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私になるまで

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#二次障害

私になるまで22

私になるまで22

新緑の季節だったと思う。またまた友達の車で講演会に行く。この時は職場のおばちゃんが、「私も二次障害の事知りたい。」と3人で行くことになった。場所は、神戸。あの大地震が起きる数ヶ月前の神戸だった。詳しい場所は忘れてしまった。割と大きな建物の大会議室って感じ。前にスライドを映すスクリーンがあり、先生はそこに映し出される症例を見て説明する。身体が歪み車椅子に座るひと。首の手術後の様子。首のMRI写真。見

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私になるまで23

私になるまで23

当時、私は市の障害福祉課からヘルパーさんを週2回利用するようになった。自分でやれば時間がかかる「そうじ、洗濯、ご飯の下ごしらえ」をサポートしてもらう。

これで少し生活は楽になった。しかしあの時ヘルパーに「浅野さんならこのくらい出来るんじゃない?」その些細な一言が胸に突き刺さる。そう!出来るよ。ちょっとだけ無理すれば。心の中で囁く。その時は、まだ首の状態が酷い訳でもないし。外出は1人で出来る。だか

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私になるまで21

私になるまで21

翌週の土曜日、再び友達の車に揺られて病院に行く。

予約制のようで、待ち時間なしで、診察室に入る。細面の三十代くらいの医師が、私の首のレントゲンとにらめっこしていた。私たち2人に気づくと、穏やかな表情を浮かべ、友達に「彼女?」と尋ねる。ふたり顔を見合わせ、頭を横に振り。「友達です。」即座に答える。先生はちょっとニコッとし、「これMRI撮ってみないとわからんけどもしかすると、手術になるかも。」首の手

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私になるまで34

私になるまで34

46歳の冬。都会の道は行ったことがないという父の車に揺られて、大阪市内を抜け淀川を渡る。懐かしい風景が飛び込んで来る。病院は以前私が一人暮らししていた場所からほど近いところだった。インターチェンジを降りて、その後道に迷った。カーナビがそこ曲がります!っていう所を通り越して迂回する。2度ほどそういう事をを繰り返し、ようやく病院に到着した。

受付を済ませ、診察室の前で待つ。心臓が早鐘を打つ。なんであ

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私になるまで35

私になるまで35

翌日、朝食後リハビリテーション科のPTの先生がきて、ちょっとお話お聞きしたいので、リハビリ室まで来てください

と言われ、戸惑いながらついていく。リハビリ室は、長い廊下を通り、リハビリ病棟の階下にあった。初めてのリハビリ室は、とてつもなく広く感じた。私が中に入って行くとみんなの目が一斉に向けられる。身体が少し固くなったが、とりあえず力の入れ具合やら、腕の上がり具合やら計測したあと、いつから痛みがあ

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私になるまで36

私になるまで36

大阪市内の交通量と道路が迷路のように見える。電車ではよく行っていた大阪市内も車で行くと、田舎者にとっては大変な思い…それでもなんとか病院にたどり着く。天王寺駅からまっすぐ歩けば簡単だったが、首の痛みを考え、慣れない大都会の車両を走ってくれる父には感謝しかない。

病院の受付を済ませ、整形外科の診察室の前で待つ。首の痛みは相変わらず気休めに湿布を貼っていた。ここはかなり患者数が多くてかなり待たされた

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私になるまで49

翌日は、朝、手術着に着替えさせてもらい、テレビを見ながら、その時が来るのを待つ。2度目ではあるが、ほとんど前にした手術と同じことを前日、手術担当の看護師から聞いていた。しかし手足が冷えて震えている。そのうち寒くなり、上からタオルをかけてもらう。

そうして待つ間にPTの先生が様子を見に来て「怖い?」って聞く。が、笑って「大丈夫!」と答えた。両親は手術が終わるころ来るらしい

「浅野さん、そろそろ行

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私になるまで50

しばらく、急性期病棟で尿道カテーテルが入ったままで30分程のリハビリ。ひと月は絶対に歩くなと、主治医からの指示。ほとんどベッドの上で動かない状態。腕もあまり動かすなと指示され、食事は看護師の介助と、昼食時にSTの先生が介助してくれる。ST
の先生は、「かなり飲み込みの方の回復は早いね!」って言いつつ、「しっかり噛んで。」と忠告する。しかし、嚥下食なので、ほとんど噛む必要がない。「もう少し食材大きく

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