見出し画像

「性は聖」?聖娼の物語① 豊穣の女神と巫女たち

(※当記事は有料設定されておりますが最後まで読むことができます。もし面白いと思ってくださった方は投げ銭として記事を購入していただけると幸甚です。)

(※学術的に疑問が持たれている情報や独自の解釈が含まれているため、あくまでも「物語」とさせていただきます。)



宗教と売春

 今の世の中では「売春は良くないこと」だとされています。

 しかし一方で「売春は人類最古の職業」とも言われており、人類にとっては切っても切れない風習でもあります。そして古代には「神聖な儀式としての売春」があり、それに従事する「聖娼」という職業がありました。

 宗教と売春とは非常に密接な関係があります。

 「チンパンジーと同じぐらい人類に近い」と言われる霊長類ボノボのメスは、オスが取ってきた食べ物と交換で性交を許すといいます。

 これは売春行為だとも言えますが、人間でないボノボには制度的な結婚という規範もないし、さらに言えば、ボノボ社会はメスが様々なオスと性交する乱婚制であり、あくまで人間になぞらえて売春と指しているに過ぎません。

 そもそもが売春と婚姻という区分は人間社会にのみ存在する境界線であり、特定の男女を夫婦とする婚姻という規範や契約がなければ、売春という違反行為も存在しえません。そして古代から現代まで続く人間の営みにおいて、宗教とは規範そのものです。

 故に、それが現在にも続く売春行為だとはっきり定義できる最も古い記録は宗教に基づく「神聖的売春」という形態から始まっているとされます。(一方、有史以前の太古の時代における売春行為は原始的売春、本能的売春と区別される)

 神聖的売春とは、「寺院に仕える巫女や尼僧が一定の喜捨を収めさせることで男たちに体を提供する」というシステムを指し、その寺院の管理者たる神官はまるで娼館の主人のようなポジションとなるため、これが現在主流となっている「営業的売春」の根源だとされています。



聖娼と豊穣の女神

 現在のイラクの一部にあたる、チグリス川とユーフラテス川の間にある地域に興った古代メソポタミア文明では、生命の源である霊的エネルギーは女性の子宮から生まれるものと考えられていました。

 また、この文明は多神教を信仰しており、その中には有力な神の一柱として、「豊穣の女神」とされる存在が常にありました。

 この女神は地域や時代によってイナンナ、イシュタル、ミュリッタ、アナーヒター、アーシラト、アシュタルテなどとその名が変わり、戦争の女神としての性質を付与されたりもしますが、みな「愛と美」そして「多産と豊穣」を司る女神であるというところは共通しており、基本的な性格として、結婚をせず多くの恋人たちを持つというエロティックで奔放な女性像を持ちます。

 古代の都市国家において国力とはすなわち人口でした。そして多くの人口を養うためには、広大で肥沃な土地とそこで働く生産人口が必要です。

 古代メソポタミアでは「生命の源は女性である」と考えられていました。そして毎年種を蒔くことで農作物を生み出してくれる大地は性交により新たな生命を生み出す女性の肉体と同一視され、こうして母なる大地と性を司る「豊穣の女神」のイメージが形作られていきます。

 また、性交によって人はその母なる大地の力を得られるとも考えました。豊穣の女神を祀る神殿において、女神から祝福を得る儀式である生殖行為をすることによって、母なる大地から生み出される聖なる力を得られると信じられていたのです。

 そして豊穣の女神を信仰する女性達には、神の愛を伝えるための神聖な儀式すなわち性交による奉仕が義務付けられるようになりました。これが神聖的売春の始まりとされています。

 「歴史の父」と呼ばれる古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、初期の神聖的売春とは国民に課された神事で、
「すべての女性は一生に一度は愛の女神の神殿に行き、そこで見知らぬ男に身を任さなければならない」
 というものでした。

 神事である以上は報酬は定められていません。また、女性が男性を選ぶことは認められておらず、男性に選ばれて性交しなければ家に帰ることは許されません。身分の高い女性や金持ちの女性でもこの義務からは逃れられませんでした。

 神聖的売春は国民の義務であり、女性達が豊穣と多産を祈ってその身を神に捧げる奉仕活動だったのです。

 しかし時代が進むに連れてこうした風習は絶え、当初は国民の義務であった神聖的売春という制度もしだいに「専業の女性が女神の神殿に常駐して勤める」という形式に変わっていきます。

 この新たな形式の神聖的売春において、神の愛を伝えるための儀式を行ったのが「聖娼」である巫女たちでした(「ヘロドトスの話は疑わしく、最初からこの形式だった」とする説もあります)。

 一般的に、巫女とは神に捧げられた存在であり、人と神との仲立ちをするものです。

 それゆえに、性に寛容な古代メソポタミア文明の世界にあっても男神に仕える巫女には処女性が求められました。例えば、ハンムラビ法典で有名な古バビロニア王国では神官の行状は厳しく管理されており、高位の女神官が酒場に行くことは死罪となる危険がありました。また彼女達は閉経するまで結婚は許されなかったとも云われます。男神に捧げられた女が『ただの男』と同衾することはタブーとされたのです。

 一方、豊穣の女神に仕える巫女達には性交によって男たちに女神の慈悲を伝えるという役割が与えられました。

 豊穣の女神と神聖的売春は切り離せないもので、その神殿において行われる性交は神聖なものであり、聖娼は「聖なる業」に従事するものでした。豊穣の女神は自分を敬い寄進や祈祷を捧げた者たちのために、巫女の躰を通じてその慈悲と愛を授けたのです。



二人の英雄と聖娼

 この聖娼達が社会に対して少なからぬ影響力を持っていた存在だったことはバビロニア文学「ギルガメシュ叙事詩」の一節でも示唆されています。

 この物語の中で、都市国家ウルクの王ギルガメシュの増長を制裁するため神々はエンキドゥというライバルを作り出します。このエンキドゥは悪く言えば獣そのままであり、人間としての知能は殆どありませんでしたが、無垢ゆえの強さを持っていました。

 エンキドゥに狩りを妨害された狩人の訴えを聞いたギルガメシュは彼からその無垢性を奪うことを考え、聖娼シャムハトを派遣します。

 シャムハトが服を脱いでエンキドゥを誘惑すると、彼はそれに応え、六晩七日に及ぶ(!)性交を行い、その合間に人間の飲食物を口にしますが、それによりエンキドゥはギルガメシュの目論見通り無垢性を失い弱くなってしまいます。

 しかしその代わりに知恵と理性が生まれたエンキドゥはシャムハトから人間の風習、作法などを学びます。そしてギルガメシュのことも知った彼はウルクへ赴き、彼と格闘した末、最後は互いの力を認めあい深い友情で結ばれることとなります。

 自分と互角の存在がいることを知ったギルガメシュは増長することをやめ、英雄にふさわしい精神を得て、親友となったエンキドゥと冒険に赴くことになります。

 このエピソードでは聖娼が特別な存在だったことの他にも、女性が男性の獣性を鎮められる存在であることや、その魅力で男性を骨抜きにしてしまうことが暗に示されていると言えますし、また、性交によって獣から人に生まれ変わったばかりのエンキドゥにシャムハトが様々なことを教え社会に参加できるようにする姿は「母」のパーソナリティを感じさせます。



娼婦の守護神イシュタル

 豊穣の女神の中で、現代でも非常に知名度が高く人気なのが『イシュタル』です。

 元々はシュメール民族の都市国家ウルクで信仰されていた豊穣の女神「イナンナ」が、紀元前2300年頃にメソポタミアを最初に統一したアッカド帝国がシュメールを支配したことにより、アッカドの女神「イシュタル」がその豊穣の女神としての性質を受け継いだもので、以降、イナンナとイシュタルはほぼ同一視されます。

 イシュタルの人気は非常に高く、多数の神話伝承に登場し、メソポタミア全域において多くの神殿を持っていました。

 最上位の神々に匹敵するほどの信仰と権能を持つ特異な存在で、「天界と大地の女王」「天界の女神官」「明けの明星と宵の明星」「月の最初の娘」「雷鳴を伴う嵐」「有徳の審判者」「罪を許す者」「神聖な女羊飼い」「子宮を開く者」「女神の中の女神」「大いなる貴婦人」・・・まだまだあって、とても書ききれないほどの称号を持っています。

 また「処女の女王」「聖なる処女」「処女なる母」とも呼ばれました。

 ちなみにイシュタルは特定の配偶神を持たず、多くの愛人を持つとされていました(男神タムムズが夫とされますが、「最も寵愛された愛人」というほうが正確かと思われます)。120人もの恋人を持ち彼らと休まず性交を行ってもまるで疲れを知ることはなかったとも伝えられています。

 どこが処女なんだよ! 

 と思われるかもしれませんが、この場合の処女性とは肉体的な性体験の有無ではなく新たな生命を生み出すためのエネルギーを秘めていることを指しています。

 一般に女性にとって妊娠・出産とは多大なエネルギーを費やすものです。毎年毎年妊娠することは難しいですし、現実としては加齢によりその能力は低下していきます。

 一方、多産を祝福する豊穣の女神は人間とは違い不老でその身には無限のエネルギーを有しており、「どれだけ性交しても失われない処女性」を持っていたのです。

 そんな彼女は娼婦の守護神としても知られており「娼婦たちの母」「慈愛豊かな娼婦」「天界の神殿娼婦」などの称号でも呼ばれました。

 この神殿娼婦はギリシア語で「ヒエロドゥロス」と言いますが、これは「神聖な仕事」「聖なるものの召使い」という意味があり、売春業は女神に仕えるものが行う神聖な行為でした。

 イシュタルの神殿に奉仕する女神官達は、神殿にやってくる男達と性交することによって、女神の創造的な生命力を伝える神聖な存在だったのです。

 また、高位の女神官の仕事として「聖婚」がありました。聖婚とは、男女二神の交合やそれを模した儀式のことです。

 古代メソポタミアにおける聖婚儀礼はその年の豊穣を願って宇宙の始まりとされた元日に行われるもので、女神に扮した女神官とその恋人である男神に扮した王が交合するというものでした。

 王は聖婚の儀式によりその恋人として女神からの祝福を受け、その加護により国民を統治するのです。そして聖婚の儀式において女神の役割を演じる、つまり王と性交する相手となることは高位の女神官の重大な職務の一つでした。

 アッカド帝国を建国したサルゴン一世は、自身を「女神官(つまり聖娼)の私生児として生まれ、庭師の父に拾われ、イシュタルから愛された者」と称しました。

 また、叙事詩の英雄ギルガメシュも母が女神で父親は人間です。古代メソポタミアでは女神に連なるものを母に持ち、そして女神に愛される存在であることが王の資格として重要視されていたのです。



息子と恋人と死と再生

 これはまた、豊穣の女神の恋人は実はその息子であることも示唆されています。王の息子はやがて新たな王となりまた聖婚を行いますが、その聖婚の相手は肉体的には別の女神官でしょうが、儀礼的には女神イシュタルです。

 つまり、イシュタルは歴代の王すべての母であり恋人でした。

 イシュタルの有名なエピソードとして「冥界下り」があります。死すべき定めにあった息子であり愛人の男神タンムズを救出するために冥界に下りますが、このエピソードは女神が母なる大地であるのに対して、その恋人である男神は地上に実る穀物であることが示されていると云われます。

 大地は永遠ですが、穀物は毎年新たに芽生え、枯れていく。

 地に生まれ、地に還り、そしてまた地に生まれる。

 それ故に、豊穣の女神の恋人は死と復活を繰り返す存在として描かれたのです。

 ちなみに「ギルガメシュ叙事詩」にもイシュタルは登場し、ギルガメシュに好意を抱いた彼女は様々な手段で誘惑しますが、ギルガメシュは彼女のこれまでの恋人がみな悲劇的な最期を遂げていることを理由に断ります。

 イシュタルは強い愛情を持つ女神である一方、残忍で酷薄な面も持ち合わせており、愛情が冷めてしまった恋人はあっさりと捨てられ、殺されたり、動物に姿を変えられたり、幼子を供物にされたりしていたのです。

 また、イシュタルは自分の愛を受け入れない者に対しても強い敵意を持ち、彼女の誘いを断った庭師イシュヌラはモグラに姿を変えられ、またギルガメシュに対しても、腹いせに父親である天神アヌに泣きついたり脅したりして用意させた『天の雄牛』という怪物を差し向けます。

 ギルガメシュはエンキドゥと協力してこれを打倒したものの、その力を恐れた神々の手によりエンキドゥは呪われ殺されてしまいます。親友を失ったギルガメシュは死を恐れるようになり、不死を求めて旅に出ます。

 神と人を隔てていたのは死であり、半神半人(正確には2/3が神らしいですがどういう計算かは不明)のギルガメシュでも死は逃れ得ませんでした。

 イシュタルが愛し、そして捨てた「多くの恋人たち」とは男神たる歴代の王たちのことだとも云われます。

 神は永遠だが、人は死から逃れられない。そんな現実の残酷さがイシュタルに移り気で残忍な一面を持たせたのかもしれません。


俗化する売春

 このように、古代メソポタミアの王国では売春は豊穣の女神に仕える巫女である聖娼が行う神聖なものだとされてきました。

 しかしすべての売春が神聖なものとみなされていたかと言えば、やはりそんなことはなかったようです。

 時代が進むにつれ、しだいに聖と俗の区別は曖昧になり、酒場の女や踊り子による売春なども当たり前になっていきました。また当時は大勢の奴隷がいた社会であり、裕福な市民は女奴隷を売春させ収入を得ていたとも伝わっています。

 これらの売春は神聖的売春に対して「世俗的売春」と区別されます。そしてこの世俗的な売春婦の地位は決して高くはなく、現代と同じように「まっとうな社会」からは切り離された存在でした。

 しかし売春という行為が豊穣の女神への信仰と密接に結びついていた社会のためか、バビロニアではそうした「世俗娼婦」たちにも「自分達はイシュタルに仕え神々に奉仕している」という意識があったようです。

 いずれにせよ、聖娼が豊穣の女神の神性をその身を通して男性に伝えるという性質を持っていたのは確かであり、彼女達は『巫女』と『娼婦』という現代では相反するようなパーソナリティを矛盾なく同居させていました。



聖娼を終わらせたのは誰?

 さて、この聖娼による神聖的売春はやがてある勢力の台頭により終焉を迎えることになります。

 それは父権的な唯一神を奉じる宗教です。

 現代の三大一神教として知られるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教ですが、これらの宗教はすべて同じ神を信仰しています。信じる神は同じですが、その言葉を伝える存在や解釈の違いにより分かれているのです。

 そしてこれらの中でも源流となっているのがユダヤ教で、その成り立ちにおいては多くの聖娼が集まっていたであろうバビロニア王国の首都バビロンの存在が非常に重要となっているのですが、これはまた別の機会に触れたいと思います。

 禁欲や自制を重んじるこれらの宗教にとって、奔放で性的な女神への信仰は好ましいものではありませんでした。

 別の記事で私は、キリスト教やイスラム教などの一神教における唯一神は男性的な性格を持つ「父なる神」であり、神を父とする家父長制的な世界観を持ち、また、キリスト教における「悪魔」とは、異教の神々がキリスト教に取り込まれる際に唯一神に敵対する悪魔としての地位を与えられることとなったものだと書きました。

 神を父とする家父長制的な世界観においては、女性には妻としての貞淑さが求められ、娼婦は罪深き存在と位置づけられます。

 たとえば新約聖書に登場するイエスに従いその埋葬と復活に立ち会ったとされる女性「マグダラのマリア」は、カトリックの伝承では娼婦を意味する「罪深い女」(the Sinner)だとされています。


 「マグダラのマリア」が本当に娼婦だったかについては諸説ありますが、
「娼婦=罪深い女が神の教えに触れて改心する」という物語はキリスト教の世界観をよく表していると言えるでしょう。

 キリスト教が生まれた時代には、既に新バビロニア王国はアケメネス朝ペルシア帝国によって滅び、そのアケメネス朝ペルシア帝国もマケドニアのアレクサンドロス大王の東征によって滅ぼされました。アレクサンドロス大王の死後は後継者戦争を経てセレウコス朝シリアが支配する地域となります。

 ここでメソポタミア文明はエジプト文明やギリシア文明と融合し、新たなヘレニズム文明としてその名残を残します。ヘレニズム文明は地中海地域に伝播し、豊穣の女神への信仰もギリシア神話のアフロディーテ、ローマ神話のウェヌス(ヴィーナス)と名を変えつつも続きました。

 聖娼の風習も残っており、ギリシアの都市コリントのアフロディーテの神殿は非常に有名で、「コリントの女」といえば娼婦を指しているほどでした。

 キリスト教の使徒パウロは新約聖書で当時のコリント協会における不道徳について警告していますが、このパウロの純潔・禁欲思想がキリスト教の性に対する倫理観に大きな影響を与えたとされます。 

 そんなキリスト教はローマ帝国内で長らく弾圧、迫害されていましたが、西暦4世紀初頭のローマ帝国皇帝「コンスタンティヌス一世」が313年にミラノ勅令によってキリスト教を公認したことで大きな力を持つようになります。

 そしてこのコンスタンティヌス一世がローマ帝国の首都をビザンティオン(現イスタンブール)に遷都した際に、旧来の多神教の神々の絵や像はキリスト教のものに変えられます。「女神の神殿」も破壊され、聖使徒教会に作り変えられました。

 一神教にとって神とは唯一神のみであり、旧来の神々が並び立つことは許されません。異教の神々は悪魔とされ、娼婦の守護者だったイシュタルも悪魔「アスタロト」に貶められます。

 そして392年にはキリスト教がローマ帝国の国教となったことで、地中海地域における神聖的売春は終わりを告げました。


 メソポタミア周辺では、徐々にゾロアスター教を中心としたペルシア人固有の文化が台頭し、そして7世紀にアラビア半島で興ったイスラム教が急速に広まったことで、この地は唯一神を信仰するイスラム教国が支配するようになり、古代の神々への信仰は姿を消していきました。

 そしてイスラム教も非常に厳格な男性中心とも言える教義を持っており、売春は厳しく取り締まられるようになりました。

イスラムにおいて婚前交渉は厳しく禁止されており売春は重罪である、特に異教徒との関係は禁止されており、既婚女性が不倫を行えばジナの罪として死刑になる。
<Wikipedia「ヒヤル」より>

 ここに古代メソポタミアから始まり地中海周辺にまで広がった神聖的売春の歴史は幕を閉じ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教の下で「売春は罪深きもの」という認識が支配的となり、それは現代まで続く価値観となっていきます。



売春は本当に悪なのか?

 現代に生きる私達は、性とはどこか後ろめたいもので、またそれを売る売春婦は賤業であると考えているのが一般的です。

 たしかに、売春(日本では禁止されているため性風俗のことだと思ってください)によって起こる不幸や、貧困などにより望まずして売春をしなければならないことは、特に人権が重視される現代では許してはならないものでしょう。

 しかし「だからといって、売春という行為そのものを敵視し、邪悪なものだと見做すのは果たして妥当なのか?」と、売春の歴史について調べていく中で私は考えるようになりました。

 父権的な神が支配する前の古代世界においては、その職業に従事する女性達には「女神に仕え愛と慈悲を与える者」としての名誉や待遇が与えられていた。

 それは売春という行為を女性に行わせるためのエクスキューズだったという見方もあります。しかし、性とは人間の営みから切り離せないものである以上、それを邪悪視して否定することは自分達の認めたくない部分から無理やり目を逸らしているのかもしれません。

 聖娼という現代の感覚では特異な存在。それが当たり前だった時代において、性とは忌むべきものではなく「性は聖」だったのです。

 次回は古代オリエント以外の世界における聖娼について取り上げてみたいと思います。



参考情報

※この記事の執筆にあたって、以下の書籍を参考とさせていただきました。

また、以下のWebサイトを参考とさせていただきました。



(※当記事はここで終わりです。面白いと思ってくださった方は投げ銭として記事を購入していただけると嬉しいです。)

ここから先は

44字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?