子ども部屋おじさんと“自立”
今回は、子ども部屋おじさんと自立について考えてみました。
久々にエッセイのような気まぐれな内容です。自分の中でもまだ上手くまとめきれていないと感じるので、読みづらいかもしれません。
ただ、どうしても取り上げてみたかったので、あえて記事にしています。
現在は、僕は実家で生活しています。新卒就職時は一人暮らしをしていたのですが、ブラック企業で体調を崩し、地元に戻ってからは実家から通えるところに就労しています。
一応、生活費は入れています(笑)
明らかに一人暮らしをするよりは経済的な負担が少なくてすむので、手取りが低くとも一定の余裕を持ってやれるのが大きいです。
一人暮らしとなると、かなり切り詰めないと生活が困難ですし、余裕がないことで心理的な重圧が重なり、精神症状が悪化するのも考えものだと思っています。
個人的に「子ども部屋おじさん」という表現に恣意的な悪意を感じていました。上記の記事にも書いてありますが、おじさんを叩きたいし、いい歳して親元に住み続けている未婚男性を馬鹿にするのは許されるという風潮を感じます。
これはいじめの構造にも似ており、日頃から鬱屈して溜まった憂さを晴らすために、皆で叩いてスッキリできる対象として、馬鹿にしても許されるであろう中年男性を「子ども部屋おじさん」と分かりやすくカテゴライズして、大義名分が立つ叩ける対象を選定しているなと感じます。
まさに「生贄にされた」という表現がぴったりだと思います。
そして自立についてですが、Twitterを見ていていたところ以下の内容が目に止まりした。
支援者や当事者間では、「自立」とは社会資源や人を上手に頼る技術を身につけ生活できることを意味するのですが、一部の世間の認識はツイートの通り、全て自力でやらなければならないという文脈のようです。
さらに男性に関しては、+妻子を養うことも課されているようです。
一定数の世間と当事者、障害福祉関係者との間で、「自立」に対する捉え方がかなり違うように感じます。
僕の場合は、障害者になってからは世間の文脈をガン無視するようになったので、世間的に言われる「自立」の要求に対して、まともに受け止める気がないです。
また、自立しなければならないという半ば強迫的な背景には「恥」も影響しているでしょう。
生半可なものじゃないという言葉から、「自立」して生きることに対して、ものすごいハードルの高さとプレッシャーを感じます。これでは子育てにも「社会適応できる人材にしなければならない」といった強い責任感を伴う心理的ストレスを感じるのも分かる気がします。
健常者でさえ生半可じゃないと認識しているとなると、障害者にとってはさらに困難極まるものと思います。
僕の場合は、恥をかかない生き方よりも自分の実力と都合に見合った生き方をする方向にシフトしました。
なので、今後も「子ども部屋おじさん」として生活しようと思いますし、老後の身の振り方についても着々と準備を進めている段階です。
https://celebrity-house.jp/matching/ojisan-kodomobeya/
それと自分は「恋愛弱者」でもあり、「弱者男性」に片足を突っ込んでいるので、性愛的な対象なることはないと思っています。上記の記事に対して以前は、若干凹みというか恥を煽られていましたが、「弱者属性」で生きると腹を括ったら「恥」もどこかへ消えていきました。
「恥」を克服することで限界をある程度解除できると、打ち手も増えるなと感じます。
そんな訳で「発達障害を抱えながらも、楽しくしたたかに生きる」ために、「子ども部屋おじさん」の称号も「自立」への圧力も、そんな風潮があるんだなと認識しつつ、世間の圧力を切り分けながら、しっかりと自分の人生を生き切りたいと思います。
もし、サポートしたいと思っても、そのお金はここではない他の何かに使ってください。僕の方はサポートがなくともそれなりに生活できておりますので。