にしたかったということだ。
ただ、私はこの論理にも懐疑的である。というのは、キリスト教が一対婚に拘る理由が「母性的な原風景を求めるから」であるとしているのは、私が探した限りではsagtmod氏のnoteだけだからである。
※追記:精読当初に私が解釈した、「キリスト教では母子癒着という一対一の関係を一対婚に求めた」という論理は誤読であることが判明した。
キリスト教で神が作ったのは赤ん坊という無垢な存在ではなく完全な男女だった。つまり、キリスト教は最初から人類を性的なものとして認識していたのだ。そのため、「キリスト教における一対婚は、原風景において成立していたが、成長と共に良かれ悪しかれ引き裂かれたしまった母子癒着関係の再獲得などではない」。
このように考えると、個人的には保守的な社会を形成するために一対婚にして、その建前として「母性的な原風景」というものを持ち出してきたのではないか、という方がしっくりくる。だからこそキリスト教は「原風景」が偽りのものであると提示していると筆者が述べたのではないか、と。
私のこの思考こそが筆者の言う「成長発達人間観」そのものなのだが、この仮説以外でキリスト教に父性的な部分と母性的な部分の二面性があることをどう説明するのだろうか。もちろん宗教は一人で作ったものではないはずなので、必ず矛盾や不合理、齟齬が生じるのは当然である。仮に一人で作ったとしても矛盾は必ず出てくるはずだ。ちょうど一人の女性に母性的な面と一人の「人間としての」個性という面とが両方存在しているように。
母性的な「原風景」を提示しつつもそれを偽りのものであるとし、父性的に前進させようとする役割がキリスト教で、「原風景」に戻ることをよしとするのが先に述べた少女フェミニズムであり江藤の女性観である。これが私の解釈である。
noteを読んでの感想とオマケ
ここから述べる内容は、特にnoteの筆者本人にとっては、目に触れてあまり気持ちのいい内容ではないかもしれないので、不愉快な方はブラウザバックして頂きたい。
皆さんもsagtmod氏のnoteを読んで感じたと思うが、彼の文章は元々内容が難解なのに加えて文章も読みにくい。例えば「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」の部分で挙げたnoteの引用だが、〈略〉を使ったのはそこで文が切れていたからではなく、全て一文だったからだ。〈略〉で省いた部分を太字にして全て見てみよう。
この長い文で一文である。一文が長いと読みにくくなることは皆さんも国語の授業で学んだであろうが、この筆者はそのお約束ごとをまるっきり無視している。
この文の内容を変えずに読みやすくしてみよう。
これでもまだ読みにくいだろうが、長い修飾部を省き、結論と補足の順番を入れ替えた。私が文章を書く上で意識していることだが、「その原因は」とか「なぜなら」という言葉を使ったらなるべく結論を先に書くようにしている。そしてその後に補足説明を加えると読者としても何が重要かを拾いやすいので幾分読みやすくなるだろう。
さらに、彼の文章では本筋から外れているものが多い。ほとんどが本筋に向かうための前置きか補足である、と言っても過言ではないだろう。文章を書く人が論題に興味があればあるほど起こりやすいことではあるのだが、彼の場合はそれが著しい。ともすれば、何の話をしていたのかを読者のみならず筆者自身までもが忘れてしまう危険もある。よもや忘れているはずはないだろうとは思っているのだが、太字になっているところであるのに本筋から外れている(ように見える)のを見ると、より一層疑いが強まってしまう。
IQが20違うと話が通じないというが、本当に頭のいい人は頭がよくない人にも分かるように説明してくれると思う。sagtmod氏は教養は計り知れないしキリスト教についても相当造詣が深いのだなとは思うが、失礼ながら文章を書くのはあまり得意ではないように見受けられた。私が言えることではないのかもしれないが。
また、個人的に読んでいてがっかりしたのは次回予告の部分。
……まだ本題じゃないんかい!!
後篇では本題に入るとのことだが、その後篇も公開されていないし、彼はもう書くつもりがないのかと疑ってしまう。前篇が公開されたのが2020年の11月で、あれから1年半は経っているからだ。というより、もう書く気がないことを彼自身が表明しているようである。
しかし、何にせよ私はこのようにsagtmod氏のnoteのほぼ全文をなるべく平易な単語に置き換える作業をすることで文章読み取り能力が上がった気がするし、何より彼のnoteは読んでいて興味深かった。sagtmod氏のnoteはまだあるのでそちらの方も書くかもしれないが、そのときはまたお付き合い頂けると幸いである。