見出し画像

シミセンの教育談義

★その1★ 学校ってなんだ


 今年は1年間、教育について語っていきます。だれだって教育を受けてきているし、だれだって教育について語ることができます。僕が教育について語るとき、僕が受けてきた教育がもとにならざるを得ないのでしょう。それから、僕が読んできた教育についての本、テレビで見た話、新聞で読んだこと、僕が出会ってきたいろんな人から聞いたこと、見たこと。そんな中から、あまりかたっ苦しくならず、だからきちんと裏をとったりせず(すみません、調べるのが面倒だというだけです。まあ、スマホでパッと出てくるくらいのものは確認するようにします)雑談ふうに、気楽にお話していこうと思います。気楽に1年間お付き合いください。また、ご意見があればお聞かせください。(気軽にするために1人称は「僕」でいきます。ご了承ください。)
 さて、初回は学校について。スクールの語源はラテン語のスコラ、そのもうひとつ前にギリシャ語のスコレーということばがあるようです。このスコレー、もとの意味は「ひま」なんだとか。まあ、生活に余裕がなければ、お勉強なんていうことはできなかったのでしょう。いまだって、食べることすらままならないような環境では、学校に行って勉強するなんてことはできないでしょう。それでも、新しく学校ができたりすると、子どもたちはとってもうれしそうに通い始めますよね。ときどきテレビでそういう外国の子どもたちの様子を見ると、どうして日本では学校に行けなくなる子どもたちがこんなに増えたのだろうかと思います。いや、増えたのかどうかもちゃんと調べないといけませんが、現状中学生で3%くらいと出てきます。クラスに1人はいるという感じでしょうか。私も何人も学校に生きづらくなる子を見てきました。うちの長男もです。結局は学校が楽しくないのでしょうね。学校というのは、本来、ワクワクするところなのだと思います。だって、いままで知らなかったことを教わったり、できなかったことができるようになったり、どんどん世界が広がっていくわけだから。それに、少しずつ広い範囲のお友だちとも付き合うようになっていくわけで、そういう意味でも世界は広がるのだと思います。楽しいことは続けられるけど、楽しくないことは続かないですからね。やっぱり、学校は楽しいところであってほしいと思います。
 一方で、学校は社会の縮図で、嫌なこともいっぱいあると思います。世の中に出て行ったときに出会ういろんな出来事や人、それらと出会うための予行演習をしているのかなあと思います。友人関係とか、先輩との関係とか、先生とか、いやなことを言う人もいるでしょう。いじめもあるでしょう。いろいろな理不尽なこととも出会うのでしょう。どうして学校にはこんなしようもない決まりがあるのかとか、何のためにこんなことさせられるのか(愛宕山を走って登るとか)などと思うことが多々あるでしょう。でもルールだから守らなければいけない。いや、でも、おかしなルールなら変えればよい。そういうことを学べるのも学校のはずです。つらいこと、いやなこと、しんどいことがあれば学校なんて休んだらよい。けれど、しんどいことでもちょっと我慢してたえる訓練も必要でしょう。でもがまんしすぎはよくない。ほどほどに、いい加減に。その辺のさじ加減を学ぶのも学校の役割なのでしょう。
 少し歴史をさかのぼると、西洋では近世に大学ができているようですが、日本でも江戸時代には藩校や寺子屋など、学校のもとになるようなものはあったのでしょう。明治に入ると、京都で初めての小学校ができたそうです。でも、まだ、先生を育てるための大学とかはなかったはずなので、江戸時代に教えた経験のある人が先生になったりしたのでしょうね。というか、江戸から明治になったところで、人々の生活がそうそう一気に変わるわけでもないでしょうし、徐々に整っていったということでしょう。そして、第二次世界大戦後、いわゆる6・3・3制ができていくのでしょう。小学校・中学校までが義務教育。その義務とは、保護者が子どもに教育を受けさせる義務があるということであって、子どもたちには教育を受ける権利があるのだ、ということは、憲法を学んだ小学6年生がよく言っていることですね。もう、高校も義務教育にすればいいのになあ、と思うこともあるのですが、あまりそういう議論は聞きません。どうしてなんでしょうね。公立と私立があるのは小学校だって中学校だって同じだし、公立高校はすでに授業料無償化(世帯年収910万円の壁があるので、だれでもタダになるというわけではない)が進んでいるわけだし、90%以上高校に進学するのだろうし・・・ただそうすると、入試制度がどうなるか、学校間格差はどうなるか、学校を選べるのか、地元の高校に進むのか、などなど制度上決めなければいけない問題は多々あるでしょう。僕は高校生のとき、1年間アメリカの公立高校に通いましたが、そこは中学校と高校が隣接していて、たぶん皆無試験で高校に進学していたはずです。授業料も無料。ただし、高校の中で、大きな学力の格差はあって、高校2年で、日本なら大学で学ぶような数学をやっている生徒もいれば、中1程度のことをやっている生徒もいました。アラカルト方式と呼んでいるものだったと思います。これはとっくになくなっているのかもしれませんが。高校義務教育化、これも議論するとおもしろそうです。そう言えば「保育園義務教育化」という本はあったなあ。
 学校って、僕はけっこう好きでした。いやあな先生もいましたが、それでも、先生が授業中何度咳き込んだかを数えていたりするとあっという間でした。好きな子でもできると、行くのが楽しくて仕方なくなりますよね。まあ、勉強はした方がいいし、成績も良い方がいい。でも、学校はほかにもいろんなことを学べる場だと思います。逆にいうと、学校でなくても勉強はできるし、自分さえその気になれば、どこででもいろんな学びは得られるわけです。ただ、行ったり来たりしますが、せっかく、学校という場所を大人が準備してくれているのだから、ぜひそれを使って、いろんなことをそこで学んでいけばよいのではないかと思います。
 実は、学校にはけっこう自由度があって、その地域の教育委員会とか、校長先生の裁量でいろんな取り組みがなされています。その実践例もたくさん紹介されています。学年の壁を取っ払ったり、時間割をなくしたり、チャイムをなくしたり、担任をなくしたり、宿題をなくしたり、定期テストをなくしたり、成績表をなくしたり・・・。まあ、いろいろ試してみるのもいいかも知れません。田舎の方でいい学校をいろいろ作って、その学校に入りたいから引っ越しをする、なんていうのもいいかも知れません。東京一極集中が緩和されるかも。あっ、でも親の仕事はどうするんだろう??? 地方にサテライトオフィスを作る会社もあるし、在宅で仕事もできるようになっているし、いろいろかな。それから、学校は別に子どものためだけにあるわけではなく、大人になってからでも学びたければ学校を活用すればよいと思います。夜間中学校での学び直しもありますが、だれでも気軽に学べる場ができるようになるといいなあと思います。リカレント教育なんて言って大学でもいろいろな講座があるようですね。でも、高い授業料を払ってまでいくのはちょっとなあという感じです。まあ、無料の公開講座を探すくらいかなあ。塾の昼間を活用するとか、いろいろ考えたりもします。僕もあと5年ほどで定年ですから、何かできることがあればやってみたいですね。来月は、テストについてお話しますね。

★その2★ 試験ってなんだ


 みんなにとって試験とは嫌なものですか? でも、試験がないとなかなか勉強しない人もいますよね。みんなに勉強をしてもらうために試験(テスト)をしているわけでもあるのですよね。
 さてさて、試験っていつごろからあるのでしょう。最も古い試験はって検索すると、中国の科挙が出てきます。5世紀の終わりころ隋の時代から始まったそうです。官僚になるための国家試験ですね。いまの日本にも似たようなものはありますね。いろいろな仕事に就くためには資格を取らないといけません。そのための試験がいくつもあります。医者になるための国家試験、裁判官や弁護士などになるための司法試験、公務員になるための試験、~~士になるための試験。そうでなくても、どこかの会社に就職するには何らかの試験が課されることでしょう。だれでもいいよ、というわけにはいかないんですね。
 みなさんもこれから入学試験を受けるわけです。中学校や高校に進学する際、必ず試験があります。場合によっては、それまでの努力が認められて推薦というかたちで合格が決まる場合もありますが、それでもみな何らかの試験は受けています。入試については、また別の機会にまとめてお話します。
 何のために試験をするのでしょう。それはまず、上にいくつか例を挙げたように、選別のためですね。早いもん順とかではなく、この仕事に向いている人とか、この学校で十分がんばれそうな人とかを選ぶための試験です。こういった試験では公平性が最も重要です。でも、いつの時代にも悪いことをする人はいるものです。先ほどの科挙など、合格すればきっとたくさんのお給料がもらえたりしたのでしょうね。カンニングをしたり、ワイロを渡したり、いろいろあったようです。当時は見つかったら死刑だったそうですよ。それでも、そういうことをする人はいたのですね。
 次に学校の中の試験。みなさんが最もひんぱんに受けているテストです。これは主に評価のための試験です。みなさんの成績を付けないといけない(いけないわけではないと思うけれど、現状の入試制度などからすると、どうしても成績は必要)。それで、小学生なら1つの単元が終わればテストをしたり、中学生なら、年5回ほどの定期テストが実施されます。学校の成績はテストの結果だけで決まるわけではないということをみなさんよくよく分かっていることと思いますが、それでも、それぞれの試験で何点取っているかというのは、成績を決める際の最も重要な指標になるはずです。だからこそみんなは試験のときはがんばって勉強するのですものね。
 で、この試験を作るということについて、学校の先生たちもオリジナルのテストを作るのはけっこう大変なんですよ。まあ、いろんな問題集を参考につくられたりもするのでしょうが、特に中学校の場合はそれぞれの先生が独自に問題をつくられているので、けっこう大変だと思います。僕も以前は統一テストなどをつくっていたことがあります。これは先生にとっても非常にいい勉強になるのです。何が大事かが分かっていないとテストは作れないし、みんなの実力がどれくらいかわかっていないと、とんでもなく難しくて平均点の低いテストになるかもしれない。逆に簡単すぎて、たくさんの人が100点をとって(テストの種類によっては、それもいいと思うけど)評価がつけられないということになっても困ります。いまは、うちの塾ではそういうのは全部分業制になっているので、テストを作るのはテストをつくる専門の人がいてやっています。でも、中学校の定期テストはそういうわけにもいかないので(いや、その常識を覆していくのも働き方改革になるかもしれない)テスト前は先生方も特に忙しそうですね。最近は定期テストもいろいろあって、単なる暗記ではいけないということで、教科書、ノート、辞書持ち込み可なんて、大学のようなテストをする先生もいるそうです。えっ?いいなあ、と思いました? これ実は結構大変なんですよ。語句を聞く問題とかではなく、完全に記述で、自分のことばで書かないといけない。しっかり理解していないとできないのです。ついでに言うと、先生の採点はもっと大変なんですよ。公平性を保つのも大変です。
 それから、入試問題。これを作るのもすごく大変な作業でしょう。最近は何回も試験をするので今まで以上に大変だと思います。ミスがあるとたたかれもするし、それも心配です。まあでも、ひょっとすると好きな先生は、そういうのを考えるのが楽しくて仕方ないのかもしれません。僕たちも、今年はどこでどんなユニークな出題があったというのを見るのは楽しみでもありますしね。まあ、言ってみれば入学試験というのは、その学校の先生から受験生へのメッセージなのかもしれません。こういうことができる子たちに、うちの学校に来てほしいんだという。
 何のために試験をするのか。ここからが最もお話したいことがらです。それは、みんなに勉強をしてもらうため。もっと言うとテストを受けること自体がみんなにとってはすごくいい勉強になっているのです。それをよく分かっておいてほしいと思います。この塾では、クラスによって少し差はありますが、まずは毎週の授業内容を確認するために週実テストがあります。いろいろと宿題(宿題についてもいずれまとめてお話します)を出しますが、それは、次のテストでよい結果を出してもらうためのものになっています。その宿題、家庭学習の仕方次第でテストの結果は大きく変わります。1回やってマルつけしただけ。間違った問題は放ったらかし。それではよい結果にはなりませんよね。間違ったところを解説を見るなどしてしっかりやり直す。それでもよく分からないときはテストの前に先生に質問をして理解しておく。暗記のテストなどの場合は、オレンジペンで答えを書き込んで、赤シートで隠したりして、何度も何度も繰り返し思い出し(アウトプット)をしてくれていますね。とても良い勉強方法だと思います。たぶん、テストがなかったら、なかなかそこまで勉強してこないと思います。さらに、テストには合格点が決まっていて、それ以上の点がとれなければ残されるから、それがいやだからがんばるという人もいるかもしれません。そのこと自体はあまりいいとは思わないのですが、それでもがんばって準備して来たらちゃんと合格点がとれた、そういう小さな一つ一つの成功体験がみなさんを成長させているのだと思います。
 さらに言うと、テストを受けること自体がとてもいい勉強になっているのです。これはかの池谷教授が言っていることでもあります。テスト前の勉強をしてくれなくなると困りますが、こんな実験があるので紹介しましょう。アフリカの国名とか首都名、さらにその場所を聞くようなテスト(事前テスト、まだ習う前にするテストと言う意味です)をします。もちろん、テスト前にしっかり準備してきて、テストのときに必死に思い出そうとした人たちが力を付けてはいくのでしょう。でも、抜き打ちで何の準備もさせずにテストをしたとしても、テストはなしで勉強だけしてきた人よりも、後のテストでは点数が良くなるのだそうです。トライアンドエラー(本当はトライアルアンドエラーだそうですが、まあ試行錯誤ですね)をくり返すのは、意味があるのです。何も考えずに適当に答えていたのではだめでしょうが、ここかなどこかななどと考えて、答えを書いて、そのあとあっていたかどうか確認をしていれば、次にテストを受けたときにはけっこう覚えていたりするわけです。1回目で間違っていた方がかえって良かったりするわけです。脳が逆にこれは覚えておかないといけないと勝手にはたらくのだとか。だから、テスト自体が最強の勉強ツールなんです。覚えよう覚えようと思って、必死に何度も何度も見ては書き(この見て書くがよくありません。ただの作業になってしまいます。とくに、しゃべりながらとかテレビ見ながらとか、時間と紙と鉛筆のムダです。)10個も20個もノートの英単語や漢字を書きならべている人がいますが、そんなことよりも1回のテストを受けて、1回必死に思い出して答えた方が良いのです。とにかくテストをしましょう。自分で簡単に作ったテストでも良いです。繰り返しテストを受けましょう。そうやって思い出す(アウトプット)機会を増やすことでみなさんの脳の中にしっかりと記憶として刻まれていくのです。
 今回は試験についていろいろとお話してきました。試験を受けるのってちょっと嫌だなあて思っていた人はいませんか。少し考えが変わってくれましたか。試験を受けること自体が勉強なんです。というか試験を受けることで皆さんは学力を向上させることができるのです。そう思って、これからもたくさんの試験に向かっていってくださいね。
 そう言えば、たくさんの入学試験を受けた人は、その中で実力を上げていったと実感できる人が結構います。まあ、経験を積むとか、入試に慣れるとかいろいろあるのでしょうが、試験のときに一番みんなが成長するのだと思います。
 ところで、先生たちも毎年秋にテストを受けます。それぞれの教科、難関校の入試問題です。事前に勉強はしていくのですが、ものすごく焦るし、思ったように力が出せないし、むちゃくちゃ嫌な汗をかくし、実はそうやってみなさんの気持ちもちょっとはわかっているつもりです。特に、受験学年の皆さんは、毎月大きなテストがあって、時間との戦いで、本当によくがんばっているなあと感心します。試験で成長するのだから、これからもがんばろうね。
 次回は、いろんな授業の進め方についてお話してみようと思います。

★その3★ 授業ってどんなだ


 みなさんは学校でどんな授業を受けていますか? 今までで一番楽しかった、おもしろかった、良かった授業ってありますか? 僕の子どもたちがまだ小中学生だったころには、よく授業参観に参加しました。とっても手際が良くて、まったく無駄な時間がない。子どもたちを飽きさせない。すごいなあと思った英語の先生がいます。でも、これを50分×5コマとかやったらきついなあ、とも思いました。たぶん子どもたちも疲れることでしょう。一方でその「卑弥呼」って漢字間違ってるやんとか、これは塾行ってない子にはかわいそうだなあと思った「イオン」の授業とかもありました。僕なんかはわりと、自分の子どもだけを見に行ってるのではなくて、他の教室の授業をのぞいたりもしていましたね。先生はこんな保護者いやだったろうな。
 それで、僕が今まで受けた授業の中で一番感動したものを紹介します。大学3年生のときなのですが、それは村上陽一郎先生の「科学思想史」がテーマの集中講義でした。90分×4コマ×4日間×2タームだったように思います。落語って聞いたことありますか? 上手な落語家は、はじめのまくらから本題に入るところの境目が、羽織を脱ぎでもしないかぎり、はっきり分かりません。流れるように本題に入っていくのです。村上先生の授業はそういう感じでした。どこまでが余談でどこからが本題か区別がつかない。いやあ、全編本題なのか、全編余談なのか。だから僕のノートはメモでびっしりです。そのときのノートは今でも宝物です。でもねえ、実はその授業中でも寝ているヤツはいたのです。だから、もうこれはいかに良い授業をしたとしても、受け取り手の問題もあるのですね。
 本で読んだすごい実践例を紹介します。まずは林竹二先生です。教育大学の先生でしたが、小学生相手に特別授業を何度もされています。その授業を見た先生たちは、授業後の感想で、子どもたちをあまり授業に参加させていないのはよくないのではないかと言ったりします。けれど、子どもに書かせたアンケートでは、こんなに時間が短く感じられた授業は初めてだとか書いていて、発言はしていなくても、めいっぱい授業に参加しているのです。後ろで見ていた先生たちはいったい何を見ていたのでしょうね。何が子どもたちをひきつけるのでしょう。テーマでしょうか、話し方でしょうか、話のもっていき方でしょうか。子どもたちは前のめりになって先生の話を聞いているのです。理想的ですね。僕も似たような授業をしたことがあります。特別授業で、小3・4対象。「銀の匙」仕様の理科授業です。「銀の匙」の授業は灘中高の橋本武先生が実践されていた国語の授業です。これもまたすごいのですが、相手は灘中の生徒だしなあ、なんて思ったりもしました。でも本を読んでみると、実際には灘中が名門校になる前からの実践のようなので、やっぱりすごいんです。「遊ぶように学ぶ」これが授業のコンセプトです。ところで、この「遊ぶ」と「学ぶ」どちらも言い切りが「ぶ」で終わる動詞。そこで始まるのが「ぶ動詞コレクション」さあ、いくつ思いつくかなあ。運ぶ、転ぶ、飛ぶ、叫ぶ、呼ぶ、えぇ、もっといっぱいあるはずなんだけど。みなさんも考えてみてください。
 さてさて、僕の方はと言うと、アルキメデスやガリレオの実験を取り入れながら、90分の授業をしました。それほど参加型の授業ではなかったのですが、みんな目を輝かせて聞いてくれていました。しかし、これは年に1回が限度です。だって2ヶ月くらい前から予備実験をしたり準備をして臨んだのですから。毎週休みの日は粘土を丸めたり、2階の窓からピンポン玉とビー玉を落としたり。いろいろやりました。毎回の授業なんて無理です。
 それを、毎回ものすごい準備をして臨んでいたのが大村はま先生です。国語の先生ですが、教科書は使うけど普通の使い方はしない。まあだいたいは一人一人にテーマを与えてそれを考えさせる。そして、どんなにうまくいった授業でも二度と同じ授業はしなかったというのだから、もう僕なんかは頭が上がりませんね。でも、きっとこの先生はそれだけやっていたんだろうなあ、と思ってしまいます。それはきっと幸せなことなのでしょうね。
 しかしまあ、林先生も、橋本先生も、大村先生もみなさん長生きでしたがもうとっくに亡くなられています。いまでもあちこちでおもしろい授業をしている先生はきっといるのでしょう。でも、この個人のマンパワーに頼っているだけではいけないということで始まろうとしているのが「アクティヴラーニング」ですね。すでに、総合学習の時間でいろんな取り組みをみなさんしていることと思います。調べ学習をして、みんなの前で発表(プレゼン)をする。もう、先生からの一方通行の授業はよくない。子どもたちがどんどん能動的に授業に関わっていくべきだというのですね。塾ではなかなかできないことですが、先生も興味があって本を読んでみました。その手法を少し紹介していきましょう。残念ながら最近、本を書き上げたあと亡くなられてしまったのですが渡部淳先生(もともとICU高校の社会科の先生)の本です。なりきりプレゼンテーション。これはもう最高です。いつかやってみたい。高校の生物の授業だったと思いますが、2人でプレゼンをするのですが、1人はダンゴムシ、もう1人はワラジムシに扮して、それぞれの特徴を言います。もうそのかっこうをして出てきただけで受けまくりますよね。で、生徒のみんなはずいぶん印象付けられて、後々までその記憶が残るのだそうです。それから、最後の晩餐の絵になり切る。みんなで同じような立ち位置で、同じような姿勢で。さあ、どんな会話をしているのだろう。最初は食事をしながらぺちゃくちゃしゃべっているだけと思っていたのに、先生からのことば「この絵は、イエスが「この中に裏切り者がいる。」と言ったあとの状況です。」という話を聞いたとたんに、もうすっかり意見が変わってしまいます。一瞬で子どもたちが変化するのです。それから、お芝居を授業に取り入れたりもしています。その写真が掲載されていますが、先生たちの表情も素敵です。先生自身も楽しまないといけないですね。ある時点で芝居の動作を止めて、そのときの思いを答えさせたりするのです。実際に身体を動かしていると、かなり考えが深まるようです。まあ、いろいろな手法が考え出されているのですね。非常に興味深いです。
 そう言えば、僕もいままでにいろいろなことをやってきましたよ。最近は歳をとって動きが鈍くなってきましたが、たとえば地球の自転・公転と、月の自転・公転の違い。小6の日曜特訓とかでもよくやっていたので、あっ、あの回る先生や、なんて言われたこともありました。水分子のダンスなんかも、リクエストがあればいつでも実演して見せます。身体をはった授業はけっこうみんなの印象に残っていて、卒業パーティーのときなんかに、先生の物まねって言ってやってくれたりもしますね。あと、理科の授業では実験もよくやっていたのですが、あるときから教室では火を使ってはいけないという決まりができて、ずいぶんと縮小せざるを得なくなりました。河内磐船校のじゅうたんを焦がしたのは私です。申し訳ありません。スチールウールを燃やして火花を飛ばしました。でも、実際に見るっていうのは大事で、先生が前でやっているだけの実験でも、良く印象には残るようです。実際に見る、実際に自分でやってみる、体験してみる、というようなのが大事なのでしょうね。そして、目で見る、耳で聞くだけではなく、その他の五感をいろいろ使える授業をしていくと、より印象深くなるのでしょうね。
 さて、文科省はいろいろシステムを変えてより良い授業を提供しようとしています。財務省との関係で、あまりお金はかけられないようですが。でも、より良い形を作ったとしても、その中で実際に授業をするのは人です。相手も人です。人間ってやっぱり楽しくないと続かないし、楽しかったことの方が良く覚えてもいますよね。だから、僕たちはできる限り楽しい授業ができるように心がけていきますね。みなさんも楽しく学んでいきましょう。

★その4★ 宿題ってなんだ


 以前、東大生だったか京大生だったかがテレビで「宿題って、先生が授業を進めやすくするために出しているんでしょ」と投げやりに言っていました。確かにそういう面はあって、宿題を出して皆さんに家で解いてきてもらわないと、授業内で全部やろうとしていたら時間が全く足りません。どの教科でも同じでしょうが、授業の時間は基本的にインプット(入力)が中心で、宿題でアウトプット(出力)をすることが多くなるでしょう。アウトプットの時間を確保してもらうには、宿題として出すしかないということになります。または、前回取り上げた「試験」をくり返すということにもなります。もう皆さんもインプットよりアウトプットの方が重要だということはよく知っていますね。くり返し思い出すことで人は覚えることができます。僕が算数や数学、理科のことをよく知っていると思いますか?先生だから当たり前ですか?そう当たり前なんです。だって、毎年毎年同じことを教えているのですから。でも、2,3年間があいたりしてしまうと、あれ?これって、どっちだったかなあ、なんてなることはちょくちょくあります。やっぱり、あまり間をあけずに、くり返すことが大事なんです。そのことを、まずは頭に入れておいてください。これが宿題をする意味ですからね。
 さて、保護者の方でもよくこんなふうな言い方をされます。「うちの子は宿題だったらちゃんとやっていくので、宿題として出してください。やってもやらなくてもいいものだと、やっていきませんから。」自主性にまかせるのではなく強制的にしてほしいということですね。では、ここで力を付けていく人と、そうでない人の違いを見ていきましょう。もちろん、宿題に関することでです。宿題をやって来ない人、それでは周りと比べると成績は下がっていきますね。自分の中では成長していないだけかもしれませんが、周りがどんどん成長していれば、成績は下がることになります。宿題をきちんとやってくる人はどうでしょう。それでも、周りと同じことしかしていないのでは、成績は上がらないのです。もちろん自分はちゃんと成長していますよ。だからそれでいいじゃないかとも言えるのですが、どうしても先の受験ということを考えると、周りと比べてより成長する、そのことで成績が上がるというのが望ましいですよね。そうなるためには、言われたことをちゃんとやっているというだけではちょっと足りないのです。プラスアルファの自主的な取り組みが必要になります。あるいは、宿題に対する取り組み方の違いも大きいでしょう。1回やってマルつけして、間違っていてもそのままで授業に来る人と、間違いをしっかり直して、それでも分からないところはちゃんとチェックして、問題意識をもって授業に臨む人、どちらが良いかは明らかですね。少し違う見方をしましょう。何のために宿題をしていくのか。宿題をやっていなければ先生にしかられるから、みんなの前ではずかしい思いをするから、授業後残されるから、先生からお母さんお父さんに知らされて、しかられるのがいやだから・・・いろいろあるかもしれませんね。これらはすべてマイナスの発想ですね。僕たちもそれはいやなので、宿題をして来たら「いいねスタンプ」を押して、ほめるようにしています。スタンプがたくさんほしいから、ほめられるから、だから宿題をやっていく、そういう人もきっといるでしょうね。プラス思考で良さそうですね。でもね、これも結局は外からのはたらきかけ(外発的動機付け)で宿題をしようとしていることには変わりないのですね。もっと、自分の内側からやっていこうと思えるのってどういうときなのでしょうね。だからね、僕は、あまりこれは宿題だからやって来なさいとか、できてなかったら残すよ、とか言うのは好きじゃないんです。ましてや、宿題やって来なかった生徒をみんなの前で1時間しかっているとか、あり得ないです。もう時間がもったいないし、きちんとやってきた生徒に失礼です。ただ、ある程度ここをやってくるようにと言ってあげないと、なかなか自分の判断でやるべきことを選べるわけじゃないし、次の授業とか、次のテストとかもあるし、どうしても宿題は出すことにはなります。全く宿題を廃止している学校もあると聞きますが、たぶん別の形で課題を出したり、テスト勉強というかたちでお家でやってもらうようにしているのでしょうね。
 たとえば、中学受験クラスでは「計算トレーニング」という問題集があります。1日に10題ずつやれるようになっています。毎朝15分でやってほしい。これが習慣化(ルーティン)してくるのがいいですね。計算とか漢字や英単語を覚えるとかは、毎日決まった時間に、コツコツこなしていくのが良いですね。やっていなかったら気持ち悪くなるくらい習慣になっているのが一番です。その日出された宿題は、その日のうちに全部やらないと気が済まないという人がときどきいます。そこは、あまりかたくなにはならない方がいいですね。終わらなくて夜中までかかったりすると、からだにもよくないですからね。それに、まとめてやるよりも、何回かに分けてやる方が効果があります。一夜漬けより毎日コツコツが大切です。
 ああ、でもね、問題解いていたらおもしろくなって、やめられなくなって夜中までかかってしまいました、というのは良いかも知れませんよ。そう、そうなんです。楽しいからやる、これが一番良いのですね。自分の内側から出てくるやりたいという気持ち(内発的動機付け)、それがあると一番強いのです。テストでいい点数取りたい、成績を上げたい(5を取りたい)、だからがんばって宿題をやって、プラスアルファの課題もやって、テスト勉強も時間をかけてする、それはすばらしいことです。それでいい。そうして、自分の志望校に合格することを目標にがんばっていく、とても大切なことです。でも、できれば、それがつらいことではなく、楽しいことであってほしいなあと思います。楽しいことは続くのです。楽しいことはまわりの人に伝染します。合格体験記にも書いてくれている人がいました。計画を立てて、きちんと受験勉強を進めているうちに、自分のペースがうまくつかめるようになって、次第に楽しくなってきたと。勉強すること自体が楽しい、もっと先のことが知りたい、もっとわかりたい、というような内からわき出てくるようなやる気があると、もう勉強はどんどん進んでいきます。もう放っておいても大丈夫です。ある程度やるべきことを指示してあげれば、あとは勝手に伸びていきます。みんながそうなってくれると、先生たちはむちゃくちゃ楽です。(ただし、難しい問題の質問がいっぱい来ると、忙しくなりますが。)
 ということで、宿題というか、勉強全般になのですが、強制的にやらされるものから、自主的に楽しんでできるものに変えていけると良いなあと思います。みんなにそう思ってもらえるように、僕たちもいろいろ手を変え品を変え宿題を出していきますね。(ホームページにのせた約分の課題もそういう意味で出したんだけど、みんなやってくれたかなあ?)

★その5★ 成績ってどんなだ


 小学校では3段階、中学校では5段階で成績がついていますね。それぞれの学期ごとに出る成績、通知表というのはなんのためにあるのでしょう。そもそもそんなもの必要なんでしょうか? 法的には指導要録というものがあって、それは必ずつける必要があるそうですが、通知表自体は出しても出さなくてもどちらでもいいみたいです。だから、作っていない学校もあるようですよ。みなさんの学校には通知表がありますよね。そして、受験のときには、その成績が内申書(調査書)として必要になると思っていますよね。だいたいそれで間違いないのですが、内申書として出すもの(指導要録の内容)と、通知表の数字とは違うこともあるようです。
 そもそもは、明治に入って学校の制度ができてから通知表(通知票、通信簿)というものができたのだと思いますが、当初はずいぶん厳しいもので、小学生でも成績が悪ければ落第とかあったみたいです。(もっとも、ちゃんと理解できていないまま上の学年に行くより、もう1年やり直すのも悪くないかもしれません。そういうふうにしている国もあるみたいです。別に、1年、2年遅れたってどってことないよ、と思えるような環境が必要でしょうが。)私の父親の通知表とかを見ると、甲乙丙(こうおつへい)とか優良可とかという文字が、数字の代わりにのっています。そう言えば、僕も大学の成績表は優良可・不可でした。アメリカではABCDEそしてF(fail不合格)だったように思います。小学校は、「よくできる、できる、がんばろう」とかだったと思います。学校によっても違いますね。
 そう言えば、僕が小学校3年のときに本能小学校から太秦小学校に転校したのですが、通知表が変わって、全教科◎がついていて、やったあ、と思った覚えがあります。実は全員◎で、その◎がどの欄についているかが大事だったのです。一瞬「えー」と思いましたが、結局、ちゃんと全部「よくできる」のところについていたので、喜んで良かったわけです。担任の先生との相性がとっても良かったのですね。家庭訪問でも「いい子が来てくれた」と言われたようで、母親も喜んでいました。結局、3年、4年と6回の成績はすべて「よくできる」でした。それ以降は、そんなことはなく普通の成績でした。
 20年くらい前までは、成績は相対評価でついていました。5と1がつくのは全体の7%、4と2がつくのは全体の24%、3が38%だったようです。これ、公平だと思いますか?実は学校によってけっこう差があったのです。A中学校でオール5がとれていた子が、転校してB中学校に行ったらオール4にもならなかったという話をちょくちょく聞きました。だから、私立高校の先生たちはその辺のことを知っていて、内申点を見る際に気をつけていたそうです。もっとも、公立高校では以前から単純に本番の点数と内申の合計点数で合否を決めていましたから、どこの中学校に通っているかはけっこう大きな問題だったのです。これ、けっこう悩ましいのです。地域がら良い教育環境で授業を受けられる方がいいのは間違いないのですが、そうすると良い成績はつきにくくなるのです。逆に、環境はもう一つだけれど。その中でちょっとがんばればよい成績がとれるということもあります。これ、実はいまも同じで、そして、高校選びの際も悩むところなのです。
 さて、2002年のゆとり教育スタートからは、成績は絶対評価でつけることになりました。絶対評価とは、これだけのことができれば5とか、ここまでできていれば4というふうに基準が決まっており、本来、何人までが5とかは決まっていないもののはずです。けれど、これまた、学校によって、先生によって、あまくつける人と、そうでない人がいたりで、問題はあるわけです。あまりにもたくさん5をつけていたりすると問題ですよね。それで、どうやら、ある程度、5や4をつける割合などは決まっているようです。それぞれの教科、いくつかの観点が決まっていて、それを先生たちはそれぞれ評価し、プラスしてテストの点数で成績をつけていくことになります。僕が見てきた中でも、観点別オールAでも5がつかない生徒はけっこういます。テストの点数が90点越えていても5にならない生徒、逆に80点台でも5になっている生徒、いろいろです。ただ、だいたい言えることは、先ほど僕自身の小学校3,4年の成績で話しをした通りで、先生の印象というのはどうやらかなり大きいのです。だからこそ、いつも、自分をアピールしよう、そのために、「授業中はうなずきながら先生の話を聞こう」、「職員室に質問に行こう」などということを言っているのですね。
 さて、塾での成績というのは、もうテストの点数だけです。ふだんあまり努力をしていなくてもきちんと点数がとれていれば良い評価が得られます。逆に、ものすごく一生懸命努力しているのに、なかなか点数が上がらないという人もいます。何とかしてあげたいと思って、いろいろ取り組み方を工夫したりもしてもらいますが、それで変わる人もいれば、うまくいかない人もいます。「こうすれば必ずできるようになる」というような誰にでも効果のある方法は残念ながらありません。でも、それぞれにあった学習法はきっとあるはずで、それをうまく見つけられれば成長するはずです。ほとんどの場合は、時間をかけて繰り返しやるよりないと思っています。記憶や理解に時間がかかる人は、それに取り組む機会を増やす、量と時間を増やすしかないのです。努力あるのみです。努力できるのも才能ですからね。そしてその努力を評価してもらえるように、うまくアピールもしてほしいのです。人が人を評価し、成績をつけるというのは何となく嫌な感じがしますが、現状こういう仕組みになっているので、この中でうまく渡り歩いていくしかないですね。特に、中学生と、公立中高一貫校を目指す受験生は、後悔することのないように、しっかりと努力しそれをアピールしてくださいね。
 ところで、先生も成績はつけられます。みなさんの授業アンケートがそうです。その結果で先生たちも一喜一憂します。でも、それ以上に気になるのは、皆さんの成績がどう変わっていくのかです。自分が受け持っている生徒たちの成績が明らかに上がっていく、そして、たくさん第一志望に合格していく、それが先生たちにとって一番うれしいことで、そこで先生たちも評価されている、成績をつけられているのだと思っています。
 

★その6★ 入試ってどんなだ


 幼稚園は入試っていうほどじゃないかなあ。小学校入試、これは難しい。6歳でなくても、けっこう大人がやっても難しい問題がありますね。で、なかなか頭の体操としては有効だと思います。まあ、小学校受験については、テストだけじゃなくて、集団行動とか親子面接とか他にもいろいろあるので、今回のテーマからは外しておきますね。中学入試。高校入試。この2つが僕が仕事として30年近く取り組んできたことです。あとで、じっくり考えてみましょう。
 で、まずは大学入試から。こちらは、直接指導する立場にはないが、自分の体験、そして我が家の2人の子どもの体験があります。さらに、昨年はセンター試験に代わって行われる共通テストがいろいろと話題になったので皆さんも記憶にあることでしょう。まずは英語をどうするのか。民間の試験を取り入れるということでしたが、受験料の問題とか、地域によって受けやすさにも差が出てしまいそうで、とりあえずストップがかかりましたね。そもそも、英語の話す力とか、書く力は必要に決まっているのだけれど、何十万人かが一斉に受ける試験には難しいんですよね。大学ごとの個別テストで、英語の面接とかをやっているところもあるでしょうし、それでいいんじゃないかとも思えるのですが。ただ、共通テストに入れることで、高校側の指導の仕方が変わるということなのでしょうね。だって、大学受験を目指す高校でも、私立文系しか受験できませんなんてところもありますから。そういうところは、もう、数学とか物理とかやめて、受験に必要な教科だけに時間をかければ良くなりますからね。(指導要領上は本当はよろしくないんでしょうが、そこはうまいことやっているのでしょう。)それと、もう一つ共通テストでは記述式の問題がありました。紆余曲折の末、結果どうなるんでしたでしょう。もう分からなくなってしまいましたね。だいたい、その何十万人もの人が一斉に受けるテストで、100字とかの記述問題があって、それをどうやって採点するのか。大学生のアルバイトを使うとかいう話もありましたが、これ、どれだけ採点基準をくわしく作っても、不公平感はぬぐえないでしょうね。こちらについても、ずっと、各大学の個別テストでは、記述問題を、それぞれの学部学科の先生たちが、複数人数で回したりしながら慎重に採点をされているわけで、その大学の中だけでのことなら、まあまあ公平にはできるのではないでしょうか。共通テストの場合は、北海道で受けても沖縄で受けてもテストは同じですが、採点者が違って、点数のつけ方も違ったりすると、同じ京都大学を受けるなんていうときに不公平になってしまうのでしょうね。もっとも、記述は細かく1点刻みではつけないという話もあったかと思いますが、これがまた、点数に幅を持たせると、合否を決めるときに困るのですね。そもそも、ボーダーライン上に何人も乗ってしまうでしょうし。そこをどうやって決めていくのか。その決め方も明らかにしておかないと、女子の受験生には厳しくとか、浪人生には厳しくとか、またいろいろ問題が起こりそうです。さらに、文科省は大学の定員の厳格化を言っていますしね。とにかく問題は山積しているのです。僕、個人的には、大学入試については、もういろんな大学があるわけだし、それぞれがいろんな方法で学生を選抜すればいいように思います。できれば、一発逆転ができる制度もつくってほしいですね。高校3年間はさぼってしまったけど、浪人して1年必死に勉強したとか。高卒で働いていたけど、勉強したくなって受験したとか。いろんな人がいていいと思うなあ。というか、大学はもっと入りやすくしてもいいのかもしれません。その代り、与えられた課題をしっかりこなせないと卒業できないようにするとか。外国にはそういうところが多いようですね。もっとも、僕は大した勉強もしないままに卒業した方なので偉そうに言えませんが。ただ、いろいろ興味のあることには顔を突っ込んでいたので、専門家としては育ちませんでしたが、学問のファンとしては良かったのかなあと思っています。
 さて、ここからは中学入試・高校入試です。そもそも、公立の小学校や、地元の公立中学校は受験もなく、その地域に住んでいれば誰でも進学できます。入試があるのは希望する人しか進学できない学校ということですね。希望する生徒が少なければ、無試験でも入れるのかもしれませんが、あまり人気のない学校にわざわざ進みたいと思う人も少ないでしょう。将来のことなどを考えて学校を選んでいけば、きっと人気のある学校になり、すると倍率も高くなる。5人中1人しか合格できないなんていうこともあり得ます。そうすると、どんどん難しくなっていくのです。たとえば、堀川高校、最初に探究科を立ち上げられるときは、準備されている先生方もどうなることかと心配だったと思います。だから、わざわざ塾にまでどういう取り組みをしようとしているのか説明に来てくださいました。ところが、いや、そういう準備のためだったのかもしれませんが、ふたを開けてみると、優秀な生徒が集まったわけです。そうすると、学校ではレベルの高い指導が展開できるし、大学受験の部分でも素晴らしい結果が残せるようになります。すると、また優秀な生徒たちが集まってくる。うまく回転し出したのですね。すると、格差はどんどん広がっていきます。こうして、ここ20年ほどで、京都の公立高校には序列ができてしまいました。入試問題にしても、公立高校の専門学科は各学校独自問題でどんどん難しくなってきました。難しくしないと差がつかないくらい、優秀な生徒が受験に集まってくるということですね。かたや、普通科中期選抜の共通問題は全国的に見ても京都はやさしい問題です。だいたい記述がまったくありません。採点はむちゃくちゃしやすいです。これはいいことなのかどうか、議論されているのかどうかよく知りません。個人的には、これはこれでいいような気はします。みんなが受けるテストですから。さて、高校入試はほぼ100%の中3生が受験するわけですが、中学入試は小6生の10%ほどでしょうか。ですから、よほど意識をしっかり持って取り組まないと受験するのは難しいでしょう。でも、塾では皆が受験するわけで、同じ目的を持つ皆が集まることで、相乗効果が出てくるわけですよね。公立中高一貫校の人気は依然高いわけですが、私立中についてはかなり差が出てきています。先ほども言いましたが、受験生が集まれば難易度は上がり、より良い結果が得られるようになりますが、逆に受験生が減ると、生徒の質が落ち、私立に行っている意味が見出せず、余計に受験生が減るという悪循環に陥ります。これって、塾でもそうだし、もっというと飲食店とかいろんなお店でもみんな一緒ですね。差がどんどん広がり、そうして淘汰されていく(つまり、つぶれる学校や塾、お店が出てくるということ)。生き残るためには何か他との差別化が必要ですね。入試制度についてもそうです。だからどんどん入試も多様化していきます。そんな中、受験生の皆さんは、しっかり情報を得て、戦略を練ってくださいね。でも、根本は基礎学力と好奇心。学ぶことは楽しいという気持ちは持っていてくださいね。
 次回は校則についてお話します。これは、主に中学生の方かな。

★その7★ 校則ってなんだ


 「こうそく」と入力すると、まず「高速」が出て来て、次が「校則」、でも「拘束」もある。校則というのは学校内での決まり(ルール)ですね。小学生のみんなはあまりなじみがないかも知れません。中学生にとっては、どうでしょう? 校則に拘束されているという実感はありますか? たとえば、こういうことがあります。小学生の間は髪の毛を茶色く染めていても(本人がというより親がでしょうが)何も言われなかったが、中学生になる段階で、入学式には入れてもらえなかった。オシャレで髪の毛を染めるというのは中学校では否定されます。非行の始まりとみなされてストップをかけられるのですね。でもね、こういうこともあります。もともと、髪の毛が茶色っぽい子が、黒く染めてきなさいと学校から言われる。(見た目)外国人ならば、髪が茶色いのはふつうで、日本の学校でも何も言われないでしょう。ところが(見た目)日本人ならば髪が黒いのがふつうなので、茶色だと目立ってしまう。で、出る杭は打たれる。いろんな人種のいる国(町、学校)だと、髪の毛の色なんてだれも何にも気にしません。多様性ということですんでしまいます。でも、日本の学校には、一部の地域をのぞいては、外国人はほとんどいないし、髪が黒いのは当たり前となって、茶色い髪の毛は校則違反。だれかに迷惑をかけていますか? 不快な思いをさせていますか? 一度考えてみてください。それで、おかしいなあと思ったら、校則は変えることができます。憲法でもなんでもそうですが、最後の方にきちんと変更するためのルールが書かれています。(そのはずです。)生徒会活動を通して、校則を自分たちで変えた、なんていう体験は一生自分の中に生きるものだと思います。もちろん、最初に声を上げるのには勇気がいるのですが、みんなで相談できるというのが学校の魅力だと思います。
 もう少しほかの例をあげましょう。靴下の色は白、ワンポイントまではOK。両側にマークがあるのは不可。意味わかりますか? 下着の色は白。だれがパンツの色を気にするのでしょうね。ブラジャーとか白の方が目立つからいやだという人もいますね。何でもありにすると収集がつかなくなるから、一律で白って決めるんでしょうね。自分の頭で考えなくなりますね。あっ、だから紫野高校は私服にこだわっていると校長先生はおっしゃっていました。タイツをはいてはいけない。真冬の女子の素足、本当に寒そうです。あっ、男子がズボンの下に、ヒートテックタイツをはくのはOKなんでしょうか? というか、最近は、学校によっては女子の制服がズボンの選択もできるようになっていますね。これは良い傾向だと思います。ルーズソックス(死後?)は不可。マフラーは不可。コートも不可。まあ、とにかく派手になり過ぎないようにということなのでしょうか。最近では、マスクは白、っていう話もありましたね。まあ、校則に明記されているものもあれば、随時お手紙などで指示の出るものもあるのでしょうね。言われたとおりに何も考えずに行動するのが一番楽です。それで全然気にならない人もいるでしょう。それはそれでいいような気もしますが、何か問題が起こったとき、異論を唱える人が出てきたとき、知らん顔せずにいっしょに話し合ってみるというのは大事かもしれませんね。
 僕の経験も書きましょう。もう40年も前のことだし、当時は校内暴力がまっさかりという時代。ちょうど金八先生の第一世代です。(マッチと同い年です。)だから今とはずいぶん違うかもしれませんが、最近もっとひどくなってるという話もありますしね。まあ、たいがいは制服や髪形などについてでしょう。いまのようにスマホなどないですから、そういった点での決まりは必要なかったですね。ゲームもやっと喫茶店などのテーブルでやるスペースインヴェーダーというのが流行りだしたところでした。マンガの持ち込みは禁止とか、そういうのはあったかもしれません。で、僕の経験では、前にも書いたことがありますが、ちょっと調子に乗って修学旅行のときにオシャレ(自分ではそう思っていた)をして、校則違反あるいは違反すれすれの、シャツを着て、くつ下とくつをはいて、アイパー(アイロンパーマ)をあてて、ということで、初日、新幹線を降りて広島駅のホームだったと思いますが何人かの先生に囲まれました。そして、すぐに着替えさせられました。まあ、若気の至りというやつですね。ちょっと目立ちたかったのかなあ。そのとき、後ろでくすくす笑っていた数学の先生だけ好きでした。そういう先生もいたのです。それから、高校2年でアメリカ留学したとき、ほとんど校則ってなかったと思いますが、一度廊下で生活指導の先生だかに呼び止められたことがありました。こわかったですね。すごくごっつい先生でしたから。僕は何にも悪いことはしていません。どうやら僕の着ていたTシャツになにか書かれていた文言が、その先生の目に入ったようです。もう犯罪者扱いでしたね。犯罪者と言えば、大学生のときに、自分の自転車で大学まで50分くらいかけて通っていたら、パトカーが追い越して停まり、警察官に呼び止められました。「それはだれの自転車や」「僕のです」学生証を見せたらすぐに開放してくれましたが、そんなひどいかっこうしていたのかなあ。ふつうの大学生でしたけどね。
 さて、ちょっと話がそれてしまいました。そもそも何のために校則というのはあるのでしょう。それは、当然、みなさんが学校で気持ちよく過ごし、勉強やクラブ活動などなどができるようにするためということでしょう。もちろん、先生が指導しやすいように、というのもその裏にはあるでしょう。ですが、主体は生徒のみんなです。みんなが校則のためにいやな思いをすることはあってはいけないと思います。もっというと、法律って何のためにあるのでしょう。憲法って何のためにあるのでしょう。それは、みなさんが必要最低限生きていくことができて(生存権 憲法第25条)、その上でできるだけ、自由に幸せに生活できるようにするためのものだと思います。けれども、各自がそれぞれの幸せのためだけに行動をしだすと、何かと問題が起きてしまいそうです。自分の感情にまかせて、欲しいなと思ったものは、他人のものでも勝手にもっていってしまう。腹が立ったらすぐに暴力をふるう。自分の利益だけを考えて、他人に迷惑をかけても平気でいる。そんな人だらけになったら生きづらいですよね。だいたい、自分の感情にまかせてというのは自由ではないのです。感情によって動かされているわけだから。理性的に考えて行動できるようであってほしいものです。人間生きていればまわりの人に迷惑をかけることもあるでしょう。でも、そんなときに、申し訳ないという気持ちを持って素直に謝れるようであってほしいと思います。そしてなるべく、相互に自由を認め合えるようであってほしい。だからね、自習室でのおしゃべりは厳禁なんですよ。勉強しようと思っている人が、思うようにできないというのは困るのです。だれもが自分がしたいようにしていると生きにくくなるので、それを防ぐために決まりを作っているのですね。校則はみんなのためにあるはずです。一度考えてみましょうね。
 次回は、部活についてお話します。

★その8★ 部活ってなんだ


 小学生でも放課後の活動をしている人もいると思いますが、中学生はほとんどの人が部活動に参加していますね。高校生になると、授業後そのまま帰宅する人も多いようですが。高校の部活は、本気でやっているところは気合の入れよう(お金のかけよう)がまったく違いますからねえ。それに、その部活に力を入れているからということで受験生が集まってきたりもしますからね。部活推薦というかたちで進学する人もいますしね。そのあたりの話はいったんわきに置いて、そもそも部活は何のためにしているのかを考えたいと思います。
 まず、最初に言っておきたいのは部活動に参加するかどうかは自由だということです。強制できるものではありませんし、参加しなければ受験に不利なんていうこともありません。(部活に参加し全国大会にでも出れば受験に有利になることはありますが。)ところがどうも、学校にもよりますが、100%参加するのを求めるところもあるようですね。いやなら途中でやめたっていいんですけどねえ。友人関係とか、顧問の先生との関係とか、いろいろいやなこともありますしね。そういうことを踏まえた上で、あえて部活のすすめをお話しようと思います。
 僕自身は、小学生のときは、低学年で1年ほどスイミングスクールに通ったこと以外は特にスポーツなどしていませんでした。中学校に入ると、部活は何か入るのが当たり前の雰囲気だったし、友だちに誘われたこともあってサッカー部に入部しました。いやあ、先輩はこわかったですね。3年生、2年生、1年生としっかり序列ができていて。廊下で出会ったときなども、あいさつしなかったら後で何を言われるかと恐れていました。とは言え、楽しくなければ続かないわけで、いろいろおもしろいこともあったのです。2年生のちょっとおバカな先輩は、雨のあとのグラウンドで練習していて、「目が泥に入った」などと言って周りを笑わせていました。入部して4ヶ月ほど、まだ3年生が残っている間は試合に出られるわけでもなく、球拾いと基礎練習が中心でした。まだ、少年サッカーのチームとかほとんどなかったですし、経験者も多くはなかったのです。でも、自分が2年になって、新たに後輩が入って来て、そのうちの2人は経験者で、とてもうまくて、1年なのに試合に出たりしているのを見ると、ちょっと悔しかったですね。けっこう、家に帰ってからも自分1人でボールを蹴ったり、リフティングの練習したりしたものです。1つ上の先輩たちが引退すると、僕も毎回試合に出られるようになりました。まあ、後ろの方で守っているだけで得点をゲットしたことなんて一度もなかったのですが。後にプロの試合など見るようになると、サイドバックでもチャンスになれば上がっていってシュートを決めたりしているのを見て、「そんなんもありやったんや」と思ったりしましたね。僕らの代は、キャプテンをしていた子が優秀だったのだと思いますが、自分たちで全部練習のメニューも決めていました。顧問の先生はときどき見に来るくらいで、そんなに口出しはしませんでしたね。顧問がむちゃくちゃこわくて、試合に負けてしばかれた、なんてむちゃくちゃな話は一切ありませんでした。
 部活を経験して何が良かったのか。まずは先輩・後輩とのタテの関係を経験できたことですね。たぶん、これがなかったら社会に出るまで、敬語をつかったり、気をつかったりする練習はできなかったんじゃないかな。それと、試合に勝ったときのうれしさと負けたときのくやしさを味わえたこと。しんどい練習をしてきた上だからこそ、うれしさやくやしさが味わえたのだと思います。そういう意味では、楽しいだけで、みんなでお遊び気分でやっているのではそういう体験はできないんじゃないかなあと思います。僕が中3のときの最後の夏の大会では、京都市内で準優勝(烏丸中に負けた、くやしかったなあ)、京都府下大会に出て、そこでは優勝しました。(このときは押されまくっていたけど、キーパーが最後まで守り切った。井上くん守護神だったなあ。そんなことば、当時はつかわなかったけど。)近畿大会では予選リーグで1勝もできずに敗退しましたが、とてもいい経験ができたと思います。そりゃもう興奮しますよね。でもね、最後の最後の試合で、もうしんどくって、足も痛くって、足引きずって走っていて、顧問の先生に選手交代と言われたときには正直ホッとしました。これって、自分に負けたんですよね。一番の敵は自分だ、なんていうことがありますが、本当にそうだと思います。そういう精神力の弱さに気づけた、あるいは精神力を少しは鍛えることができた、というのも部活に参加して良かった点だと思います。
 学校って、基本は勉強するところだと思うし、まずは小学生・中学生として必要な知識や考え方を身に付けてほしいと思います。でも、それだけではなくて、いろいろな行事、学級活動、クラブ活動を通して、社会に出て多くの人の中に入って生きていく練習もしているのだと思います。学校は社会の縮図ですからね。いろんな人間関係を体験してほしいですね。そういう意味では、少々いやなことがあっても、ちょっとはがまんして、その中でうまくやっていく方法を探ってほしいとも思います。でもでも、しんどすぎるのをがまんするのは良くないです。いやなら、きっぱりやめる。学校から逃げ出す。そういう選択肢もあります。それは何もはずかしいことではありません。まあ、一人で悩まずに、まわりの人に(複数の人に)いろいろと相談すると良いと思います。分かってくれる人がきっといるはずです。
 部活推薦の話にも少し触れておきましょう。毎年、私立はもちろん公立高校でも複数の生徒が部活など特別活動の加点によって進学していきます。なにごとであっても自分にそれだけの力があるのであれば、その力を活用して高校に進学するのは決して悪いことではありません。勉強は苦手だけど、人一倍スポーツの練習・楽器の演奏に取り組んできた。それで、進学できるのなら、それはあなたの実力です。自信をもっていきましょう。でもまあ、高校に入って3年間部活だけというわけでもなく、勉強もして、試験も受けて、卒業もしないといけないし、きっと大学にも進学することになるかもしれない。そういう意味では、いまできる勉強は引き続きやってほしいと思いますね。
 最後に中学校ではたぶん経験できない、高校にはある部活動を紹介しましょう。はやりはカルタ部。映画になったりもして人気ですね。百人一首、僕は「これやこの・・・」しか知りませんが、とっても楽しそうですね。しかも、ハードそうです。部活の醍醐味を備えていますね。書道部、これも最近よくテレビでパフォーマンスをしていますが、すごいですね。弓道部、これもアニメであったなあ。なぎなた部、これをしたいからって高校を選ぶ生徒もいました。茶道部とか、日本に昔からあるものが、最近はちょっと人気なのでしょうか。そして忘れてはならないのが軽音楽部。吹奏楽部とはちょっと違って、少人数でバンドを組んで活動をしますね。ビートルズがはやり出したころは、エレキギター=不良、なんていうのがあったかもしれませんが、それはもう昔の話。ギターやベース、ドラムスとみんなかっこういいなあ。楽器を持ちよって、突然音楽が始まる。それもいいなあ。フラッシュモブとか最高だなあ。映画「フェーム」のワンシーン大好きだなあ。自分も楽器が演奏できて仲間に入れたらなんていいんだろうと思うけど、もう無理やなあ。でも、高校のときの文化祭ではバンド組んで(フォークだけど)歌ったりもしたんだけどなあ。「僕の髪が~♪」ってね。

★その9★ 進路ってどんなだ


 幼稚園を自分で選んだという人はいませんよね。小学校受験をした人も、おそらく自分の意志ではないでしょう。中学受験はお父さん、お母さんなどのすすめがあったでしょうが、受験する学校は自分で決めた(る)という人もいるでしょう。高校受験は、学校や塾の先生と相談して最終的には自分で決める人が多いでしょう。大学受験ともなれば、たいがいは自分の考えで進学先あるいは就職先を決めるのではないでしょうか。少しずつ、親から離れて、自分で決めなければいけなくなっていきます。そして、そうなってもらわないと困るわけです。いつまでも親に言われるままではね。もっとも、この現代の世の中でも、一部の政治家のように、生まれた家で、自分の将来はもう決まっているというような人もいるかもしれません。歴史をたどって、進路について現代と比較しながら考えるのもおもしろそうですが、ここでは取り急ぎ現代の世の中における一般的な進路選択について上から見ていきましょう。最初に断っておきますが、これらはすべて僕の個人的な見解です。しかも、僕自身の考えも強固に固まっているわけでも何でもありません。まあそんな考えもあるかなあというくらいで聞いておいてください。
 大学生の就職について。会社の名前ではなく、仕事の内容で就職先を選んでほしいと思っています。有名な会社に入っても、10年先、20年先どうなっているかなんてだれにも分かりません。自分の仕事に自信をもって、誇りをもって働いている人は、きっとどこの職場に行ってもしっかり活躍するでしょう。もっとも大きな会社になればなるほど、中に入ってどんな内容の仕事を任せられるか分からないんですけどね。橋をつくりたくて就職したのに人事部に配属されたなんてドラマもありました。まあでも、自分の仕事が何か、誰かの役に立っていて、自分の存在に意味があると思えるのは大切なことでしょうね。
 高校卒業時点で大学へ進学するのか、就職するのか、それとも専門の学校に進むのか。その選択は自由だし、将来的に幸せになってくれるのが一番です。僕は個人的には大学に行って良かったし、できれば大学院に行きたかったけれど、それはかなわなかった(試験に落ちた)。自分の子どもたちには大学進学をすすめたし、大学院進学もすすめている。やりたいことがはっきり決まっていれば、その方向に進めばいいし、まだ何にも決められないというのなら、とりあえず大学に進学するというのもいい。モラトリアム(意味は調べてね)でいいと思っています。そのうちにやりたいことも見つかるはずです。とりあえずここでは大学に進みたい、でもどこの大学がいいか分からない、という人に向けてのアドバイス?です。まずは、高校1年の段階で文系か理系かを決めます。ここが1つの進路の分かれ目です。文理選択の決め手は、今後も数学と付き合っていく気があるかどうかです。小中学生の間は算数・数学はわりと解き方の暗記でもなんとかなったのですが、高校・大学となるとそうはいきません。数学的な考え方、筋道立てて物事を考えることができるかどうか。中2でやる証明とかが苦でないかどうか。もっともこういうことって、経済でも法律でも必要だし、場合によっては文学部に入っても必要なことでしょう。だから、単純に文系・理系と分けることもできないのですが、要は大学入試に数学が必要かどうかということになりそうです。だから、数学と付き合っていくことができるかどうかなのです。まあ、一般的には、国公立大学は共通テストで数学は必要だし、数学と別れたい、と思った人は私立文系に進むことになるのでしょう。まあ、そこは個人の好みかなあ。向き不向きもあるしね。で、大学選びですが、これは仕事選びといっしょで、大学の名前ではなく、中身で選んでほしいのです。でもね、実際には何をしたいか決まらないから困るわけで、「サンゴとかナマコとかを研究したい」なら琉球大学でしょうし、「砂漠の研究がしたい」なら鳥取大学とかになるでしょう。また「ナスカの地上絵」を研究したいなら山形大学かも知れません。そういうピンポイントでやりたいことが決まっていれば、ネットで検索してみると何か見つかるでしょう。それで、何をやりたいかまだ全然見えていない人は(ほとんどがそうでしょうが)、いわゆる総合大学に進学すれば、その中でやりたいものを見つけることができる可能性も多くなるわけです。できるなら東大や京大を選びたいと思うのは、何も名前で選んでいるわけではなくて、とにかくいろんな研究をしている人がいるから、その中から好きそうなものを選ぶことができるからなのです。僕自身は、素粒子物理の研究がしたかったし、科学史にも興味があったし、そういう研究室があって、しかも、自分の共通一次の点数で届く範囲の大学ということで、蛍雪時代で調べて、候補を5つぐらいあげてパンフレットを取り寄せました。いまみたいにネットでちょちょいのちょいっと調べられるわけではなかったのでね。そういう意味では皆さんは、日本中、世界中の大学から、自分の興味に引っかかりそうなところを検索して見つけることができるので幸せだと思いますよ。たいがい自分の考えていることなんて、どこかでだれかがずっと前に考えていたりしていますからね。もっとも、選択肢が多すぎて決められないということもあり得ますが。
 さあ、高校選びにいきましょう。まずは、「いまの成績で行ける学校」ではなく、「行きたい学校」を見つけましょう。成績が足りないというのなら、それに向けて努力しましょう。仮に第一志望に合格できなくても、その努力した過程は必ずあなた自身の力になっているのです。努力することってね、本当に大事なんですよ。世の中にはもって生まれた才能があるのに、努力をしないから、宝の持ち腐れになってしまっている人がごまんといるのです。実は、努力できること自体が才能なんですけどね。でも、「行きたい学校」が見つからない人もいます。もう最後はフィーリングです。その学校の前に立ったときに、そこの制服を着て立っている自分を、そして3年後成長している自分の姿を想像できるかどうかですね。タイムリミットがあるのでね、どこかで決断しなければいけないんです。人生にはそういうことが何度か訪れます。結婚もきっとそうですね。でもね、人生にはやり直しがきくのだということも覚えておいてください。入学してもうまく合わない人はいくらでもいます。せっかく努力して入った第一志望校をやめてしまう人もいるのです。それは、そのときになってみないと分からないので、そのとき、その場でいろいろ悩んで決断するしかないのですね。いろんな道があります。僕もいろんなケースを見聞きしてきましたから、いくらでも相談に乗りますよ。卒業してからでもね。
 中学校の選び方も基本は同じですが、中学受験の場合は近隣の公立中学に進学するという選択肢もあるわけで、そこが高校入試とは大きく異なります。そして、高校入試ではそのウエイトの半分近くは内申が占めているということ。だから、あなたが内申をとりやすいタイプかどうかということは考えてみてくださいね。
 最後に僕の座右の銘「人間いたるところ青山あり」。まあ、人間はいろいろなところに活躍する場所はあるわけです。決まったところで、元気に幸せに生きていってほしいですね。それでどうしてもつらくなったら、逃げるという勇気も持ってほしい。そこでいろいろ悩んで、また新たに進む路を見つければいい。それは曲がりくねった路かもしれない。何かのきっかけで、大きく路がそれるかもしれない。でもね、僕は思うんです。なんか最後には結局同じところに行きつくんじゃないかと。最期のときに、「自分の人生は幸せだった」と思えたらいいですね。

★その10★ 学校行事ってなんでするんだ


 学校行事の中では何が好きですか? 運動会(体育大会、球技大会、陸上競技大会)、学習発表会?(昔は学芸会と言っていた。文化祭、合唱コンクール)、修学旅行、岬の家?(宿泊学習)、遠足、マラソン大会(愛宕山登山競争なんてあったなあ)、社会見学、入学式に卒業式などなど。まあ、式が好きという人はあまりいないでしょう。スポーツが得意な人は年1回の体育大会がはりきりどころかもしれません。合唱コンは特に女子の間では盛り上がっていますね。お泊りは苦手という人もいるかな。
 こういった行事は何のためにするんでしょうね。特に今年は、大きく行事の見直しにせまられました。修学旅行に行かないという選択をした学校もあります。ひょっとすると行きたいけれど、時間と場所がとれなかったのかもしれません。さて、その行事は本当に必要ですか? 運動会もかなり簡素化されているようです。いままで、暑い中何度も時間をかけて練習してきたものは、はたして本当に必要だったのでしょうか。そして、来年以降はどうしていけばよいのでしょう。少しずつ考えてみましょう。
 まず、行事全般についてですが、学校教育の大きな目標の1つには集団行動ができるようになる、というものがあるのでしょう。もちろん、学校では基礎学力をつけるのが一番なのですが、同時に部活や行事ごとを通して、集団での活動に親しんでいくことも、将来社会に出たときに役立っていくはずです。ところが、このところ、部活や学校行事が盛り上がり過ぎて、本来の学習の部分がおろそかになっている場合もありました。そういうことも含めて、今年はいい機会として見直しが進んでいるのでしょう。
 個別に見ていきましょう。まずは何と言っても運動会です。組体操をはじめ、とにかく時間をかけて練習をすることが多くなっていますね。しかも、この組体操での人間ピラミッドなどはだんだんと上を目指していき、しまいには怪我人が出るまでになっています。これでは本末転倒ですね。確かに、なんでも要求はエスカレートしていくし、昨年よりも今年の技の方がすごいということになれば、さらに盛り上がるし、感動もする。この感動は、見ている方も実際にやっている方もですね。やりとげたときの達成感というのが半端ではないようですね。だから、中学生なんかでは、体育大会後は盛り上がり過ぎて打ち上げに行ったりして、しかられている人もいましたね。打ち上げ禁止令が出たりしてますね。高校生とかだと、その様子をSNSにあげていて、それが先生に見つかって呼び出されたりとか。いろいろ聞きます。まあ、盛り上がるのは悪いことではないですが、ほどほどにということですね。これは、生徒だけではなく、先生、保護者、地域住民みんな含めて気を付けないといけないですね。それから、100m走とかリレーとか勝負にこだわるもの。順位を付けない方がいいなんて言われることもありますが、僕は個人的には、1等賞は1等賞としてちゃんと何か得点か商品かをもらえればうれしいですね。区民運動会では僕もがんばって走りますよ。これはね、いっしょに走るメンバーによるんです。なるべく速そうな人とはいっしょにならないようにします。で、勉強はちょっと苦手っていう人でも、走るのは得意なら、運動会ではヒーローですよね。リレーで何人も抜いたりとかね。だから、それぞれが、それぞれの機会で活躍できる場はあった方がいいと思いますね。親も見に来てくれていますしね。僕は、中学生のとき、親の目の前で思いっきりこけてしまった覚えがあります。それまで1位だったのに、ビリでゴールした。もう情けなかった。家に帰ったら大笑いでしたね。クラス対抗リレーとかはむちゃくちゃ盛り上がりますよね。でもね、誰かのせいで負けたとか、そういうことは言いっこなしですね。そりゃ、緊張してバトン落とす人もいるでしょうし、どうしたって走るのは遅い人もいる。いろんな人がいるのをうまく助け合いながらするのが大切なんですよね。そういう意味では、走る順番を考えたりするのも大切ですよね。こういうときに、リーダー性も発揮できますね。できれば、なんでも先生の指示をあおぐのではなく、自分たちの意志で決めて行動に移せるといいですね。
 そして、文化祭。昔は劇をすることが多かったのですが、特に中学生では、いまは合唱コンが中心でしょうか。合唱はいいですね。泣きます。必ず泣きます。体がふるえます。なんだろう、歌詞の意味もあるけれど、とにかく心に響くんですね。そんなにうまいというわけではなくても。そして、みんな一生懸命なんです。ふざける子ってまず見かけないですよね。昔に比べてみんな素直になったのかもしれません。そりゃ塾でも、昔は先生にはむかってくる子とかもいましたからね。さて、合唱です。歌を通してクラスが1つになれるというのがいいですよね。もっとも、なかなかそういうことになじめなかったり、放課後練習で盛り上がっている中、1人だけ用事があるって帰る子がいたり。きっといろいろと腹立たしいこともあるのでしょうね。でも、そうやっていろんな人がいると分かることも大事なんですね。許してあげてください。なかなか集団行動がとれない子もいます。こういう行事を通してしか気づけないこともありますしね。僕はというと、一番印象に残っているのは、自分が主役をとった中2のときの劇です。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」ですよ。僕は主役、そうジュリエット役です。姉の服を借りたりしてやりましたね。楽しかった。それでくせになったのか、高1のときは、今度はモリエール「町人貴族」を関西弁で。もちろん僕は主役のリュシール役。まあ、だいたい僕は体育大会よりかは文化祭の方が好きでしたね。そりゃ、自分が活躍できる方がいいですもんね。
 中学校の修学旅行では、「校則」のときにも書きましたが、ちょっと羽目を外してしまいました。広島に行ったのですが、残念ながらなにも大切なことは頭に残っていなかった。大人になってから行った平和記念資料館がもう衝撃的でした。高校の修学旅行は沖縄でしたが、ちゃんと平和学習もしたはずなのですが、こちらもあまり印象に残っていません。やっぱりやらされた勉強ではダメなんですね。いかに自分が主体的であったか、それが後々に残るのでしょうね。そういう意味では、修学旅行にしろ他の行事にしろ、生徒自身の手で計画を立てて行動に移すことができるといいですよね。
 卒業式や入学式の儀式も、昔からのしきたりにのっとってするというのも大事なことなのだと思います。でも、卒業式もだんだんエスカレートして、事前の練習にすごく時間をとられたりするようですね。これは簡潔でいいかと思います。ただ、そうは言っても、僕自身感動の卒業式を期待して娘の高校の卒業式に行ったら、なんてこともなくがっかりしたおぼえがあります。中学校の卒業式が結構よかったのでね。先生や親に感謝の気持ちを伝えたり、まあやっぱりここでも合唱ですね。コブクロの「桜」とか、レミオロメン「3月9日」とか、もう泣いちゃいますよね。もうすぐ泣きます。そうやって、感情をわーっと出すのって結構大事だと思います。行事のときはそれが可能ですね。ふだんの学校生活では無理ですもんね。
 ということで、学校行事は何のためにするのか、それは感情をあらわにするためでした。なんか、書いているうちにそういう結論に達しました。まあ、練習は短めに。本番はハレ舞台ですから、わーっと盛り上がって、感情をいっぱい表に出して、そしてまた次の日から学習に励んでほしい。要するに、「踊る阿呆に見る阿呆おなじあほなら踊らにゃ損損」ということです。でも同時に、うまく踊れず波に乗れない人がいても許してあげて欲しい。そこのとこは、よろしく。それでは、次回は先生ってだれ??? 
 

★その11★ 先生ってだれだ?


 みんなにとって先生とはいったいだれのことでしょう。学校の先生、幼稚園のときの先生、ピアノの先生、スイミングの先生、塾の先生、いろいろですね。先生のことは好きですか、あまり好きではないですか。尊敬できる先生っていますか。みんなもいままでにたくさんの先生と付き合ってきているから、それぞれ、好きもあればきらいもありますよね。そりゃ、先生と生徒も人と人ですから、相性のいい悪い、好き嫌いはあって当然です。僕自身、小中学生のころを思い出して、大好きだった先生とか、尊敬できる先生とか、いまでも相談に行く先生とか、残念ながら1人もいません。学校でも、塾でも。高校・大学となるとお世話になったなあ、と思える先生、また会ってみたいなあと思える先生は何人かいます。まあ、1人でも心に残る先生と出会えればいいのかなあとも思います。
 僕自身、学生時代の家庭教師も入れると、30数年「先生」と呼ばれてきました。卒業してからも頼ってきてくれる生徒・保護者の方たちもいます。何ともうれしいものです。先日も20年以上前の卒業生が、自分の子育ての相談で電話をしてきてくれました。自分のことながら、よくまあ覚えていてくれたことだなあと思います。僕自身はその子(もう34歳だそうですが)のことはよく覚えていました。その子のいたクラスは3年間算数と理科を受け持っていましたし、みんなよく頑張る子たちでしたから。自分自身が、そんなふうに頼っていける先生がいないのは、少しさみしい気もします。
 さて、先生と呼ばれる職業はいろいろとありますね。もちろん、学校や塾の先生(いわゆる教師とか講師)。それから職業としてではなく、呼称として先生と呼ばれることが多いのは、お医者さん。それに政治家?弁護士?小説家?芸術家?・・・国立民族学博物館の先生方は、年長であろうが若かろうが皆さんそれぞれを「先生」とは言わずに「さん付け」で呼ぶのだそうです。初代館長の梅棹先生(梅棹忠夫)も梅棹さんとみんなに呼ばれていたのですね。もっとも梅棹先生自身、今西先生(今西錦司)のことを今西さんと呼んでいたでしょうが。まあ、先生と呼ばれることをあまり好まない方々はけっこういるようです。同じ研究者として対等でありたいという思いなのでしょうか。
 僕の場合は、仕事上では年齢にかかわらず皆さんを先生と呼びます。(自分が年齢が上だと、相手を君付けで呼ぶ方もいますが、あまり好きではありません。)自分が先生と呼ばれること自体にもあまり違和感はないですね。でも、数学の教師です、とはちょっと言いにくいですね。師と言えるほどの自信がないからですかね。
 それから、本の著者とか、著名人とか、自分がいろいろと影響を受けた方については、年上の場合はふつう先生と呼びます。同年輩から下の方はさん付けにすることも多いですね。あっ、でも、池谷先生は僕よりも若いですが、やっぱり先生を付けるなあ。まあ、尊敬できるような方でも、もっともっと遠い存在では呼び捨てにしますね。たとえば夏目漱石とか寺田寅彦とか。朝永振一郎・湯川秀樹くらいになってくると、朝永先生・湯川先生と書くこともあるかもしれないですね。生きているか・死んでいるかはあまり関係ないのかなあ。
 僕は、新しく先生になる人には「先生と呼ばれることの重大さを感じ取ってほしい」といつも話しています。先生の威厳というのは昔に比べるとずいぶんなくなってしまいました。先生の言うことなら、何でもかんでもしっかり聞いてくれるというような時代でもなくなりました。それでも、先生という立場は、どうしても上からものを言うことになってしまいます。強い立場の先生と弱い立場の生徒という非対称性はどうしてもできてしまいます。だからこそ、一言一言に気を付けなければいけません。それでもついついきつい言い方になるので、いつも反省しています。ゴメンね。
 一方で、先生のことを相当強い存在だと思い込んでいる生徒の皆さんも多いのではないですか。僕たちも相当傷つきます。アンケートできつい言葉を浴びせられることもあるし、落書きでひどいことを書かれることもあります。人として言っていいことと悪いことはあります。とくに、SNSとかでもそうですが、匿名だから何とでも言えるなんていうのは、本当、どうかなあと思っちゃいますね。そこのところはちゃんとわかる人間になってほしいと思います。
 ところで、むかし僕のことを師匠と呼んでくれる生徒がいました。彼自身が理科の先生としてしばらく働いていてくれたからなのですが。先生と師匠とはちょっと雰囲気が違いますね。師匠というのは、落語家とか芸人さんの間ではよく使われることばですね。それから、華道とか茶道とか、「おっしょさん」なんていう言い方もしますね。このあたりをちょっとイメージしてみると、師匠は決して分かりやすく教えてくれたりはしません。自分の背中を見て弟子は育っていくと考えているのでしょうね。弟子は師匠の荷物を持ったり、着替えの手伝いをしたり、日常的なお手伝いをたくさんします。そして、ときどきお稽古をつけてもらいます。自分の師匠が何人もの弟子を抱えていたりすると、他の弟子にはやさしく教えるのに、自分にはいつも厳しい、なんでだろう、なんて悩む弟子も出てくることでしょう。まあ、人と人のことなので、相性とか、師匠の側にもいろいろな思いはあるのでしょうね。
 さて、芸事であっても学問であっても、さらに料理人とか職人の世界でも、なにごとも教えるあるいは学ぶということについては、まずはしっかり基礎基本を固める必要があるでしょう。10年の修業を経てやっと1人前、一人立ちができるなんていうこともあります。その上で、殻を破って、いったい自分は何者かを見つめ直す時期が来るでしょう。それまでは師匠に言われるがまま、見よう見真似でやってきた。伝統を受け継いでいくという意味ではそのままでいい部分もあるでしょうが、そこからやはり自分にしかできないことも見つけ出していきたい。取り換えのきかない自分の存在意義、自分にしかできないことは何だろうか、自分に付加価値を付けるにはどうすればいいか、そんなことを考え始めるのでしょう。そして、最終的に自分のオリジナルな世界ができあがってくると、自分自身も師匠と呼ばれる存在になっていくのでしょうね。これを、「守破離」とか「カオス・ノモス・コスモス」とか言ったりします。あの、ピカソだって、最初はきちんとデッサンの練習をしていたでしょうね。いろんな時代を経て、ピカソにしか描けない世界を作り上げていったのでしょう。(外国人はたいがい呼び捨てです。)
 なんかちょっと大げさな話になってしまいましたが、先生と呼ばれる存在には、いくぶんはこの師匠の雰囲気も兼ね備えていてほしい気がします。先生が生徒に何でもていねいに分かりやすく教えるというのではなく、生徒が先生の技を盗むとか、先生の生き様を真似るとか。そのためには、まず生徒は先生に対するあこがれの感情が必要になるでしょう。圧倒的な信頼感も必要でしょう。そして、そうあるためには先生側にも相当の覚悟が必要になってくるのでしょう。つねに、向上心を持って、先生自身が学び続ける人でないといけません。なんか、ちょっと自分で言いながら、少し肩の荷が重くなってきましたが、自分自身が芯から学ぶことは楽しいと感じ、そのことを生徒のみんなにも伝えていきたいとは思っています。
 昔から、先生(教師)は五者であれと言われたりします。学者・役者・医者・易者・芸者。学者とは、学び続ける人、より良い教え方を研究する人。役者とは黒板の前でみんなを楽しませることのできる人。医者とは生徒のいろいろな悩み相談に乗ることのできる人。易者とはみんなの進路の相談にしっかり答えられる人。そして芸者とはみんなのやる気を引き出し、気持ちよく学びに導くことができる人。これ、全部一人でやろうとすると結構大変です。先生たちもチームで、それぞれの得意分野で力を発揮し、協力して、生徒の皆さんを育てて行ければいいと思います。将来、学校でも幼稚園でも先生と呼ばれる仕事につきたいと思っている人は、先生という仕事について一度じっくり考えてみてくださいね。
 最後に、僕が敬愛の意味を込めて先生と呼ぶ人たちを紹介しておきましょう。著書や講演会、授業を通して影響を受けてきた人たちです。森先生(森毅・・・呼び捨てにすることも多いですが)、梅棹先生(先に出てきました)、梅原先生(梅原猛・・・こちらは国際日本文化研究センターの初代館長)、河合先生(河合隼雄・・・亡くなられてからも何冊も本が出ます)。ここからは、まだご存命の先生方。村上先生(村上陽一郎・・・科学思想史の名講義を聴きました)、養老先生(養老孟司・・・いま生きている先生の中で、僕に最も影響を与えている)、内田先生(内田樹、最近は内田良も)、齋藤先生(齋藤孝・・・あこがれの連鎖が大切)、秋山先生(秋山仁・・・算数数学のおもしろさを教わった)、でんじろう先生(理科実験のおもしろさを教わった)、庭田先生(庭田茂吉・・・読書の楽しみを教わった)、堅田先生(堅田友子・・・昨年、源氏物語を教わった)・・・。先生って、何も学校や塾で教わる先生だけでなくていいと思います。自分が先生と思った人、感化された人、それが「先生」なんだと思います。夏目漱石の「こころ」に出てくる先生みたいにね。みなさんも、これからたくさんのあこがれの先生を見つけてくださいね。
 さあ、次回で最終回。教育っていったい何だろう?

★その12★ で、教育ってなんなんだ?


 1年間とくに学校教育についていろいろとお話してきました。本来は授業の合間にいろいろお話したいんですが、なかなか時間がないんですね。算数も数学も理科も大好きなので、授業の中は授業の中でいっぱい話したいことがあるのです。それにもっともっとみんなにもゆっくりじっくり考えてほしい。その時間も確保したい。だからね、授業中のいわゆる雑談は、ずいぶんと減らしてきました。若いころは、それが良かれと思って、時間をかけて語ったこともあったのですが、いまは授業は授業、他に話したいことはこうして校通信の中でお話をするようにしています。(雑談のほうばかり覚えてる人もいますよね。)
 さて、結局、教育って何なんでしょうね。「教え育てる」って読んでしまうと、なんかちょっとえらそうな感じがして嫌なんですね。だってね、この歳になっても、分からないことはいっぱいあるし、まだまだ勉強しないとと思っていますから。むかし、先生たちの勉強会のときにこんなこと言われたことがあります。僕が15年くらいこの仕事を続けていたころかなあ。僕は、もっと新しいことを学びたくてその会に参加していたのだけれど、もう「君なんかは教える立場だから」と言われて、そのときは反論もできなかったけど、いまなら「いやいや、みんなで学び合えばいいんじゃないですか」とでも返せるかな。一方で、自分に対する見返りなんて何も考えずに、誰かのために何かをするということも大事かなと思っています。僕が先輩たちからいろいろと学んできたことを、今度は後輩たちに残していくことも考えないといけないのかもしれない。恩送りですね。まあ、「背中を見て勝手に学び取れ」なんてかっこう良く言ってもいいのですが。でも、誰かのためと思っていたことが、結局自分に跳ね返って、自分の成長に役立つことっていっぱいあるのですね。まだまだ、成長しないと。背は伸びないし、髪も増えないし、視力も聴力も落ちる一方ですが。まあ、「教育」というより「共育」と言った方がいいのかもしれませんね。「共に育つ」こっちの方が僕の気分にはピッタリです。
 学校の先生は担当する学年が変わったりすると、年度によって違う内容を教えたりしますが、僕なんかは毎年、小6受験生の算数と理科とか中3生の数学とか、同じことを教え続けています。だんだん飽きるんじゃないかと思うんですが、まったくそういうことはないんですね。毎年、相手が変わるから。同じようなところでみんなつまずくし、同じような間違い方をします。だから、こちらも次第に対応はうまくなっていくはずなんだけど、でもやっぱり相手は一人一人違うしね。同じ内容であっても、いつも新鮮な気分で授業をさせてもらっています。ただ、こちらが歳をとったせいか、むかしは大うけしていたようなものが、全然うけなくなってくるんですね。みんなも、先生が一生懸命やっているし、笑ってはいけないと思ってるのかなあ。それとも、単に、「あの人なにやってんのん」ってしらけてるのかなあ。けっこう、お腹も出て来てからだはきついけど、若いころと同じように、腰ふりダンスをしたり(半円の中に分割した半円を描いていく)、くるくる回りながら回ったり(地球の自転・公転)。水分子のダンス(水の状態変化)とかはこちらもだんだん恥ずかしくなってきて動きが小さくなっちゃうんですね。ふっきってやらないとうけないのはわかってるんだけど。で、うけると調子に乗って、もっともっとダイナミックな動きになるんだけどなあ。これ、舞台に出ている芸人さんとか役者さんとかもいっしょでしょうね。まあ、時代は変わって、みんなにとっても楽しいことはいろいろ増えているしね。もっと強い刺激がいるのかなあ。同じことばっかりしていてもダメなんだろうけど、でもね、人間の脳って、この数万年の間そうそう大きく変わってるわけでもなく、基本的に笑うポイントはいっしょだと思うんだけどなあ。これね、自分のネタを動画にとってどこかにアップしようかとか思ってるんだけど、どうかなあ。二進法指体操はすでにあげてますよ。って、最終回なのに、一体何の話をしているんだ!
 「共育」でしたね。みんないっしょに育っていくんです。育つっていうことはね、何か自分の中で変化がないといけないですね。今日の授業でみんな少しは変わったところがあるかな? 毎日、ちょっと考える時間をとるといいですね。今日は何ができるようになったのかな。何を新しく覚えたのかな。僕も何か新しく感じたこと、気付いたことはあるかな。日々そうやって振り返ってみるといいですね。レビューです。それをね、できれば誰かに伝えてみてね。リーチング手帳にメモするのでもいいかも知れない。自分の成長の記録ですね。みんなには、いつまでも学び続けてほしいし、いつまでも成長を続けてほしい。僕自身もそうありたいと思っています。
 もっとも、成長と言っても、何もどんどん成績が上がっていくことだけを意味しているわけではないですからね。これはね、だれかと比較してとかではなく、自分の中で何か変化があるということが大事なんだと思います。順位とか偏差値とかってね、どれだけ自分が努力して成長していても、周りが同じように成長していれば、変わらないんですよね。つらいんです。それでも、学校教育っていう環境の中にいる間は、どうしてもね、これがついてくる。なくそうという動きもあるけど、でもいまのような形式での受験による選抜がなくならない限り、そこから逃げてしまうわけにもいかない。ただ本来ね、学ぶっていうことは、他人と比べるようなものではなくてね、自分がどんなふうに変化していくかっていうことなんだと思います。そういうことを、僕はちゃんと見ていきたいと思います。みんながどういうふうに成長していくかを感じ取りたいと思います。数字だけを見て、相手をちゃんと見ないなんてことのないように。これ、お医者さんといっしょでしたね。そしてね、本当はね、医療も教育もそれでお金もうけを考えてはいけないんですね。病気が治りませんでした、だから治療費は全額お返しします、とはならないですしね。合格できませんでした、だから授業料はお返しします、ともできない。そういう状況の中でやっていることなので、ふつうのお商売のようにモノを売ってお金をもうけるというのとはちょっと違うんですね。(これは内田樹先生の受け売りです。)ついでに言うと、経済はもうそんなに成長しなくっていいと思います。いつまでも右肩上がりは無理です。そろそろちゃんと考えないと、みんなの次の次の世代くらいには、地球はとっても住みづらい星になっているかもしれません。もっとも、地球にとってはなんてこともないんですがね。
 さて、教育ってね、国家百年の計とか言って、政治の中でももっとも大切なことがらなんです。環境問題も含めて、しっかり子どもたちに伝え、教え、育てていかないことには、この国の未来はないですからね。教育哲学とか教育社会学とか臨床教育学とかって言って、専門的に教育をどうしていったらいいのか、そういうことを一生懸命考えている大学の先生たちがたくさんいます。もちろん文科省の人たちもね。そうして、10年ごとくらいで、少しずつ指導する内容とか、指導の仕方とか、良くしていこうとされています。人間って、なかなか新しいことに対応するのが苦手なので、昔の方が良かったなんて思うこともありますが、技術はどんどん進歩していますからね。使えるツールはどんどん使えばいいし、ZOOMなんかも一気に広まりましたしね。なんかね、教える内容も、やさしくしたり、難しくしたり、なんだかくるくる回りながら、それでも少しずついい方向に変化しているのではないかなあと思います。らせん階段を上るようにね。
 僕自身は、あと数年で、いまの仕事からは引退することになると思います。できれば、今度は、数字にこだわることなく、のびのびと、子どもでもいいし、学び直したい大人でもいいし、いろんな人たちと共に学び、共に育つことができればいいなあと思っています。それがいまのところの僕の夢です。(あっ、僕の夢は「こだわり本屋のオヤジ」でした。自分が今まで読んできた本を、全部一気に並べたいんだよねえ。みんなは見に来てくれるかな。お安くしときますよ。)
 さあ、来年度は、気楽に科学談義をしよう。サイエンスカフェってやつですね。またお付き合いください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?