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山の音楽の魅惑 -ブルックナー『交響曲第5番』について

【金曜日は音楽の日】
 
 
 
ブルックナーは、クラシックの中でも、不思議な立ち位置にいる作曲家な気がします。
 
「嫌いなわけではないけど何となく苦手」という方と、熱烈に好きというファンに分かれる感じがしています。つまり、はっきりと人を挑発するような要素はないのだけど、何かとっつきずらい感じがする。
 
苦手な方や、まだ聞いたことのない方には、私は『交響曲第5番』をお薦めしたいです。

『交響曲第4番(ロマンチック)』が、一般的にはどちらかというと知名度が高いですが、『第5番』はブルックナーの交響曲の中でも、すっきりとした構成で、完成度が非常に高い曲です。
 
この作品が好きになれば、大体の彼の作品が好きになる気がするのです。
 



 
第1楽章は、美しいセレナーデのような序奏から、中世のお城のファンファーレのような金管が高らかに鳴って進みます。

その後も、ビロードのような弦の旋律と澄んだ金管が美しく絡み合い、ティンパニの轟くラストまでゆったりと進みます。
 
第2楽章は、ピチカートと木管の不思議な呼応から始まると、森の中の闇のような、深い弦の旋律が響きます。甘さはなく、まるで教会のコラールのような、祈りの旋律です。
 
この親しみやすい旋律が、ほどけては結ぶかのように音楽は進み、段々と静かになって消えていきます。
 
第3楽章は、びいどろのような木管とザクザク刻む弦から始まって、金管の咆哮とワルツのような弦楽が交差する、一番華やかな章。
 
第4楽章は、静かに第1楽章のような雰囲気で始まり、下降するかのような弦の旋律やピチカート、金管の咆哮と今までの楽章が集約され、全てが浄化されるような圧倒的なクライマックスに至るのです。
 


 
私がお薦めしたい演奏は、何と言っても、名指揮者ギュンター・ヴァントがベルリン・フィルに客演した、1996年のRCA盤です。

ヴァントは、長年指揮した北ドイツ放送交響楽団や、異色の名指揮者チェリビダッケの率いたミュンヘン・フィル等でも名演を残していますが、この演奏は一味違います。
 
帝王カラヤンが長年君臨したベルリン・フィルの、つやつやとした金管と、重たい弦の響きが、ヴァントの明晰な指揮と素晴らしい化学変化を起こしています。
 
普段のヴァントは明晰すぎて、音楽が薄味に聞こえてしまう瞬間もあるのですが、ここでは明晰さに重厚感を付加されて、ブルックナーの敬虔で、彩り豊かな世界が立ち現れているのです。




 アントン・ブルックナーは、1824年、オーストリアの片田舎生まれ。小さい頃から音楽の才能を発揮しますが、片田舎で修道院や聖堂のオルガニストとして長年勤務します。

アントン・ブルックナー


 
それと同時に、作曲も続け、段々と名声も高まっていきます。何度も書き直し改訂しつつ、最終的には、多くの尊敬を集める大家となって、72歳の長寿をまっとうしました。
 
長年教会でオルガンを弾いていた経験が、彼の音楽の礎になっているのは間違いありません。威圧的でなく、どことなくまろやかで敬虔な金管の響きは、まさに教会のオルガンを思わせる荘重さを持っています。



ブルックナーの音楽を一言で表すと、「山の音楽」だと私は思っています。
 
その幽玄な空気が、山に立ち込める霧のような、霊的な感じがするだけではありません。
 
鳥の啼き声のような木管、深い弦が木霊のように響く感触。高らかな金管は日の出の朗らかさを表すよう。そして、弦の震えるような特徴的なトレモロは、まるで風にそよぐ木の葉のざわめきのようです。
 
雰囲気だけでなく、山と森を具体的に描写しているかのような進行が横溢しているのです。実際、『第4番 ロマンティック』には、ブルックナー自身が音楽の情景を説明した言葉が残っていたりします。


  
山の音楽の特徴とは何か。それは、究極的には一つの旋律が、絡み合って何度も変奏されて変化を繰り返していくことです。まるで、山に属しているあらゆる音が、一つの存在に集約していくかのように。
 
その「山の音楽度」が最高濃度の音楽家が、バッハであり、ワーグナーやブルックナーも挙げられるでしょう。

ベートーヴェンも入れていいのですが、あの終盤の高揚と爆発度合いは、山を吹っ飛ばす異様な何かがある気がするので、ちょっと留保をつけたいです(いつかそれについても書きたいところ)。


 
山の音楽と対照的な「海の音楽」を考えてみると、その特徴は、よりはっきりすると思います。

以前書いたような海の男ヴェルディ、或いは実際に交響詩『海』という曲を残している、ノルマンディー海岸育ちのドビュッシーを挙げましょう。

 
海の音楽の特徴は、多様な種類の旋律に溢れているところ。そして、旋律が歌っている時でも、ふわふわとそれを彩る音楽に満ちているところです。

ヴェルディのような男っぽいイメージの作曲家でも、よく聞くと、柔らかい旋律のオブリガードがそこかしこに流れています。
 
それは、海の街の特徴でもあるのでしょう。波音が絶えず響く場所。

波音は、同じように思えてそれは一つでなく、時間によって絶えず変化しては、人々のざわめきと溶け合って何度も寄せては帰ってくる音楽です。

彼らの音楽は、波音のように、決して消えることのない印象を与えます。

(ドビュッシーの交響詩『海』。波音のように寄せては返す音楽)


 
山の音楽家は、逆に沈黙を生かすのが非常に巧いように思えます。ブルックナーでも、『第5番』の第2楽章の終わりなど、本当に音が途切れて沈黙が訪れる感触があります。それゆえに、オルガンのように響く金管が効果的に思えます。
 
そして、金管がパワフルに響いた後に、その残響をまとって弦が乗ってきて、どこか煌めくような艶めかしい弦の響きになるのも、山の静寂や、遠い山びこを思わせます。
 
こうした発想は、「多様なざわめきとしての波音」が音楽のベースにある音楽家からは、なかなかでてこないように思えるのです。


アントン・ブルックナー肖像画

 
リヒャルト・シュトラウスが、なぜブルックナーの音楽はあんなに長いのかと聞かれて、あれが我が国の田舎者の音楽だからです、と答えたというエピソードがあります。

まあ、彼らしいと言えば彼らしい言葉ですが、興味深いことに、「山の音楽家」たちは、バッハにせよ、ワーグナーにせよ、同時代から既に、どこか田舎者で、時代遅れなイメージを持たれていました。


 
「山の音楽」は、武骨で、とっつきずらく、沈黙と絶えず隣り合わせの音楽でもあります。しかし、それは、山が持っているある種の崇高さ、霊性を、音楽的に創りあげようとした結果のようにも思えます。
 
そうした崇高さは、日常を超えた力を与えてくれる。だからこそ、古来から人々は山に惹かれ、バッハやワーグナーは、時代遅れと言われても敬意を表されてきたのでしょう。
 
ブルックナーの音楽も、そんな崇高さと霊性、敬虔さを併せ持ちます。そして、言葉なしで、そうした感覚を与えてくれる。その彩り豊かな山の世界を、是非一度探検いただければと思っています。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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