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フェミニズムとは何なのか

大きなタイトルだが、割合本気のエントリである。

とある鍵アカウントの方が、フェミニズムは「であること」(be what)であり、「すること」(do what)ではない、行為や主張の内容によって定義づけられるものではない、という意見を述べていた。私はこれに全面的に賛成するわけではないが、かなりのところフェミニズムとは何かについて言い当てていると考えている。

私が自分の考えに合わせて書けば、フェミニズムは「世の中を男チームと女チームに分けて考えるという発想をしたとき、内容を問わず誰かから女チームの主張として発せられる意見の総称」という理解がもっとも実態に合っているだろうと考えている。「内容を問わず」と言う部分が「do whatではない」に相当し、「誰かから女チームの主張として発せられる意見の総称」が「be whatである」の部分に相当する。

私自身は基本的にフェミニズム寄りで、女性の意見を愚直に実行に移すことをまず考えるのだが、その結果として、「フェミニズム」として出される意見の間の矛盾――すなわち「同時には実現しえない2種以上のフェミニズムの主張」の存在を頻繁に意識することになっている。

例えば直前に挙げたエントリでは、「他者の権限を預かるリーダー職の女性比率を増やせという主張がされる一方、同時に他者の権限を預かる責任を負わねばならないリーダー職を女性は望んでいない」という矛盾を指摘している。過去のエントリでは、「ジェンダーバイアスの除去のためには男の子も人形遊びすべきだが、人形遊びをする男の子に性欲を感じ取って気持ち悪い」という矛盾や、審美、エロティックキャピタルについての「フェミニズム」間の意見の齟齬について論じている。

全ての女性が好きなように生き、各個人の能力発揮を邪魔しない・邪魔させないようにしたとして、各女性の目指す・心地よい生き方、社会の間に矛盾がないことを保証するものではない。端的な例はミスコン批判回で書いた話であり、美人として扱われる女性はエロティックキャピタルを生かし美人アドバンテージを生かすことは女性の権利であり能力を自由に発揮し好きな生き方をする権利だと主張する一方、美人という自認のない女性は、審美によって生じるヒエラルキーは生まれつきの違いによって生存価値を貶すものであって人権侵害的であり除去されるべきものだと主張する。両者はどうあっても折り合いがつかない主張だが、どちらも「女性が自然体で生きのびのびと能力を発揮するため」というお題目で出てくるフェミニズム的主張である。

すなわち、フェミニズムというのは、内的整合性を保った知的体系・法制度的体系ではないし、そうあろうともしていないし、そう扱ってはいけない。これは「女性の意見を尊重しよう」と努力し続けた末にたどり着いた結論である。フェミニズムと呼ばれる・自認する意見を矛盾なくすべて包括できる定義は、「内容を問わず誰かから女チームの主張として発せられる意見の総称」という「be what」なものである。


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