文系の私が何故プログラマーになったのか
あまり気にする人はいないだろうが、前回の記事から投稿が少しだけ止まった。
豆腐メンタルの自分は予想以上に会社からの仕打ちがつらかったのかもしれない。何をしようにも脳内がスラム街状態で気を抜くと希死念慮が襲ってくるようになっているのだ。
noteに書きたいことは山ほどあるのだが、どうしても身体が言うことを聞かなかった。
しかしそんなことはどうでもいいからスラム街を清掃するためにも乱文を書き散らかしていく所存である。
プログラマーは基本的に理系職
プログラマーの職業内容について詳しく説明すべきか考えたが、面倒なので省く。
一般的にプログラマーは理系出身の方が就く職業だ。彼らは(学部、専攻にもよるが)大学等でプログラミングに必須の知識をつけている。
私は履歴書上ではいわゆる「文系」だ。高校では文系クラスに属し、大学では法・行政分野から政治哲学を専攻した。
文系出身のプログラマーも勿論いる。しかし理系出身に比べたらスタートラインがそもそも違うのだ。決して有利とは言えない。
今ではオンラインのプログラミング講座も充実しているし、豊富な資料や教材が揃っているため、文系出身でもプログラマーを目指すことは全く夢物語ではない。
私は独学でプログラミングの知識を身につけIT業界に飛び込んだ。
幼い頃から機械に興味があった
私は根っからの「文系」だったかと考えると、決してそうではない。
確かに本は好きで四六時中手放さず文学に浸っていたこともあったが、機械にも興味があった。
ネジのある手軽なものは基本的に分解した。よくある話だが、最初の犠牲者は目覚まし時計だった。
何度も分解し、組み立て、針が動く構造や音の鳴る仕組みをじっと観察して感動していた。
兄と共有のゲームボーイを分解したときは「この不思議な板はなんだろう。地図みたいだな」と基盤を眺めていた。
さすがに電話機やPC、テレビは分解がバレたときに食らう叱責を恐れて手が出せなかったが、とにかく私は開けられるものは開けていた。
そのくらい機械に興味があったのだ。
家族内で私が一番機械に強かった
私の父について説明すると長くなるので省くが、父はかつてPCを使う職業に就いていた。Excelを主に使用する事務員さんのようだったが、その影響で我が家には一台だけPCがあった。
Windows98のデスクトップ。当時父と険悪な仲でもなかった私はそのPCの前にずっと座ってその筐体と戯れていた。まだインターネット接続に電話回線を使っていた時代だ。ネットには触れずローカルでできるものを散々堪能した。どうでもいいがそのおかげでマインスイーパはとても得意だ。
好奇心故にPCと戯れる私は、いつの間にか「家族内で一番機械に強い人間」となっていった。ラジオの故障、インターフォンの不具合、FAXの送り方…自己肯定感の低い私は「私がやるよ!」と言って得意げに修理や機器の説明をしていた。
家族、特に母親に頼られ褒められるのが嬉しかった。
きたるインターネット時代(黒歴史)
少々時は過ぎ、インターネットの接続料金が安くなった頃「少しならインターネットに繋いでもいいよ。ただしやりすぎないようにね」という言葉を父から受けた。
新たに我が家へやってきたWindowsXPのノートPCは、父がごく稀に仕事で使う以外はほぼ私のものとなっていた。こう考えると恵まれた家庭だったのではないか。どうでもいいか。
HTMLの入門書等を図書館で借りてきた私は、独学ながら試行錯誤を繰り返し都市伝説サイトの様なものを作ってサイト運営していた。黒歴史ですね、えぇ。
しかしそこでプログラミングというものをほんの少しだけかじった私は、「いつかこんな風にコードを書いたりしてお金を貰えるようになりたいな」という淡い夢を抱くこともあった。
我が家のインターネット接続が定額制になってからはもう私の独壇場だった。
2ちゃんねるに入り浸り(ROM専)、ニコニコ動画や当時無断転載が蔓延っていたyoutube等でくだらないMADで笑ったりした。そして数えきれないほど色んなジャンルの世界に触れた。
小さなPCモニターの先には、田舎の小娘が想像もできないほどの大きな世界が広がっていたのだ。
ロボットが作りたかった
ここまで散々書き散らかしたように、私は機械やインターネットに対する興味が大いにあった。
そして、「ロボットをつくりたい」という夢があった。単純なロボットではない。人工知能を有したSF小説に出てくるようなアンドロイドだ。
何故こんな夢を抱いたかについては、きちんと想いを綴りたいためまた別の記事にしようと思う。
そんな私は中学の進路選択時、県内の工業高等専門学校(つまり高専)を第一志望としていた。
第二志望は県内で一番偏差値の高い県立高校。自慢するつもりではないが私は学業に関しての成績は良かった。学校行ってなかったけどね(そのうち記事書くよ)。
高専の入学試験は他の県立高校や私立高校と時期が異なっていた。ろくに話をした思い出もないが当時の担任に「高専をめざすならそれに合わせた対策をしないといけないんだよ」「十分に素質があるんだから第二志望のところをちゃんと目指してみようよ」などと説得のようなものを受けた。何故なのかわからないが、周りの大人達は私が高専に入ることを嫌がっていた。女の子が少ないから心配だったのだろうか。大人の考えることはよくわからんな。私ももういい大人だけどさ。
そういった大人たちの声はガン無視していた私だったが、兄が放った言葉に大きく心が揺らいだ。
兄「お前さ、ロボット作りたくて高専目指してんの?」
私「そうだよ」
兄「それって高専じゃなきゃダメなの?」
私「うーん、ダメではないけど近道だと思うよ」
兄「でもさ、それって高専行ったらお前にとってロボットしかなくなるってことだよ」
私「???」
兄「お前さ、色んなことに興味あるじゃん?ロボットもそうだけど、他にも好きなこと沢山あるだろ?」
私「…」
兄「ここで敢えて道を一本に決める必要は無いと思うんだよ。だってお前、何でもできるからさ」
この「お前は何でもできるから」という言葉は今でも兄がよく私にかけてくれるものだ。
選択肢を広く持てという兄の言葉に心を動かされた私は、結局第一志望だった高専の文字を消し、第二志望の県立高校を進路希望用紙の先頭に置いた。
この選択が正しかったかどうかはわからない。実際に高専に入りたかったという未練は少なからず残っているし、入っていたらどんな人生だっただろうと空想することもある。
しかし過ぎた過去は戻らない。そして今ここにある私はそのifを辿らなかったからこそ存在する。実際に、この選択でかけがえのない親友に出会うことができた。
高校時代に文系クラスを選んだ理由
高専に入りたいとまで思っていた私が何故文系クラスを選択したのか。理由は簡単だ。
文系科目の方が成績が良かったのだ。
私が入った高校は県内一の進学校だった。井の中の蛙だった私は、その高校で「本物の天才」を何人も見てしまった。
中学時代そこそこにできた数学は、高校では底辺レベルに成り下がった。
完全に自信を喪失した私は、天才たちに挑戦する気力もなく楽に褒めてもらえる文系クラスに進学した。
この高校での生活を思えば、きっと高専に入ったとしてもあっけなく留年していただろう。
「私には文系の方が才能があるんだ」言い訳がましくそう自分に言い聞かせた。
私は就職活動をしなかった
紆余曲折あったものの、結局私は地元の国立大学に進学した。
専攻の政治哲学にのめり込んだ私は、教授の助言もあり、大学院進学を考えていた。
このまま研究者になろう。そして大学教授を目指すんだ。
そう思い日々勉学に励んでいたが、結果だけ伝えるなら、諸々の事情で大学を中退した。
詳しく書くと長くなる。そして個人的にもとてもつらい過去だ。気が向けばきちんと記事にしたい。
大学院進学を考えていたため、就職活動など1ミリも行っていなかった私は求人サイトに載っていた近所の歯科医院にパートとして就職した。
「いずれは正社員に」などという会話を院長ともしたし、実際に私もそう考えていた。
しかし、端的に言えばその歯科医院は私には合っていなかった。ここで死ぬまでずっと働くなんて無理!と投げ出した私はまたもや求人サイトに載っていた営業代行のベンチャー企業に足を運んだ。
この選択は大きなミスだった。何がミスって、まぁ、完全アウトのブラック企業だったんですよね。
労働マルチという言葉を知っているだろうか。簡単に言えばこのベンチャー企業はその労働マルチの会社だった。あまり詳しく書くと身の危険を感じるのでここでは伏せさせていただきたい。一応参考サイトだけ載せておく。
ブラック企業からの脱出
前述のベンチャー企業で十二指腸潰瘍と胃潰瘍を併発した私は逃げるように退職を決意した。
しかし前述のブラック企業はトンデモ会社故、雇用保険も何も貯金すらなかった。
迫りくる奨学金返済、年金、とにかく生きるにはお金が必要だ。学生時代いかに自分が社会で守られている存在だったかを思い知った。
「もう何でもいいから手に職を」と手を付けたのが、昔から憧れを抱いていたプログラミングだった。
死に物狂いでC言語について学び、オブジェクト指向に触れ、JAVA有料化の噂を聞きC#に手を出した。
未経験・地元での就職にこだわる私はどの会社でも書類や面接でのやり取りで落とされた。
「知識はあるんです!実務経験がないだけで!やる気はあります!ここで働かせてください!」
もう『千と千尋の神隠し』の千尋状態だった。湯婆婆って本当にいい奴だよな、働きたい奴全員働かせてくれるんだもん。
そんな折に私を拾ってくれたのが今の会社だ。
実務経験さえ積めればこっちのもんだ。しかも(前のベンチャー企業に比べれば)福利厚生が整っている。
初めて自分が被保険者の保険証を手にしたときは何とも言えない達成感があった。
初給料でささやかながら母に食事を奢った。
「もう大丈夫だよ、散々心配かけてごめんね」
そう彼女に伝えると、嬉しそうな悲しそうな複雑な顔をしていた。
結局また心配かけてるし全然大丈夫じゃなくなっちゃったけどね。
そして現在に至る。
もともと興味もあったし死に物狂いだったが、結果的にこうして私は文系出身ながらプログラマーになった。
今の会社に入ってからの経緯についてはこちらを読んでいただければなんとなくわかるかもしれない。
会社に恩義を感じていたからこそ、今回のこの仕打ちがつらかった。
でもまぁ、お互いのためにもう会社とはサヨナラするつもりだ。つらいねぇ
ちゃんと笑って、生きていきたいね。
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