父とは何者であったのか
-カラス
こんにちは。虐待サバイバーの明日葉 ありすです。
今朝から外で、カラスがずっと鳴いていました。少しネットを調べてみたら、明らかに縄張り争いの鳴き方で、5羽ほどのカラスがお互いを牽制しあっていました。
その鳴き声に何故かやたらと心がざわついて、そして同時に何故か、亡父の顔が浮かんできました。昨日が父の日だったせいかも知れません。
今日は、父の個人史にチャレンジする記事です。
-父
威嚇
怒声
暴力
突発性
制御不能
これが、子供の頃父に抱いていた私の印象です。
白か黒かでしか物事の判断をしない父。
自分の常識から外れる者は子であっても攻撃対象だった父。
怒りが収まるまで制御不能だった父。
小さかった私には、身の危険を感じるほどの、恐怖の対象でしか有りませんでした。
-WWII
父は、多感な時期を第2次世界大戦に翻弄された時代の人でした。
私は今57歳ですが、父母にとっては遅い子どもであったと言えます。
父は、戦時中のことを決して語ろうとはしませんでした。
ただ、数少ない父の友人に聞いたところによれば、最年少で“陸軍兵器学校(工科学校)”に在籍しており、その友人たちは、当時の父の先輩にあたる人達だったようです。
東京都大田区が地元だった父が、なぜ神奈川県相模原市の兵器学校に通っていたのかは分かりません。年に一度のその友人たちとの集まりを「こうかかい」と言っていました。「工華会」の事で間違い無いのだろうと思います。
-兄弟姉妹
父の兄弟姉妹が、実際のところ全部で何人居たのか定かではありません。
行き来はしていましたが、それほど兄弟仲が良いわけでは無く、父について聞くことは全くと言って良いほど有りませんでした。
ただ、兄弟の中では下から数えたほうが早い産まれで、年長の兄2人は戦死したと、誰かに聞いた覚えがあります。
他に亡くなった兄弟姉妹が居れば別ですが、少なくとも6人兄弟の下から2番めだと思われます。
実の兄弟より、母の弟妹家族を訪れるほうが好きだった様子から、恐らく兄弟たちとの楽しい思い出が少ないのでは無いかと思います。
思春期の多感な時期が戦時中で、年長の兄弟たちとはかなりの年齢差が有ると聞いていましたので、子供らしく過ごす機会は無かっただろうと思います。
-兵器学校時代
工華会の方たちから聞いた話しによれば、兵器学校で最年少組だった父たちは、年長者たちからよく、不当に扱われることが有ったようです。
同じ様に多感な時期だった年長者たちにとっては、行き場のないストレスを発散する、格好の標的になったのかも知れません。特に父は小柄でしたので、そういう点でも苛めの対象になりやすかったとも考えられます。
泳げない父を海に叩き落とす、などという事も有ったようで、大人になってからも、決して海やプールに入ろうとしませんでした。
(厳密には、父の居た組全員が海に叩き落されたようです)
教官や年長者たちから突然、理由もなく殴りつけられる事も、かなりの頻度で有ったようです。
工華会の方たちによれば、「ありすちゃんのお父さんは頑固で、上手いこと渡り歩くことを知らなかったから」と言っていた記憶があります。
-空襲
1945年(昭和20年)の終戦間近、大阪へ行かされていた父は、そこで空襲に遭います。アジア最大規模の軍事工場であった、大阪陸軍造兵廠(現在は一部が大阪城公園)で空襲に遭っていると聞いていますが、幾度となく繰り返された大阪空襲のどの時点での事なのか、何度か空襲に遭っているのか等は定かではありません。
大阪空襲の記録によれば、大阪陸軍造兵廠が標的になった空襲は4回有り、いずれも終戦の年に入ってからのことです。
陸軍造兵廠が標的となった大阪大空襲(1945年)
第3回 - 6月7日
第5回 - 6月26日
第7回 - 7月24日
第8回 - 8月14日
最後の第8回空襲に至っては、玉音放送の前日という事になります。
当時、重工業の分野においてトップクラスの技術を持っていた日本は、兵器以外のさまざまな金属製品も製造していたようです。
会社員時代の父が、新入社員に金属加工(主にフライス盤の扱い)を教えていたのは、偶然ではないかも知れません。
-花火
海やプールと並んで父が大嫌いだったのが花火です。
空襲を思い出す。焼夷弾が降ってくる音を思い出す。
そう工華会の方たちに話しているのを聞いたことが有りました。
まだ14歳か15歳の時期に戦渦に飲み込まれ、死を意識するような経験をせざるを得なかった事から、発露する症状としてはPTSD急性期のような物は無かったにしても、病理的に扱えるトラウマを抱えていたのではないかと思います。
あの美しい花火が打ち上がる度に恐怖が蘇ってくるというのは、言い尽くせないほど辛い事だったろうと思います。自分の心を守るためには花火を見に行かないという選択は、絶対に必要だったはずです。
-戦後後遺症
今こうして整理してみて、いくつか分かったことが有ります。
子供らしく振る舞えずに育ってしまった。
抑圧と暴力を受けてきた。
PTSDと言って良いであろう戦後後遺症が有った。
上記のことは、実はこの記事をまとめる以前から理解していたことです。
私が成人して以降、父とは共通の話題(パソコン)で楽しめることも有ったので、毒親なままの母とは、私の中での認識も少し異なります。
アダルトチルドレンの要素が大いに有ったのだろう。
不当な苛めはきっと辛かっただろう。
10代で経験した“死ぬかもしれない恐怖”は、父の心を修復不可能なほど痛めつけてしまったのだろう。
自分の身に置き換えて考えることも困難なほど、悲しくて怖くて辛かっただろうと思います。
父と私にとって悲劇だったのは、父がその辛さを、時代も有って外へ表出できなかった事だと思っています。
高度成長期時代を支えた企業戦士だった父が、周囲に心の辛さを吐露することなど、きっと有ってはならなかったのだろうと思います。
それでも、だからと言って、父の辛さを小さな私に全てぶつけてきた事は、正当化出来るものでは有りません。
でも、あの戦争が無かったらどうだったのだろう。
真面目過ぎてカタブツで融通なんて全くきかない父だけれど、戦争なんて無くて、普通に兄弟姉妹や友人たちと色んな経験をして、情緒を育ててこられたとしたら、どうだったんだろう。
-戦争は終わらない
父のことを整理していて思います。
私も、間接的にではあるけれど、戦争の被害者なのだと。
父の傷が私を傷つけ、一生背負う障害を負ってしまった。
こんな事が起き続ける世の中であって良いのだろうか。
ゼレンスキー疲れだ何だと言い始めた問題意識の低さに愕然とし、落胆せずにはいられません。
地球上のどの世界にも、戦争なんて有ってはならないのだと、自分を通して強く思います。
カラスは自分たちを守るために威嚇し向かってくるのです。
父も。そして戦争もカラスのようなものだと思うのです。
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