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フェミニストとアンチフェミニスト両方向け、キリスト教の男女観、あるいは進化、保革左右、そしてキリスト教(前篇)

2022/09/05 有料部無料公開。

 教会は告白する。ーー教会は、性の問題に関して男女間の全ての秩序が崩れ去っていくことに対して、行く道を示し、助け励ます言葉を知らなかった。教会は、純潔の軽蔑と、性的無軌道の宣言に対して、なんら有効な、また強力な抵抗を知らなかった。教会は、一時的・散発的に道徳的憤慨を示しただけであった。教会はその事によって青年の純潔と健康が失われたことに対して責任がある。教会は、われわれの身体はイエス・キリストの体に属しているのだということを、強く述べ伝える事を知らなかった。『ボンヘッファー選集4』p72

 つとに世間では、『ルツィンデ』(筆者注:一大センセーションを巻き起こした、フリードリッヒ・シュレーゲルによるロマン主義的エロティック小説)の様な種類の書物が不道徳である事を示そうとしきりに試みてきたし、ひとは早くからそうした書物に対してしきりに慨嘆の叫びをあげてきた。しかしながら、それらが詩的であることを著者の方には公然と主張することを、また読者の方には一人ひとり密かに信じることを、ともに世間が許しているかぎり、それには大した効果はないし、人間は道徳的なものが人間に要求するのと同じくらい大きな要求を詩的なものに対してもっているだけに、なおさらその効果は少ないわけである。それゆえ、次に証明されるであろうように、それらの書物は不道徳であるばかりでなく、それらが非宗教的であるという理由から非詩的でもあるという事が言えるであろう。『キルケゴール著作集21巻、イロニーの概念(下)』p241




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 ほとんど全編無料で読めますが、文量の問題もあり、注釈の中で長めのもの二つを、差し当たり有料コーナーにおいています。無料コーナーに戻す可能性も皆無ではないので、ご購入の際はサポートの一環の様な積りでして頂ければ幸いです。

 後、ウテナ論の良いのあれば、本当に教えて下さい。あれはフェミニズムやジェンダースタディーズ、寺山修司などの元ネタへの解体作業など、よく見る類の扱い方では捉え損ねる作品であり、私にとって、失われた30年とは、ウテナ一作に日本の言論人達が負け続けた歴史と言っても過言ではありません。

 やや題を変えたが、Twitterアンケートの結果を受けて、「フェミとアンチフェミ両方向け、キリスト教の男女観」を公開する事にした。私が既にアップしている二本の記事は当事者研究界で起こった不祥事に触発された、べてるの家とキリスト教についてのものだ。なので、引き続き当事者研究を扱うのが自然な流れではあるのだが、今回のテーマたる男女観もその件とまぁ無関係でもないし、私のそもそもの興味に近いのはこちらの方なのだ。

 一度に出すには長くなりすぎたので、アンケートの結果も踏まえ、全体を前編後編に分け、さしあたり前編を先に公開する。前編では、キリスト教の男女観を提示する前に、我々自身がよく馴染んでいる男女観を、後編の理解に役立つ様な仕方で提示したところまでで論を止めている。申し訳ないことに本記事は、私が今まで出した中で、理解のための負担を読者に最も強いてしまうものだと思う。筆者の力不足という常時付きまとう問題に加えて、前後編全体で扱う内容がこれまでの2記事よりは抽象的な上、本旨は後編に回してあるので本記事だけだと掴みどころが見極めづらい様なところがどうしてもあるからだ。それでも、キリスト教が、不勉強なフェミニスト達が自分たち以外を十把一絡げに見なすのと違いいわゆる家父長主義(その意味は彼女たちの定義に従う)の宗教でもなければ、性におおらかで寛容な筈のセックスレス大国日本の表現の自由聖戦士さまがたが「他人の目の中のおが屑」の警句通りに小馬鹿にするような性忌避的な宗教でもない、ということはぼんやり伺い知れるのではないかと思う。

 キリスト教は、今日のジェンダー論的概念で特徴づければ、家父長主義以前の一対婚に拘る宗教である、と概ね言えるのだが、保革左右双方の多くの人とって、その事態は、そう言われただけではピンと来ないのではないだろうか。理解を妨げているのは私達の思考の型であり、それは男女観というより、男女観がその中に収まるより大枠の人間観と言った方が良いのだが、私はさしあたり成長発達人間観と呼んでいる。性の言説で我々の現実生活形成に介入する権力をかなり勝ち得た文化左派の男女観は、私が見る所大筋この枠組の中にあるし、悲しいことに反動右派もそう変わらない。精神医療や福祉分野の活動がよく目につくという私の馴染んだ環境の偏りもあるが、成長発達人間観の浸透力は一般的にもかなり強く、気がつくとキリスト教もその枠組の中に収められて誤解されてしまう(この傾向は、後に触れる様に日本だけの問題でも過去の一時期の問題でもないようだ)。そうなる事を避けるためには、普段は殆ど無自覚に自動的に機能しているこの思考の枠組みを浮き彫りにする必要がある。まずその作業を先に持ってきた積りである。

 色々な参考資料を頼ったが、前編第一章は進化心理学、社会科学的であり、前編第二章は、文芸批評、人生哲学的である。前編第二章ではエーリッヒ・フロム、新進気鋭のジョーダン・ピーターソン、江藤淳、みんな大好き『エヴァンゲリオン』、みんなそんな好きではないが私は大好きな『少女革命ウテナ』など、有名作家・作品をやや入念に扱った。各話題に興味のある方は探してそこから読んでも良いかもしれない。

 それでは今回もお付き合い願いたい。


1:進化心理学者達の着眼点、性と宗教の関係


 ダグラス・ケンリックは『野蛮な進化心理学』の中で、米国人のキリスト教支持の強弱度合いと婚期の時期に非常に綺麗な相関が見られる事を興味深げに報告している。


 大学進学などのキャリア形成によりどうしても婚期が遅れがちな人々は、健康な成人として当然な事に、その間も性的伴侶として恋人や行きずりの相手を求める。その関係はキリスト教的な一対婚規範からすれば外れるものになってしまう訳で、人間にとってかなり根本的な渇望である性的満足の為に取らざるを得ない経路を塞いでしまう様な教えを奉じ続ける苦行を営む動機は常人には維持しづらい。一方、低学歴で働き始め早く家庭を築く人達(※1)はこの種の葛藤にさほど苛まれずに済む。問題の本質は、低学歴の馬鹿者は騙され続ける様な宗教の虚構性を高学歴の知的な人は見破るので信じられなくなる、という様な知的能力や知的誠実さの高低や有無でなくて、それぞれのキャリアプランに規定された早婚か晩婚かという性的ライフスタイルなのだ。

(※1)比して以下のような本邦の現状も、宗教性の有無という観点から解き明かせば面白いのではなかろうか。


 また、サトシ・カナザワとアラン・S・ミラーは共著『進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観』で、とかく物騒視されやすい宗教原理主義の中で、自爆テロを起こすのは殆どイスラームだけであり、その原因は「一神教」の不寛容やら排他性やら狂信性やらではなく(それならユダヤ教もキリスト教も一緒なのだから)、逆に西欧米文明の抑圧に抗する虐げられた者の叫びでも経済格差でもなく(彼らは占領軍の米国異教徒よりも同胞のイスラーム信徒同士で見境なく殺し合ったり、イスラエルがパレスチナの要求を殆ど全面的に認める停戦合意後もあいも変わらずイスラエルへの自爆テロを止めなかったり、右派の民族自決主義や左派の共産主義や環境団体のテロには見られない様な特徴を持っているという)、現世において伴侶獲得競争を激化させる教義上許容された一夫多妻制と、篤信者が受ける資格を得るとされる天国での処女フーリーの饗しという、部外者無しでも成り立つ彼らの世界観内での自己完結的なメカニズムが、敗北者の男性信者に命がけのテロリズムを敢行させる動機を与えている事を解き明かしている。実際、テロリストはほぼ例外なく独身男性なのだと言う(※2)。片や、スティーブン・ピンカーが指摘するように、キリスト教は成立当初より一夫一婦への強いこだわりを武器としている。殉教者エウロギウスが、イスラームをそのハーレムめいた天国観やムハンマドの好色ぶりという性的問題において猛批判したのもむべなるかな。ケンリックの調査からもわかる様に、このこだわりは今日でも中々強い。




(※2)そうした事実を踏まえると、ミシェル・ウエルベックの様なひねくれ者の反動的男性作家や、日本の市井アンチフェミニスト達が、イスラームを、堕落したリベラリズムを撥ね返す強靭な対抗馬を見る様な目である種の感嘆込みで持ち上げるのはかなり奇妙な事態に見える。リベラリズムが、男性間の性的勝敗の格差肥大という点で問題視されているのであれば、同じ問題を神の権威を以て正当化するイスラームは尚更疎ましいと思うのだが…。


 今日、宗教、特に一神教の意義を唱える人々は、その何に期待しているのだろうか?共通善や自然法と云った普遍的基準を提示し、結局のところ人間のエゴイズムを増長させるに過ぎないリベラリズムと人権思想の弊害によりバラバラになった孤立個人達を統一する為の、強力な権威としての神なのだろうか?

 道徳の基礎づけに神をもって来る立場を道徳的「神命説Divine Command Theory」と呼ぶのだが、この立場は神不在の世界を、ひたすら肥大していく個人の我儘、身勝手、私利私欲、短慮の前に為す術もない我欲まみれの亡者共の沼地の如くカリカチュアライズして描き勝ちに思う。対して、宗教は公共意識や利他性や自己犠牲精神や神の前での人間の謙虚さや、といった忘れ去られた諸徳を培ったり、有無を言わせぬ強力な神命で以て秩序を崩壊から守ったりする、という訳だ。だが、先のイスラームのジハディストを例に取っても、蓋を開けてみれば彼らの動機は劣情塗れであり、神への信仰を余り有さない我々多くの日本人にとっても(是認も信用も出来ないが)共感や理解は(特に男性であれば)出来る欲望の成就を狙ったものであるようだ。三大一神教の中では最も保守的で反リベラルと目してよかろう、イスラームの中の更に極右的過激派ですらそうなのだ。他の二教も推して知るべしであり、キリスト教に至っては、寧ろ「律法から恵みへ」という形で道徳的神命からの解放を大なり小なり売りにしている面すらある。特にプロテスタンティズムはストア派哲学の影響を受けた克己的な道徳追求的異端たるペラギウス主義への非常な敵視により自派形成して来た歴史があり、道徳主義の匂いを感知した場合に忌避を表明する否定的評価含みの概念は、やれペラギウスだのやれ律法主義だのやれパリサイ主義だの深く浸透している。こうした点はよく言われる様に、本邦で言えば浄土仏教のラディカルさと良く似ているのかもしれない。





 進化心理学は、人間の性の実相が、自然科学的な究明の対象たる生物的な条件に裏付けられている、という考えてみれば当たり前なのだが長らくジェンダー/セクシュアリティ論がフロイト左派的な流れを踏まえて人文主義的に扱われる中で見失われがちだった事実を次々暴き立てて行った。

 彼らが、キリスト教の一対婚への固執やイスラームの一夫多妻やハーレム天国に、些事ではなくその宗教の肝であるかの様に注目するのは、少なくともキリスト教にとっては部内者から見ても適切な把握のようだ。実際、結婚は信者にとっても保革左右が甲論乙駁繰り広げる極めて重要な話題である(日本のキリスト教会ではなく、米国の場合だが。後編では少し具体的に触れるつもりである)。

 今となっては、福音派(キリスト教保守派)といえば共和党の支持基盤であり、小さな政府を掲げる経済右派の御用宗教の様なイメージがあるが、実はそれはかなり最近と云って良い様なある時期からの事で、意外なことにそれもキリスト教の性への拘りを一因としている。彼らが経済右翼政策を掲げる共和党の支持に集中し始めるのは1970年代からであり、60年代に勃興した性革命に反発した保守的な人々が福音派の成長を促し、共和党がこの票田に目をつけ、その後の蜜月に至るというのがことの成り行きであるらしい。福音派が共和党を支持する主な理由は、その性的保守性であって経済右派性にさほどの頓着はないようである(※3)。詳しく知りたい方はロバート・パットナムとデイヴィット・キャンベル、『アメリカの恩寵』をお読みいただきたい。パットナムとキャンベルは、性革命こそが、今日にまでその罅を残すアメリカ分断の本震源だったと見なしている。キリスト教にとって、かくも性の問題は重大事、という一例である。


(※3)有料コーナーへ。コミュニタリアニズムとは、ユダヤ・キリスト教に支えられた、C・S・ルイス的な文化保守と経済左派の両立路線と見なせるのだが、日本人でもアンチリベラルに多い、コミュニタリアン的主張を唱える人達は、一体どの宗教を思想的支えを頼るつもりなのか、という批判。


すでに見てきたのは、1960年代の終わりから1970年代はじめの数年間に、劇的に性的規範が変化したさまだった。婚外交渉、同性愛、ポルノグラフィーそして中絶の含まれる、これら相互に結びつきあった問題は長き60年代に白熱した。その次代に全国的な規範はリベラルな方向に変化したが、その変化時代はあらゆる世代の保守的なアメリカ人にとって、根本的な道徳変化に感じられた。文化革命に飲み込まれなかったアメリカ人は、その革命(そして、その社会的、道徳的帰結になるだろうと彼らが恐れたもの)に対する自らの抵抗への支持を、より保守的な宗教系統に求めた。すぐ後に見るのは、性道徳(或いは不道徳)についての懸念が、福音主義の台頭に緊密に結びついているという事である。『アメリカの恩寵』p120

白人アメリカ人における宗教性は今日では、貧困者への政府支援に対する保守的な見方と結びついているが、このつながりは宗教性と婚前交渉、中絶、同性愛のような性道徳に対する見方の間の相関よりはずっと小さく、また政党支持やイデオロギーと、貧しい人への支援に対する見方の間の相関よりもずっと小さい。p256

1970年代に先立っては、教会に行くかどうかは政党選考とほぼ関係がなかったことはこれまで見てきた。…六十年代の社会的喧騒のために、まさしく非常に個人的な争点の新たな集合によって政治は定義されるようになり、その中に中絶が含まれていた。…長き六十年はアメリカ社会に対する衝撃であって、その影響は未だ感じられるものになっている。引き続き到来した第一の余震は、アメリカ社会に響き渡るもので、神学的に保守的なーー主として福音派のーー宗教が復興した。この第一の余震はまたアメリカ政治に波及し、選挙民の中に新たな分裂と連携を生み出した。宗教的な者の合同が一体となり始め、そして宗教右派として知られる政治運動が誕生した。p387


 ’もしこんな社会が現実にあって、私達がそこを訪れたとしたら、私達は奇妙な印象を抱いて帰ってくるのではないかと思う。その経済生活は非常に社会主義的であり、その意味では「進歩的」だが、その家庭生活や礼儀作法はどちらかというと旧式で、儀礼的・貴族的とさえ言えるーーこんなふうに我々は感ずることだろう。我々はそれぞれ、この社会のある面を好ましいと思うだろうが、この社会全体が気に入ったという人は、余りいないのではないかと私は思う。しかしキリスト教が、人間という機械を動かす為の全体的計画であり、またその計画通りに人間が動いたとするなら、今言ったような結果にならざるを得ないのである。’『キリスト教の精髄』C・S・ルイスp140





 だが、進化心理学は、キリスト教が一対婚に拘る事までは理解できても、どの様にしてその拘りを成立させているかまでは、余り理解していないか余り興味を持っていなのではなかろうか。そしてその点は、進化心理学者だけでなく、私達一般の日本人にとっても、実は同様ではないだろうか。性に関する言説で根拠薄弱ながらかなりの勢威を勝ち得てしまったフェミニズムの影響下に大なり小なりある左翼知識人達は、一対婚及び男女の性規範を、一種の窮屈なお仕着せ、性の領域における押しつけがましい道徳リゴリズムの様に見なしている。実は誰もそんな束縛の中に閉じ込められたくないのに、「ありのまま」の本当の欲望や情熱を「抑圧」されているのだ、特に男性により女性が「支配」を課されてそうなっているのだ、と。右派もまた一対婚への評価の是非は左派と逆転しているとしても、一対婚のあり方への理解は左派とそう変わらないのではないだろうか。一対婚は、野放図に任せれば世界の秩序を崩壊させる男女の性的欲望に抑制をかけ適切なレベルに収める為の一種の道徳的な枷なのであり、そういう枷は多少窮屈でも世のため人のため何より当人達のために必要なのだ、と。

 この様な見方は、上のイーグルトンによって「キリスト教としてならサタン的」と酷評されたデネットの神観が恐らくそれなりに当てはまる所の、人間の道徳的行為の支えとしての絶対神という神命論的傾向が3大一神教の中で最も強いイスラームにおいてこそ、一夫多妻が容認されたりまたジハディストの自爆テロの動機が神など関わりあろうがあるまいが古今東西の性欲を持て余した男性が憧れそうなエロティックな夢想であったりすることや、逆に三大一神教の中で神命論的道徳基盤としての神の存在感は最も弱いキリスト教において、一夫一婦結婚生活への固執がかなり強いことを上手く説明できない様に思われる。

2:成長発達主義的人間観、あるいは、「創造と堕落」の物語を見誤らせる「成熟と喪失」の物語


 では、キリスト教は、どの様に男女一対婚への固執を成り立たせているのだろう?結論から言うと、これは私が神学書や教導書や神学論文を、大した量ではないものの一般の日本人よりは多く読み漁った上での見解なのだが、キリスト教の一対婚への固執は、欲望(したい)を抑制する道徳的当為(べし)として神という有無を言わせぬ権威から押し付けられる概念的な倫理的当為命題以前に、溯源的・退行的な憧憬や郷愁が結びつく原風景の想念として提供されているらしい、という事だ。倫理学分野では「存在 (is; Sein) から当為 (ought; Sollen) を導くことができない」という有名な命題がある。前者は事実について真偽を判ずる科学の領域であり、後者は善悪を分かつ倫理の領域とされる。存在は逃れ難く否応のない現在の事実であるけれども、当為は我々が我々の可能性を我々自身で展開する自由な行為の為の時間的空隙たる将来を切り開く。現在の事実への知的な直視及び把握と、将来への自由で倫理的な前向きの進行。この2つの区分で足りないのは、自己の存在を0から1へと成り立たせた由来への、後ろ向きの遡行である。わたしは先の二つの論考で、宗教で重要なのは前向きの将来への進行でも今ここの現在・瞬間でもなく遡行してたどり着く由来の共有なのだ、と繰り返し述べたが、由来、という概念は今日日、見失われ勝ちだ。その理由は明白である様に思われるが、本論の論旨を逸れるのでここでは述べない。





 誰しも自分で自分を存在に至らしめた訳ではないのだから、自己の存在が初めて成り立たった始端への遡行は、自由や自発性に回収しきれない他由的、他発的な否応なき人間の条件を各々に弁えさせると共に、その後の歴史の展開の中で失われていく「本来そうだった筈の有様」(「ある」でも「べし」でもない)として、ある種の規範的に機能し私達の発想を規定する。そしてこの規範は道徳的な概念原理というよりは、審美的な想念原型として、私達の「意志」より私達の「心」を捉える。非常に多くの場合、人間の性関係や性行為は、審美的な想念を通じて我々が郷愁を覚える原風景への遡行の欲望、或いはもっと深い渇望と強い繋がりがある。性行為において、私達は、生理的衝動、感覚刺激、イマジネーションの混ぜ合わされたカクテルの味わいを堪能している。実践理性の運用としての道徳行為は自立した足を将来に向けて踏み出す前向きの進行だが、性行為は運動としてみれば後ろ向きである。非常にありふれた一例をあげれば、雄が雌の乳房を弄り乳首を吸う生き物は人間だけであり、言うまでもなく乳首や乳房は赤ん坊向けの授乳器官だが、恋人の女の乳房に顔を埋め乳首を吸う男は、性交という成人同士にしか許されない経路を通じて、幼児退行的な願望を確かに満たしても居る。Twitterでこの様な事を言えば即座に「女はお前のママじゃない!」とフェミニストからの猛烈な反感が飛んできそうだが、『性と愛の脳科学』によれば、成人カップルが互いを「ベイビー♪」などと親しみを込めて呼びあう、という非常に良く見られる現象に対応して、睦み合う恋人同士の脳内では赤ん坊の受容時に出るのと同じホルモンが分泌され絆の形成に役立っているのだそうだ。どうやら「ママ代わり」も結構な割合の女性たちが満更でもない様子である。


 人はしばしば、キリスト教やユダヤ教の様な父権的一神教は、この母性的な原風景から良くも悪くも人間を引き離し、個人として自立させ、大人としての規律や規範を叩き込む宗教だと思っている。エデンの園とは自意識のまどろみの中で母の腕に包まれ、労苦もジェンダーもなかった天使的に無垢な幼少期を意味するのであり、堕罪とは自意識や個我の目覚めを意味しーーその証拠に性的羞恥心という思春期らしい特徴がこの時現れるーー楽園追放とは、大人になる事、即ち労働の苦労を引き受け、性的に成熟した人間として伴侶を持ち、家庭をよく収める家長の役割を引き受ける事を意味するのだ、と。

’楽園の生活とは何を意味するのか。母親の胸に抱かれた乳飲み子の生活である。楽園では息子は労働する必要も、土地を耕す必要も、己の衣服を縫い上げる必要もなかった。息子は、惜しみなく与え、慈悲深い、愛情溢れた母親、すなわち肥沃な大地によって庇護され、扶養された。(…)「堕罪」、すなわち楽園追放とは、オイディプス葛藤の叙述であり、乳飲み子が父親と同一化する少年へと変身を遂げていく過程の叙述、息子が成人となった結果として父親の側から近親相姦の制限を打ち立てる過程の叙述である。’『愛と性と母権制』エーリッヒ・フロムp206


 エーリッヒ・フロムの『愛と性と母権制』は、その様に個人の成長発達の神話的象徴的表現として創世記を読み解く分かりやすい例だ。はっきり言っておかなければならないが、キリスト教の創造と堕落に描かれる人間観は、人間の成長発達の神話的表現とは全く以て見せないものである。信仰者にとってはそれは神話や象徴などではなく事実なのだ、と言いたい訳ではない。百歩譲って仮に単なるフィクションとして見ても、まるでそういう話として読めないのだ。私見では、我々日本人がキリスト教を見誤り続けているのは、この点での誤解のせいが大きい。

 古典的な思想家とはいえ、フロムなぞとうの昔の人で今時真に受ける者もいなかろう、と言ってもいられない。というのは、上記フロムの様な創世記の成長発達的読解に近いものは、ポストモダニズム以降の文化左翼的なアイデンティティ・ポリティクス、ポリティカル・コレクトネスへの批判者として近年頭角を現して来た現役のカリスマ的臨床心理士ジョーダン・ピーターソンの著作の中でも展開されているからだ。

 アダムとイブは、はじめに楽園に置かれた段階では、意識が朧げだったようだ。自意識は明らかに持っていなかった。その証拠に、人類最初の男女は裸だったが、恥ずかしいと感じなかった。『生き抜くための12のルール』p74ジョーダン・ピーターソン、以下同

神は、最初の男と女を楽園から追放した。幼児期から、無自覚な動物の世界から追い立てられ、歴史の恐怖そのものの中へ放った。82

人間のなかには、堕落する以前の状態もいくらか残っている。いわば、わたしたちは覚えている。子供時代の無邪気さ、神聖かつ無意識の生き物としての「ビーイング」、触れるもののない大聖堂のような原生林に立ちし、永遠に懐かしい気持ちを抱いている。そういったもののなかに、ひとときの休息を見出す。そういったものを崇拝する。たとえ私達が無神論の環境論者を自称していても、私達はそれを信じている。こう考えると、自然の本来の状態が楽園という事になる。しかし人間はもはや自然と一体ではなく、一体だった頃へ単純に戻る事もできない。86

もともとのアダムとイブは、創造主と切り離せない一体として存在していたが、意識を持っていなかった(勿論自意識もなかった)。目が開いていなかった。完成度においては、堕落した後の人間より下だ。87

悪は、自意識と共に世界に侵入する。アダムは神から労働の呪いをかけられた。それだけでもかなり悪い。イブは出産の痛みと夫への依存を課せられた。これも、ささいな事ではない。これらは、苦痛を伴う。

労働の必要性は、原罪の報いとして神がアダムとその子孫に課した呪いの一つであることを思い出して欲しい。〜犠牲と労働はほとんど違いがない。また、どちらも人間ならではのものだ。



 彼らの「創造と堕落」理解の正誤を、神学書や何よりも聖書自体に照らして検証する作業は後編にまわして、しばらく彼らの世界観そのものの内容に注目してみよう。特定の思想家に結び付けずとも、フロムやピーターソンの様な人間観は漠然と現代人の発想に浸透し、その世界把握の枠組みをかなり強く規定している様に私には思われる。例えば、戦後日本人男性の母子関係に注目した江藤淳の『成熟と喪失』における以下の様な箇所と、先のジョーダン・ピーターソンの叙述を比べてみて欲しい。

(母=自然から)拒まれた者は決して純潔ではありえない。なぜなら拒否されたものは同時に見捨てられた者でもあるからである。そして自分が母を見捨てた事を確認した者の眼は、拒否された傷口から湧き出てくる黒い血膿の様な罪悪感の存在を、決して否認できないからである。「成熟」するとは、喪失感の空洞の中に湧いてくるこの「悪」を引き受ける事である。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。『成熟と喪失』p32江藤淳

「自然」も「死」も、もとより善悪の彼岸(筆者注:「堕罪」とは善悪識別の木の実の摂食であった事を思い出して欲しい)にあるもの、「悪」を解消させて「純潔」に変えるものである。しかしそういう「自然」に焦点をあわせて『海辺の光景』を書き上げた時、安岡氏は実は「悪」の自覚による新しい「自由」を獲る道を、自ら半ば閉ざしたのである。氏はつまり「純潔」を選んで、「悪」から眼をそらしたのである。『成熟と喪失』p33江藤淳


 残念ながら本論でいちいち典拠を直接確かめている余裕はないが、それはおそらくヘーゲル、カント、ルソーまでは少なくとも遡れ、勿論フロイトやユング、ラカンのような大物のみならず、彼らのエピゴーネンたる有象無象の教育者や心理学者や精神科医達を経由して、さらに本邦含む東アジアの場合は元より根付いていた儒教の教育主義的関心と相通じ合い、舶来のものでありながら土着的旧弊固陋を強固化させるという紛らわしくも厄介な機能を果たしながら今日に流れ込む、かなり根の深いものである。さしあたり成長発達主義的人間観、とでも呼んでおくこの異教的関心の中で、父なる神を崇める一神教は(キリスト教は父なる神だけではなく三位一体の神を崇めているのだという事実はあまり取り合われず)、道徳的な当為を強いて人間を将来に向けて前進させる役回りを託されがちだ。対して郷愁を誘う母子癒着の審美的な原風景には、そこから離反して前進して行くことを余儀なくされた若者にとって退行的な欲望が結びつく。そして、家族である父母の外で出逢う異性(異性とはこの場合女性を意味する。既にお気づきかもしれないが、この物語は基本的に男の子を主人公として組み立てられているからだ。この点は既に色々な立場から批判の矢が注いでいる様だが、私も後編でキリスト教的観点から批判するつもりである。本邦では左派的な偏見のせいでそう思っている人は非常に少ないと思われるが、女性を主人公とする物語のベースを提供できることは、キリスト教の有意義な特徴の一つである(※1)。)は、母から離反したが完全に父の命令に服している訳でもない人生行路の反抗的なモラトリアム的段階、個我は目覚めたが完全に大人になりきれている訳でもない孤立個人の相関者として掛け替え無き個対個の関係を託される恋愛の相手候補でもあれば、一方でイデアルな審美原型の担い手たる母の劣化互換的代補者として、幼児退行的な情欲を満たす遡源の営為としての性行為の睦み合いの導き手でもある。

(※1)一例を挙げれば、同志社大学神学部出身という珍しい経歴のポップミュージシャン、アーバンギャルドの作詞家、松永天馬は、日本の少女趣味的美的的文化が無自覚に囚われている死や罪の闇を浮き彫りにする視点として、彼の神学的教養を駆使している。だからといって、同種の感受性に長けていた内村鑑三と違い、彼は護教的作家ではなく、あくまで異教文化に封じ込められた毒気を与え返して混ぜ合わせ独特の妙味を醸し出すための手段として利用しているだけであるが、これもキリスト教的観点の効用であることに違いない。彼の作詞を自分に「刺さる」ものとして受容して来た層は主に若い女性たちであったことは、後ほど触れる「少女フェミニズム」打破の一方途を示すものとしても注目に値する。


 フロイト左派の思想家として、旧来の精神分析の父権(公正、規律、文明などを齎すとされる)偏重傾向を相対化すべくバッハオーフェンの母権(慈愛や平等を齎すとされる)制研究を好意的に評価するフロムによれば、初期ロマン派から後期ロマン派への移行は、重視される女性観が「恋人」から「母親」へ、という移行に対応しているらしい(※2)。筆者が知る限りでも確かに、初期ロマン派の詩情世界を標的に定めエミュレートする事で批判する、というキルケゴールの屈折した試みの中で、ボヘミアン生活を送る審美家達の女性賛美は殆ど恋愛至上主義や刹那的な享楽主義と同義であり、「母性」は所帯じみた退屈な市民生活に属する没趣味なものに分類され、詩情の源泉としては余り見られていないようだ(※3)。先ず恋の相手、次に母性、というロマン主義におけるこの女性観の変遷の順序はなかなか興味深い。


(※2)ドイツ観念論や初期ロマン派と異なり、後期ロマン派の場合には、女性とは何かという了解の意味転化が傾向的に生じたように思われる。前者では、女性とは本質的に愛される対象であり、女性との合一が真の「人間性」に至る所以であったとすれば、後者では女性は次第に母親の意味になり、女性との関わりは「自然的なもの」への回帰、自然の体内における新たな調和を意味するようになる。p167フロム

(※3)キルケゴールが造形した架空の語り手達の中で、母性を称えるのはボヘミアン達ではなく、人生の先輩として彼らに穏やかな訓戒を施すメンター的倫理家、落ち着いたプチブル紳士といった人柄の予審判事ウィルヘルムである。『あれかこれか』や『人生行路の諸段階』で取り扱われている審美家と倫理家の違いは、進化心理学で言う所のGood GenesとGood Dadの男性類型の違いに似ている所がある。そして重要なのは、キルケゴールは、宗教性をどちらでもないものとして提示している事である。

 というのは、江藤淳は『成熟と喪失』(※4)の中で、吉行淳之介の『星と月は天の穴』を扱い、近代化の波に飲まれ母子癒着の安らぎから否応なく引き離されて行く日本人(ここでも日本人は自明の如く男性なのだが)が、しかし敗戦という父権を失墜させる戦後日本の特殊事情によって、父の背中を追いかけて大人になるという規範的な成長ルートも塞がれ、刹那的な異性交遊に憂き身をやつす事しかできなくなった救いがたく不毛な姿を主人公のプレイボーイ矢添克ニに見出していたりするからだ。江藤の女性観は母、次いで恋人(個性尊重という麗しき理念と恋愛を結びつけた初期の恋愛賛美者達が気づかなかったその帰結たる、破壊的で不毛で刹那的な情事の相手)、という順番で、ドイツ・ロマン派とは逆向きに見いだされている訳である(※5)。江藤の『星と月は天の穴』への批評は、コルネイユの『メデ(メディア)』のヒロインへのシラーによる賛嘆や、フリードリッヒ・シュレーゲルのスキャンダラスな猥褻小説『ルツィンデ』の主人公たるボヘミアン青年ユリアンによる登場人物幼女ヴィルヘルミーナへの賛美に向けられたものとして読んでも殆どその侭通用しそうである。







ここには「記憶」が拒否されるように「自然」も「季節」もない。しかしまたこの人工的な世界には正確に言えば「人間」も居ない。「父」と「母」という二つの根源的な原理を抹殺して、「人間」を超えるものの姿を見失った時、「人間」は皮肉なことに「人間」にとどまることができずに、抹消的な感覚に解体されざるを得ないからである。『成熟と喪失』江藤淳p203以下同

もし近代文学史の通説の説く様に、日本の近代文学が「個人」の確立を目的にして来たとするなら、その帰結がこの様な前衛華道のオブジェの様な人間を作ることにあったはずはない。しかし、彼らを現に枯死させているのもまた、同じ思想を公認の価値にかかげた戦後という時代にほかならない。

作家にとってすべては感覚の断片をコラージュに仕上げる技工に帰着すれば良いのかもしれない。しかしその結果われわれは、現代生活の性的断片を、丹念に組み合わせる事を生きることに変えている人間の影を得るのである。彼の姿は積木細工をつくる子供に似ているが、そこには実は子供の自足した孤独も安息もない。彼には既に「母」はなく、「父」もまたないからである。」

 この姿は言うまでもなくわれわれ自身の姿に酷似している。だが、だからといって不毛なストイシズム(筆者注:江藤が、刹那の享楽主義を、大抵は禁欲主義と同義である所のストイシズムと表現していることは興味深い。母性から切り離された刹那主義を、幼児退行的な真の欲望成就への断念と見ているからだろう)がいったい何を生むだろうか?「父」と「母」を抹殺し、「父」にも「母」にもならぬことを自己証明にしようとする枯渇した「子」というものが、一体どんな生命力を回復できるだろうか。

 (※4)有料コーナーへ。ネットで悪名高い上野千鶴子の、母の不倫に悩む高校生への助言の遠因になっていると思しき、上野が解説文を寄せ称賛している江藤淳の『成熟と喪失』内の『抱擁家族』論には、作中の設定に合わない奇妙な所がある、という指摘。

(※5)この発見の順番は、大塚英志が『江藤淳と少女フェミニズムの時代』で江藤から上野千鶴子に引き継がれていくと見なしている、「少女フェミニズム」の本邦における非常な隆盛に、何らかの影響を及ぼしているかもしれない。


 成長発達主義的物語の中で、母性には、かつて生まれたての幼子だった自己への退行的欲望の辿り着く先としての由来が託される一方、恋人としての女性には将来でも由来でもない、今この瞬間の掛け替えのない個性が託される。既に古典的アニメとして不動の地位を獲得した『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』での、一切を胎内回帰的個我溶解の海の中に包み込んでいく「人類補完計画」のキーパーソンたるヒロイン綾波レイと、人類補完計画を拒絶した主人公碇シンジに「キモチワルイ」という、受容的な母性とは打って変わって冷ややかな一言を浴びせるもう一人のヒロイン、跳ねっ返り娘の惣流・アスカ・ラングレーは、この二つのタイプの女性像の相違を誇張的に表している。実際はレイとアスカの様に母性的存在と扱いづらい反発的な個我の持ち主が別々に役割分担して存在するというより、女性であれば一人物が両義的な期待を込めて男性から見られもすれば、彼女自身実際その様に差異をはらみながら存在してもいる、という方が近いだろう。

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 この事は、なぜ性欲や性交が、リベラルな近代世界にあってすら厭うべきものとみなされるのかの理由の一つを提供する。それは掛け替えのない個人を、母性というイデアルなイメージの劣化互換として貶める事への、ありとあらゆる古典主義に対するロマン主義的反抗、本質主義に対する実存主義的反抗の一種である。もう一つ、性交が汚らわしい理由は、男性が性行為を通じて遡るべき無垢なる原風景を、自己(男性)が性的に未熟であった赤子時代に定めてしまった事で生じる内的不整合である。疎外論を骨子とする弁証法的運動なるものは得てして皆そういうものになり勝ちだが、最終平和を世界にもたらすための手段として明け暮れる戦争だとか、トリクルダウン的に貧乏人を富ませるための手段としての搾取だとか、分業により生じた、人間が機械の部品の様に酷使される事態に終止符を打ち、労働者の主体性を回復するために必要な過渡としての分業の徹底化とかと同様の、Aという良き目的地にたどり着くための手段としての反Aという事態全般の倒錯と同じものがここにはある。大人だけに許される子供返りとしての性行為において、その目的地を純粋視すれば、どうしても経路は不純という事にならざるを得ない。

 かくて、個性尊重主義的恋愛至上主義は、時間の流れの中で出会われながら、退行と進行、後ろ向き前向き、どちらの時間の流れに乗る運動も拒む「瞬間」の静止的永遠化を、その極北において要求する。少年と出会い恋人となった少女は、処女のまま死ぬことができれば望ましいーーとまで今日さすがに言わないかもしれないが(書いていて思い出したのだが、『世界の中心で、愛をさけぶ』とかあったし、言うか)、キルケゴールが宗教的使命感からその批判に余念が無かった「永遠の宿る瞬間」(※5)という初期ロマン派的標榜は、今日でも少年少女の恋心を扱う大衆文化の中で高らかに歌われており、成長発達人間観における性の不純視は、外の世界からの勝手な価値の押しつけ(そこで引き合いに出されるのはいつも「一神教」だの「ピューリタニズム」だのなのだが。私は先進国中最もセックスレス化の宿痾に苛まれたおおらかで寛容な神国日本の、しかし神国日本を我がものとする神族達との関係がどうなっているのかも不明な当地住人たちが、人間を男と女に創造された神を奉じるユダヤ教やキリスト教を青ざめた性的禁欲主義の様に見なして蔑むのを見ると、地上の楽園たる北朝鮮人が日本の軍国主義と戦うプロパガンダアニメを見た時と同じ様な痛々しい気持ちになる)の帰結などではなく、自己完結的な世界観に内在する問題であるという点では先のイスラームの自爆テロと同様の、構成要素同士の軋み合いに近いのである。因みに、キリスト教では、これもまた成長発達人間観の構成員が逆に考えたがる事だが、この様な性の不純視は、世界観の枠組みを護る限りは生じない。なぜなら、キリスト教は、原風景において最初から人間を性的に把握しているからである。

(※5)《私は直接性を探し求める。個人個人が愛の瞬間において、はじめて互いにとって存在するということが愛における永遠的要素なのだ》《婚約の煩わしさは常にその倫理的側面にある……。美的なものの天下では、全てのものが軽やかで美しく儚い。倫理的なものが現れると、そのときすべてのものは厳格で、堅苦しく、無限に退屈になる》’誘惑者ヨハンネス(キルケゴールが生み出した、享楽的な架空の語り手)




 また、自然を傷つけ、自然から拒絶されてしまった少年の葛藤を扱った日本サブカルチャーにおける好作品として、『少女革命ウテナ』の、主人公天上ウテナのライバルの一人たる薫幹(かおる・みき)少年にスポットが当たる放送第四話・第五話の『光差す庭』がある。母子ではなく双子の兄妹として描かれているが、幼少期に木漏れ日の下で仲睦まじくピアノを弾いていた双子が大人達のお眼鏡にかない、コンサートを企画される。人前でピアノを披露する事を怖がる妹を兄は説得するが、当日体調を崩し、妹だけがコンサートの演台に立つ。独奏を怖がる妹は演奏を途中放棄し逃げ出し、この体験で傷つき、以来兄に心を開かなくなりピアノも弾くのをやめ、思春期に入ると江藤淳が欧米化による内なる自然の破壊に敢えて身を晒す女達として注目する谷崎潤一郎小説のヒロインたちの様に、コケティッシュな妖婦として男子生徒を誘惑する不良少女になってしまう。その原因が、二人の親密な関係を部外者である大人たちへの見世物にしようとした自分の裏切りである事に後悔の念を覚え心を痛めながらも、挑発的な妹と向かい合えば態度を頑なにする事しか出来ない幹は、ある日、本作のファム・ファタル的メインヒロインたる姫宮アンシーが昔の妹と同じ音色のピアノを弾く事に気づき、彼女の音色を大人たちから守るために(そのために彼女を所有しなければならない事で葛藤するが、動機においては彼女を所有するために、ではないのだ)、つまりかつて自分が犯した過ちのやり直しの為に、アンシーとの特別な関係が公認されている主人公ウテナに決闘を挑む事になる。

 幹と梢の兄妹が登場する『光差す庭』『幹の巣箱』では、原初の自然の親密さ、傷つけられた自然の妖婦的堕落、傷つけ拒絶された少年の後悔と自責、と言った江藤淳的テーマがコンパクトに纏められている。私は、「あるがまま」の女性達の良き尊重者たろうと欲する多くの男性フェミニスト達の姿勢に、ウテナに敗北する幹と同じ様な限界を見出すのである。


 因みに、幹は作内では敵であり、しかも次鋒として登場するさほど手強くない相手に過ぎず、『少女革命ウテナ』作品自体の視点はその段階に留まっているものではないので、本論で今後も度々引き合いに出す事になるだろう。私に言わせれば、『少女革命ウテナ』は同時期のエポックメイキング作で今日まで人気のある『新世紀エヴァンゲリオン』に比べても段違いに優れた作品であり、90年代から今日に至る日本アニメの話題作の中でも、富野由悠季、宮崎駿、押井守の様な個性的な世界観故に批評の対象になりやすい大家達の作品を含めても匹敵するものは皆無であり、『アナと雪の女王』などの近年のディズニー映画よりも遥かに鋭いジェンダー論的観点を含んでいる。その様な作品が、批評する能力と意思のあるサブカル知識人によってもまるで相応しい扱いを受けている様に思えないのだが、私が無知なだけなのだろうか?「これは」というものをご存じの方はお教え願いたいものだ。

(↑ウテナの決闘シーンは、決闘相手の物語のダイジェスト版でもあるので、要点を掻い摘みたい人にもおすすめである。)

 改めて断っておくが、私はキリスト教の世界観を、これまで説明して来た諸々とは異質なものとして(ただし『ウテナ』だけは少し違うが)提示する積りでいる。エリック・ホッファーの言うように「空っぽの頭は空っぽなのではない。ゴミで一杯になっている」。伝えるべき内容を伝えるには、その前に、伝えるべき内容が収まるべき場所を予め塞いでしまっている何かを、その内容を的確に描き出す事を通じて取り除けなければならない。偉大な先人キルケゴールに肖り、と言うのも烏滸がましいが、ここまでやって来たのは主にそういう作業である。プロ・アマ問わず日本人クリスチャンによる宣教的試みは、どうもこの点を全く弁えずに、受け手にとっては殆ど外国語の様なキリスト教世界の内側の教義学的神学的概念を切り売りして相手を戸惑わせるか、異教徒の悪習と戦おうとする場合は相手の核心を見誤るか(多神教の多元主義vs一神教の普遍主義、という様に)、相手の姿をそれなりに上手に捉えている場合はしばしば伴う好意的な本音に打ち負かされて、そういう底意があるにせよ無自覚にせよキリスト教側が異教に換骨奪胎されてしまう事に一役買ってしまうか、どれかであると思う。

次回予告

 さて、前置きが長くなってしまったが、後編ではいよいよキリスト教の男女観そのものを扱う。フロム、ピーターソン、バーリン、江藤淳、エヴァンゲリオン、ウテナの幹回に言及したのは、日本人が予め有している世界観の中で一神教の位置づけを探ると、母子癒着の原風景から人を離反させる前向きの駆動力の源泉の様に(それを厭うのであれ求めるのであれ)見られやすいが、そうではないし、その様に見ている限りは、人はまだ母子癒着的世界の中にいるのだ、ということを示したかったからである。それは例えて言えば、ヴィシュヌ神を崇めてきた或るインド人が、シヴァ神やブラフマン神に崇拝対象を変えたからといって、ヒンドゥー教の世界観を別物に刷新させた訳では全くないのと似ているかもしれない。母に甘えれば多神教だが父に服せば一神教なのではない。母も父も、男も女も子供も、全ての在り方を変えてしまうのがキリスト教である。保革左右、殆どすべての立場の思想家が、この事を解っていない。

 キリスト教の三位一体の神は人間を原風景から引き離すのではなく、原風景の内容を書き換えてしまう。いや寧ろ、原風景として私達が母子癒着を思い描く時、その風景は、真の原風景を喪失した後のイリュージョンとして心を満たす、偽りの、まやかしの原風景にすぎない、と、私達の発見の順番と生じた事実の順番を逆に提示する。それがキリスト教の創造と堕落の物語なのである

 前編は、ハワーワスを除き宗教的には門外漢の学者達や、護教的であってもアマチュアの文芸家達を頼ったが、後編のテクストには、、勿論聖書、それに加えてヒトラー暗殺計画に加担して処刑された英雄的牧師であったのみならず優れた神学者でもあったディートリッヒ・ボンヘッファーの『創造と堕落』、21世紀のC・S・ルイスと讃えられたりもする名説教師ティモシー・ケラーの『結婚の意味、わかりあえない二人の為に』、いくつかのクリスチャン向け英語サイトなどを中心に扱っていく積りである。思えば、本邦では、キリスト教を評するにプロの神学者や牧会者の著作を紐解く、という当たり前の経路すら、一般的に取られる事が少ない侭キリスト教についてぼんやりした憶測がまことしやかに流通浸透しているように思う。後編が、その様な野蛮状態に一石を投じ、少しでも改める機縁になれば幸いである。

再びサポートについて

 リツイートなどでの拡散も依然としてありがたいのですが、資料を手元に置くのに不自由する境遇ゆえ、支援の多さは、次回作の仕上がりの早さと、品質の向上に直結します。アマゾンギフトを入れた欲しい物リストのリンクも貼ります。noteを通じた支援(一割手数料取られるしね…)がご不便な方はこちらもどうぞ


 ほとんど全編無料で読めますが、文量の問題もあり、注釈の中で長めのもの二つを、差し当たり有料コーナーにおいています。無料コーナーに戻す可能性もありますので、ご購入の際はサポートの一環の様な積りでして頂ければ幸いです。

 後、ウテナ論の良いのあれば、本当に教えて下さい。あれはフェミニズムやジェンダースタディーズ、寺山修司などの元ネタへの解体作業など、よく見る類の扱い方では捉え損ねる作品であり、私にとって、失われた30年とは、ウテナ一作にの日本の言論人が負け続けた歴史と言っても過言ではありません。

ただ宗教的なもののみが永遠性の助けを借りて、〈人間−平等〉を、神的なそれを、本質的なそれを、非世俗的なそれを、真実なそれを、唯一のありうべき〈人間−平等〉を、最後の最後まで徹底的に遂行できるのであり、それゆえにまたーーこれは宗教的なものを賛美するために言っておく必要のあることだがーー宗教的なものが真の〈人間性〉なのである。(…)時代が最も深い意味で必要としているものは何か―それはたった一語で完全に言われる事ができる。それが必要としているもの、それは<永遠性>なのである。『キルケゴール講話・遺稿集』p5


(後篇に続く。世界を革命する力を…)

有料コーナー

長くなった注釈二つ

第一章

(※3)政治思想における共同体主義とは、文化的保守性と経済的左翼性の両立という、今日の世俗的主要政治勢力が取り零してしまった、偉大な護教作家C・S・ルイスも『キリスト教の精髄』で掲げた組み合わせを、ユダヤキリスト教の世界観の元に復興させる試みと見なす事ができる。Twitterで男女論争を見ると、フェミニズムや新自由主義を敵視する人の中にはコミュニタリアン的な主張をする人が多いが、私が奇妙に思うことに、彼らは本邦においてキリスト教の代わりに何がその支えになるのかについての考察が、本当に殆ど一切欠けている。宗教という括りに収まる思想は、本邦では儒教、仏教、神道しか無い。まさかこの中で、新進気鋭の仏教研究者ニー仏@neetbuddhist こと魚住祐司氏の言う様に「労働もせず異性と目も合わせないニートになれ」と教祖の宣う仏教が(因みに、魚住氏が言うのと違い、わたしには、この標榜が今日の世の進んでいく方向性に抗うものとは余り思えないのですが、みなさんはどうですか?)、共同体形成の支柱になると思う人は余り居ないだろう。神道は、それに好意的な非常に多くの人が、その内容を殆ど知らずに、西洋人の中の反骨思想家が思い描いた実証的根拠あやふやな脳内多神教賛美に基づいて何となく美しげに思い描いているだけで、西洋人の提供した枠組みの中でかつ現実と無関係な自慰的虚妄に耽っているという二重の意味で情けない事態に陥っている。そして、私が見るところ三教の中で最も影響が強いのと反比例して「脱亜入欧」的な同胞東アジア人蔑視が今日でも無意識に働くせいか言及される事の最も少ない儒教は、メリトクラシーを激化させる小綺麗な市民社会向け宗教である。儒教はしばしば農耕民族向け封建思想の様に言及されるが、それは恐らく東洋→西洋の価値評価を含んだ風土差を実体(農業)→反省(商業・工業)→普遍(役人)という概念区分に当てはめ広く悪影響を及ぼしたヘーゲル的偏見を真に受けた謬説である。誰でも知っていることだが、儒教こそが役人主義の宗教であり、東アジアの諸子百家の中では、ヘーゲルも含むドイツ観念論に最も近い。陽明学など都会派エコロハス思想の走りたる初期シェリングの自然哲学やお気持ちフェミニズムの様であり、陸象山の思想はフィヒテの自我哲学の様だ。

 バークやらオークショットやらの保守主義についても同じ事が言えるのだが、本邦に共同体主義の支柱になる思想など何もない。僭主専制と女性冷遇とアジアを結びつけたアリストテレスやモンテスキュー的なヘレニスティックな偏見に正当に抗議するどころか卑屈にも媚びへつらうように、日本のフェミニストがしばしば自国を世界的な女性差別大国視して蔑むのに対して、アンチフェミニスト達が統計や文化的実感を以て反論しているが、その内容の正しさは、性に関しては(実は性だけに限らないのだが)本邦が、逆張り屋達が小馬鹿にする意味でかなり「リベラル」と馴染みが良い事を意味する訳だ。なので、この事実は、フェミニストにとってのみならず、何となく反西洋的、日本右翼的心性を伴う反リベラリストにとっても自己認識の改めを迫るものの筈である。薄々感づいている人もいるのかもしれないが、この事実を直視した上で、コミュニタリアニズムを取るならキリスト教を受け入れなければならないし、キリスト教を斥けるならコミュニタリアニズムを掲げる事をやめなければならないだろう。あなたはどちらを選びますか?



第二章

(※4)ここでちょっと、江藤への批判もしておきたい。江藤は、『成熟と喪失』の中では、実母と実子の非常に強い日本的結びつきを描く作品として安岡章太郎の『海辺の風景』を扱った後、実母でないはずの「女」にまで「母性」を求める強固な心性の徴候として小島信夫の『抱擁家族』を入念に読み解いている。『海辺の風景』は実母実子の癒着の話であり、『抱擁家族』は妻に母性を求める夫の話だ。江藤は、日本人男性の母子癒着幻想の強さには注目しているが、『抱擁家族』において主人公俊介の母子癒着幻想が現れている彼の人生の時期の問題を余り重視していない様に見える。大塚英志によれば、江藤は留学時に交流のあった子なしの夫婦達に米国の風土に培われた文化を感じ取り、自身も妻との間に築き上げる同様な関係にアイデンティティを託そうとしていたらしい。

 だが、江藤夫婦と違い、作中の三輪夫婦は既に二人の子持ちであり、妻の時子は母としてなら既に実際に実子達の実母なのである。夫婦が子供達の父母になった上で、妻に自分の代理母を求める夫に、「私は夫のママ代わりではない」という妻の反発の拠り所となる自己理解が「だって私はあの子達のママだから。あなただってもう坊やじゃない、あの子達のパパのハズでしょ?」ではなく、アメリカ人青年との不倫に現れるように「だって私は自由な女だから」であるということは、夫婦間の軋轢は実母と実子達との関係破綻としても問題視されるべきだと私は思うのだが、原作『抱擁家族』と批評家の着眼点どちらに原因があるのかは私にはよくわからないが、江藤は、まるで作中夫婦による実子ネグレクトに批評家自身も加担するように、夫婦の心の機微を汲み取るのには長けても、子を労る気持ちを殆ど見せない。『抱擁家族』は、江藤が比較している夏目漱石の諸作の様な子なし夫婦のすれ違いの話ではないにもかかわらずだ。

 江藤自身はそれでも、第三の新人世代における「父性の不在」という問題意識の中で、親子関係を視野に収める余地もそれなりに残しては居るのだが、『成熟と喪失』に解説文を寄せている上野千鶴子はこの点を「男性知識人にとって、その自己回復の道が、いつも『父』になり急ぐことなのは、なぜなのだろう。〜男が『父』になり急ぐ時、女はどこに居るのか。『ふがいない息子』が『しっかりした父』になりさえすれば、時子の問題は解決したのだろうか。男が『治者』を目指す時、女は安心して『被治者』になればよいのか」などと述べ、小説の夫婦が既に現実的に実子の実父実母であり、父や母は上野が言うのと違ってなり急ぐこともできればなることを遅らせる事も拒むことも出来る可能性ではなく、既になった現実性であり、そこからの脱却は、自由というより両性の合意のもと既に下された筈の自由な決断(強姦されて身ごもったとか、そこまででなくても無理やり好きでもない相手とつがわされたとかなら同情の余地はあるが、三輪夫妻は恋愛結婚であるらしい)の結果に対する卑劣な責任放棄である点を忘れている気配である。時計の針を登場人物のライフステージに合わせれば、問題は「男が『父』になり急ぐ時、女はどこにいるのか」ではない。「既に母になった女が感傷に現つを抜かす時、彼女の子はどこにいるのか」である。

 上野の、母親の不倫に悩む高校生へのネットで悪名高いまるで事態を理解する積りのないズレた助言の遠因は江藤による『抱擁家族」の状況軽視にあるのではないかと私は勘ぐる。もっとも、上野の相談者のケースのように小説夫婦の子供たちも10代後半で自立も視野に入る年頃のようなので、妻が実母の地位から解放され始めたがゆえの、隠蔽されていた夫婦の問題の噴出、という経緯も考えられるが、それならそうと批評家は指摘するべきだと思う。が、『抱擁家族』の原作に踏み込んで本論で扱うのは手に余るので、これ以上の深追いは避けよう。

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