保守派の人こそリベラルであるという悲しい矛盾
お前は何を言っているんだ
こう思われた方も多いだろう。しかし白饅頭(御田寺圭)氏のnoteを購読している方ならピンと来るのではないかと思う。というのも、
彼はかなり前にそのような内容のnoteを書かれているからだ。
残念ながら私は彼のnoteを購読したことがないので内容は想像になってしまうが、私がこれから述べる内容と大きく乖離したものではないと思われる。
(7月8日現在、御田寺氏の文章で恐らくnoteと似た内容が書かれていると思われるものを見つけたのでここに紹介する)
前置きはこのくらいにして、本題に向かおう。
内心を断罪する「リベラルな」フェミニズム
一見矛盾した言い方だが、ことフェミニスト(フェミニスト以外でもあるだろうが、筆者はフェミニスト以外でこのような整合性の取れない行動を取っても許される人々のことを聞いたことがない)に関してはこのような行動がまかり通っているのである。先述した御田寺氏も次のように述べている。
「内心」を断罪するとはどういうことか。具体的なもので言うと表現規制と小児性愛断罪だろうか。
表現規制に関しては既に述べたことがあるが、
であり、
からである。この「お気持ち」を最もらしい理由(性犯罪率が上がるとか)で要求を通せるのは偏に女性の(性的)価値が男性のそれより優越するからなのだが、私のnoteでも既に触れているのでここでは触れないことにする。
もう一つ、小児性愛(ペドフィリア)断罪についてだが、
(↑途中でグロ画像有り、閲覧注意)
ペドフィリア問題そのものについては上述したnoteとこちらの記事を見て頂くとして、ここでは小児性愛を持ちつつも犯罪を犯していない人のことに言及する。
後ほどまた引用するつもりだが、このnoteの目次の上から7番目「プロトコル次第」の部分からの文章をご覧頂きたい。
ここで重要なのは、「妄想だけなら自由にしてよい」ということだ。実際に行動に移さなければ何の問題もない。しかしここを勘違い(確信犯のもいるだろうが)した人々が小児性愛を嗜好として持っているだけであたかも彼らが犯罪者であるかのように扱う。(確信犯という言葉が誤用だという突っ込みはお控え頂きたい)
ところで、「内心」を断罪するという言い回し、どこかで聞いたことはないだろうか。
お察しの通り、日本国憲法で「精神の自由」が保証される前のお話だ。日本国憲法は知っての通りアメリカからの影響を受けており、リベラリズム的な内容となっている。すなわち「内心」を弾圧する言論統制は、リベラルとは真逆のものなのだ。
女性の性的自己決定権とリベラルの矛盾
話は翻り、最近話題に上がることの多い中絶の権利について取り上げる。中絶の権利を始めとしたリプロダクティブ・ヘルス・ライツはフェミニストたちが真っ先に行った運動であり、優生思想的な側面も垣間見える。
現代でもフェミニストが優生思想的な価値観を持っていることが窺える例もある。
これは日本人のジェンダー観に対して白人が自分たちのジェンダー観を押し付けていると考えれば構図が分かりやすいだろう。
また、中絶問題に際して、こちらも合わせて紹介する。
そんな反社会的な活動であったリプロダクティブ・ヘルス・ライツ運動であったが、これは過去の話ではない。
ロー対ウェイド判決とは、
これに対して各方面から抗議の声が上がったことは記憶に新しいのではないか。
女子サッカーアメリカ代表で、これまでもLGBTQや女性の権利の保護を訴えてきたミーガン・ラピノー選手は、記者会見でこのように訴えた。
彼女はあたかも男性が女性の権利に無頓着で女性の権利向上のために全く意見を出そうとしていないかのように主張しているが、実際にはそれは正しくない。
具体的なデータについては実際にnoteをご覧になって頂くとして、私がここで述べたいのは、男性は女性の権利に無頓着ではなく、むしろ敏感であるということだ。ここを無視して男叩きを行うフェミニスト共は統計が読めないようなのですぐに眼科医か脳外科医に見てもらい、統計学の基礎から学び直して頂きたいものである。
また、反響はアメリカのみに留まらなかった。もちろん日本でも大きな反響を呼ぶ事件となったのだ。
私自身も女であるし、中絶そのものに全面的に反対するわけではない。出産した場合に母体の命が著しく危険に晒される場合や、強姦等の犯罪の被害に遭った結果妊娠した場合での中絶は止むなしと考えている。
ではどのような場合での中絶は認められるべきではないのだろうか。
こちらの記事では、次のように述べられている。
フェミニストを始めとした女性の権利運動を行っている活動家は、このような事例を以て「中絶を女性の同意だけで可能にすべきだ」と主張している。すなわち「私の身体は私のもの」ということだ。一見正しそうに聞こえるが、よく考えると無視されている人権があるのが分かるだろうと思う。
その一つは胎児の生存権である。
しかし、残念ながら胎児の権利は必ずしも守られるわけではない。法律の都合によっても国によっても胎児のどこからを人間(=権利を持つ者)と見なすのかはまちまちである。
(↓グロ画像有り、閲覧注意)
彼女らは時には子供も使い、時にはLGBT等の他の権利も織り交ぜながら「胎児には人権はない」と主張し中絶の権利を求めている。
余談だが、私は胎児の人権の期間を話題にするとき、貴志祐介の「新世界より」の話を思い出す。主人公と彼女の住む町の役員との会話の一節を紹介する。
ここで言う「処分」とは、社会を脅かすような危険な存在となった子供やその可能性の高い子供を殺害するということである。フェミニストたちの言う中絶はまさにこの「処分」であるといえるだろう。「新世界より」の事情とは異なるので子供が社会を脅かすほどにはならないが、出産する女性の権利を脅かすということだ。
あなたが十八歳に満たないときにこの「新世界より」の舞台にいたとしたら、社会不適合因子を持っていたと判明した段階で「処分」される。あなたはそれこそ虫けらか何かのようにあっけなく殺されることだろう。
これと全く同じことを中絶では行っているのだが、そこを無視して女性の権利だけを唱えているのがフェミニストたちなのである。おお、あなた方フェミニストは、女性だけではなく全ての人の権利を守る素晴らしい活動をしているのではなかったのか。(すっとぼけ)
権利を得るのに責任を負わない女たち
中絶の権利と似たところがあるが、女性の性的自己決定権には「強姦されない権利」もある。当たり前だと思うかもしれないが、この権利がなかった時代も当然あるし、今も国によっては「強姦されない権利」がないところもある。
強姦とは、相手の意志に反して性行為を強要することであり、強制性交罪へと罪の範囲が改正されたが、定義は概ね変わらない。ここでは、「意志」に焦点を当ててみようと思う。
つまり、「意志」を証明するのは原告側(被害者と思われる側)である。しかし、法務省の検討会で法律改正の動きがあるようだ。
つまり、「意志」を証明するのは被告側(加害者と思われる側)である。こうなると、被告は訴えられた時点で自分の無実を証明しなければならなくなる。
具体的には、
というようなことが起こっても訴えた側は相手の有罪を証明する必要はなく、訴えられた側の方が自分の無罪を証明する必要があるのだ。
先ほども紹介したnoteでも言われていることだが、
酷い話だが、これが現実に起こっているのである。
それならセックスの度に同意を取ればいいじゃないかという人もいるだろう。それについては花つ葉氏も匿名用アカウント氏も述べている。
これら2つでもセックスの度に同意を取るのが現実的でないことはよく分かるだろうが、彼らより当事者性の高い私の方から1つ付け加えさせて頂くと、
こんなところだろうと思う。現にいわば女性向けポルノと言っても過言ではないTL(ティーンズラブ)コミックでは純粋な(?)女性がイケメンにレイプ(和姦か?)される話が多いし、純愛(恋人同士でセックスの確認をしっかり取っている)を扱うのはほとんどBL(ボーイズラブ)コミックばかりで、しっかり同意を取り自分の決断に責任を取る女性という存在それ自体が排除されている。
女性(レイプ被害に遭うのは女性が多いので便宜上このように言う)には「強姦されない」権利がある。が、その権利をどう守っていくかについては男性に任される上、間違えたらその時点でその男性はゲームオーバー。社会的に抹殺される。
何と女性に有利なゲームだろうか。女性は自分の権利を主張できる上に責任も負わない。子供でさえ権利が制限されているところがあるのに女性はどうだ。
これならかつて日本に女性の参政権がなかったのも頷ける。彼女らは権利がない代わりに保護されて責任を負わずに済んでいたからだ。
先に述べた「私の身体は私のもの」だが、胎児の生存権の他にも侵害されている権利がある。それは父親の性的自己決定権だ。「父親の権利なんてない」と思う方はそのまま回れ右してフェミニストたちの森へお帰り頂きたい。
女性は、「子供を育てる責任が父親にもある」と主張しながらも「子供を中絶する権利は母親のみにある」と主張する。母親にも子供を育てる責任があるのにも関わらず、母親の虐待は社会あるいは非協力的な父親のせいにする。
また、性的自己決定権があると言いながらも性交同意年齢の引き下げには反発する。
このようなダブルスタンダードが許されているのが現状であり、フェミニズムの本質なのだ。
共同体がなくても生きられる方の性別
このnoteの目次一番下の「フェミニズムがもたらす女性の未来とは」をご一読頂きたい。
悪名高い現役フェミニストの上野千鶴子先生の名言に「「守られて」みなければ、敵のほうがもっと「いい男」かもしれない」という言葉がある。この言葉はまさに女の本質を表しているだろう。
男は妻子の命を守るために自分の命を賭して兵士として戦う。しかしその守られている女はどうだ。彼女らには自分たちのために戦う男など見えていない。詳しくは匿名用アカウント氏のnoteを読んで頂けば分かるが、女は空間や時間認識の能力に乏しく、「今」この瞬間を評価軸とするのだ。
つまり、女性は男性のように共同体を守ろうと考える必要はない。共同体がなくても他の共同体の男に取り入れば生き延びられるからだ。
つまり、女ましてやフェミニストに社会のことを考えることはできないし、フェミニズムは社会に則ったものではないのだ。有名なフェミニストであるボーヴォワールも、道徳は男社会が作り出した女を縛るための道具であるとしている。
そもそもリベラルとは何か。保守的な価値観に対して「全ての人の権利」を重要視する考え方だ。これはフェミニズムとは一致しない。フェミニズムは自分の生存のことしか考えない思想だからだ。理性に基づき、強固な制度を設けようと考えるのも、全ての人に自由と平等(機会平等)を与えようと思うのも、全て理性の為せることである。そういう意味では、保守派と呼ばれる人々の方が人道主義的な観点で考えることも多く、フェミニズムよりずっと「リベラル」であるといえるだろう。
元々はリベラリズムの考え方から生まれたのかもしれないフェミニズムだが、保守派と呼ばれる人よりもリベラリズムらしさを失ってしまったのは、何とも皮肉なことである。
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