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東京アダージョ-日本画家-佐藤土筆の奇妙な話

東京アダージョ-日本画家-佐藤土筆の奇妙な夢の話
その画家のアトリエの先には、アカンサスが咲いていた、それは、ギリシャ彫刻の文様にもあることを以前、伺っていた。
欧州から、大変なプロセスをへて、日本に持ち帰ったらしい・・・ただ、その時には、すでに、日本では日比谷公園には、それはあったらしいのだが・・
アトリエには、北向きの光が入る(1日を通して光量が変わらないからだ)、そして、南の庭には、そのアカンサスが咲いていた。

ある時、そのアトリエを訪れると、佐藤土筆先生が、私に奇妙な話をして下さった。

佐藤土筆が、もう、数ヶ月もかけて巨大な日本画を描いている時に、どうしても筆が進まない、、スランプの時がきた、どこから、どう描き足せば良いのか、数日、いや数週間、迷っていた。
そんなある日に、、
アトリエで身体を横にしていたら、、故郷の大分の風景を思い出した、、
しばらくすると、急に、師である川端龍子先生が、横にお見えになった。
ていねいに挨拶を交わしたが、ただ、もう、亡くなったはずだが・・・
「佐藤君、君、あそこに見える白い建物はなんだね」
「川端先生、あれは、病院です。」
・・・・
「君、病院は何をする所かね?」
「はぁ・・・手術などで病を治す所ですが・・」
そこで、川端龍子の方を見るともう、どこにもいない。
夢だったのだ。

迷うことなく、佐藤土筆は、その日本画を極めて大幅に手直しを始めたと言う。
その話をゆっくりした語調で、話してくれた。
人が亡くなっても、人は心の中に生きている、という事だろうか?

その当時の私は、仕事を辞めて、ハローワーク(職安)以外、空白の時間の時だった。そのすぐ後にネットでの検索も出来るようになったが、それでも通っていただろう、それは・・
まず、朝一番でハロワに行けば、今日は仕事をしっかり探したが無かったという自分自身への言い訳にもなっていた。
その時も、土筆先生から、これは、もう使わないからと、、いつものように、たくさんの画材をもらって帰ってきた・・・
そして、自宅の集合住宅のドアを開けると、小さい娘が、「おしごと、おつかれさま」と言って待っていた。

(註)佐藤土筆(Sato Tsukushi,1911-2004)
竹田市に生まれる。本名博。大分県師範学校(大分大学教育学部)卒業後、京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)に学ぶ。
在学中の昭和12年、第9回青龍社展に「覇王樹」が初入選。同校卒業後は上京し、川端龍子に師事した。
昭和21年、第18回青龍社展で「海幸」、同22年の第19回青龍社展で「魚礁」が続けて奨励賞を受賞。
同25年、社人に推挙される。
昭和41年川端龍子の死で青龍社が解散すると、同年、社人有志とともに東方美術協会を結成し、同会員として活躍した。
(引用-大分県立美術館 収蔵品検索システム)

山しぐる

Fig.山しぐる(c)佐藤土筆、大分県立美術館

アンコール1966

Fig.アンコール (c)佐藤土筆、大分県立美術館

晩秋1963

Fig.晩秋 (c)佐藤土筆、大分県立美術館

石楠花

Fig.石楠花 (c)佐藤土筆、大分県立美術館

東方美術協会の結成
年月:1966年06月
青竜社解散により所属構成員たちの動きは各方面から注目されていたが、社人中の有力な作家11名により東方美術協会が結成され、25日付をもって、創立宣言を発表した。旗あげ展は明春の予定。<創立委員>時田直善、富田保和、大塚達夫、渡辺不二根、度会伊良子、亀井玄兵衛、高山晴雄、佐々木邦彦、佐藤土筆、結城天童、水島裕。
#佐藤土筆 #川端龍子



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