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Louis Soutter:孤立した知性の最期の画(アウトサイダーアート)

Louis Soutter:孤立した知性の最期の画(アウトサイダーアート/アールブリュット
Louis Soutterは、ホスピスで、指の麻痺により、絵筆ではなく指で描いた絵は、孤立した最期の知性の世界かも知れない。
その孤立が、益々、性格を内向きにさせ、紙の上のインクとガッシュ(Gouache/不透明水彩)でその解放を見つけた。
やはり、アウトサイダーアート(アールブリュット)だろうか?

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Louis Soutter(public domain)

略歴-Louis Soutter
ルイ・ステー(ルイ・ステール/Louis Soutter, 1871 - 1941/スイス-アーティスト・ヴァイオリニスト)
1871年、モルジュ(Morges-スイス)に生まれる。その後、ローザンヌ大学(University of Lausanne/スイス)で工学部に所属していたが、ジュネーヴ大学で建築を学んだ。
また、ブリュッセル王立音楽院でヴァイオリンの名手となるが、帰国後、絵画を学ぶ。そのブリュッセル(ベルギー)にて、アールヌーボーや象徴主義など、当時の様式的な流れに接点を持ち、作品は、音楽、文学、そして、画業に傾倒するようになる。
その後、Soutterは、パリに留学して、ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens,1838-1921/フランスの彫刻家・画家)やジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン(Jean-Joseph Benjamin-Constant,1845-1902/フランスの画家)の指導を受けた。
その後、アメリカから留学していた女性と結婚し、1895年に渡米してコロラド大学の美術学部の学部長に就任する。
そこまでは、順調だ。

1903年に離婚して、アメリカから、スイスに戻るが、翌1904年に父親が亡くなったことで精神的に不安定になった。
1905年からローザンヌのオーケストラでヴァイオリン奏者として活動を行う。そして、1918年にはスイス・ロマンド管弦楽団にコンサートマスターとなる。
しかし、指揮者とそりが合わず退団し、映画館やカフェでヴァイオリンを演奏するようになる。
以前からの精神の不安定から浪費する、そして、Soutterは1922年には破産した。高価な趣味を持つ放浪者として認識されていたSoutterは、家族にとっても、負担だった。
1923年、施設(高齢者用ポスピス)に収容されることとなった。(精神病院ではない)
その施設は、バレーグ(Ballaigues)にあり、緑豊かな場所だ。

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Louis Soutter(public domain)

そこでは、生活費のためにヴァイオリンを手放し、以後は施設内で絵を描くようになった。
1927年からは、母方のいとこであるル・コルビュジエ(Le Corbusier,1887-1965/モダニズム建築の巨匠)から、1927年頃にのみSoutterの作品の評価を得た。概ね10年にわたる交流が続き、ル・コルビュジエは、Soutterの資料を持ち込み、作品の宣伝を行った。
1937年からは動脈硬化による関節の変形性関節症に悩まされていたステールは、指で絵を描き始め、踊っている人物を大きな紙に震える形として表現した。
Louis Soutterは、その晩年の孤立が、彼を内向きにさせたが、紙の上のインクとガッシュの解放を見つけたのだ。
1941年、そのバレーグの施設にて没。

(追記)ル・コルビュジエが従兄弟だからといって、Louis Soutterは、人に見せるためではなく、自身のために、震える指で、その生きている不条理のような世界を最期は描いているのだ。その「作品」は、アウトサイダーアートとしての重みもやはり感じるのだ。

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