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【創作】油彩画『カサノヴァの夜』を求めて 第3話

【第3話】しるしは至るところに

 
※前回はこちら



 「これはどういうことでしょう」
 
「私にもよく分からない。ただ、この断片はずっと謎だったのだよ。手紙の切れ端だということは分かっても、何を表しているのかが、さっぱり分からなかった。ようやく、残りの切れ端が見つかった」
 
「この旗は?」
 
「ザクセン選帝侯領の旗だ。ここドレスデンにかつてあった」
 
「ハンナという女性は?」
 
「それは分からない」
 
私は、奇妙に符合しているポラロイド写真の熊と、ファクシミリの旗の画像を見比べました。

同じ時に描かれたはずの絵が引き裂かれ、全く違う場所で再会していることに、まるで、「時」が、奇妙に歪んだガラス細工の彫像になって、目の前に差し出されたような感触を受けました。

ザクセン選帝侯領の旗


 ザクセン選帝侯領は、神聖ローマ帝国の一部だった、領邦国家です。

クラウスが生まれた1733年に即位したフリードリヒ・アウグスト二世によって、隣国のポーランドとの間にポーランド継承戦争が起こります。その後も、七年戦争でプロイセンに攻め込まれたりするも、なんとか独立した地位を保ちます。
 
ナポレオンとプロイセンとの間での戦争では、ナポレオン側に着きます。1806年のアウステルリッツの会戦でのナポレオンの勝利で、神聖ローマ帝国が解体されると、ザクセン王国となりました。
 
熊がなぜ、ザクセンの旗を持っているのか、ということについては分からず、「最愛の者 ハンナ」という文字以外に、その手紙の断片にはなかったということです。

フランソワ=ジェラール
『アウステルリッツの戦い』


カストルプ氏は、白い髭を嬉しそうにわしゃわしゃと触りながら、お菓子屋さんの方を見て言いました。
 
「あのロゴをどう思う」
 
「非常にこの熊に似ていると思います」
 
「似ているどころではない。旗を斧に変えれば、ポーズも見た目も全く同じだ」
 
「確かに」
 
「だから、調べてみる価値はある」
 
「あの店をですか?」
 
「もちろん」
 
「クラウスに関連があるでしょうか」
 
「それを知るために調べるのだ」


 
そのお菓子屋さんは、かわいらしいマカロンやプリンを売っているお店でした。斧を持った熊は、お店のロゴで、熊の下に、「インゼルのメゾン 1763」という端正な文字がありました。
 
中は清潔で温もりのあるアンティーク調で、甘い焼き菓子の香りがふんわりと漂っています。奥には黄色のエプロンを着た女性がてきぱきと動いています。
 
カストルプ氏はその女性に話しかけると、私が驚いたことに、すぐに打ち解けて、二人とも笑顔になって、旧知の友人のように楽しそうに、お菓子や、彼女の子供がようやく歩き始めた話をしていました。
 
「このお店は長いのかね」
 
「ええ、10年になりますね。先代のインゼルさんが引退されて、私に継いでほしいとのことで」
 
「インゼルさんのご家族の方がこのお店を代々継いでいたのだね」
 
「そうです。何代目だったかしらねえ。でも、お子さんがいなくて、もう会社にお譲りになって。経営は会社で、私は雇われ店長をしているだけです」
 
「その初代の方は?」
 
「ハンナ=インゼルさん、っていうんですよ。何でも若い優秀なお菓子職人で、ザクセンの王様にも、献上していたそうですよ」


 
カストルプ氏は私に目配せしました。そして、店員さんに穏やかに尋ねます。
 
「そのハンナさんについて、何か資料はありますか?」
 
「あら、どういうことかしら」
 
「私は、このドレスデン生まれの画家、シュミット=クラウスの幻の絵画を追っている者です。もしかしたら、そのハンナさんが、クラウスに関係しているかもしれないのです」
 
店員さんは目を瞬いて、カストルプ氏と私の顔を見ていましたが、ちょっと待っててくださいね、と言うと、店の奥に行きました。
 
店員さんは、黄色のパンフレットのようなものを持ってきてくれました。それは、この「インゼルのメゾン」が200周年を迎えた時の記念にお店の歴史を綴った小冊子でした。
 
そこには、歴代の主人の写真や店、マカロンやプリンの写真と共に、初代のハンナ=インゼルの肖像画もありました。

くりっとした目とちょっと巻き髪になった金髪の利発そうな女性が、ターバンのような白い布をおでこに巻いて、こちらを見つめています。
 
「ごめんなさい、ハンナ=インゼルについては、このパンフレットのことくらいしか知らないのよ。もしかしたら、先代のクルト=インゼルさんなら、何かご存じかもしれない」
 
「そのインゼルさんにお伺いしてもいいでしょうか」
 
「大丈夫だと思うわ。ロルゲンシュタットのご実家にいると思う。すごくいい人だから、行けば喜ぶわ。そのパンフレットは差し上げます」


  
私とカストルプ氏は礼を言って、マカロンを一箱買って、黄色の紙袋と一緒に店を出ました。
 
「さて、ロルゲンシュタットとやらを調べないとな」
 
「どこかご存じないんですか?」
 
「知らんよ。大方田舎町だろう。初めて聞いた」
 
カストルプ氏は当時珍しかった携帯電話で、部下に、ロルゲンシュタットについてと、ドレスデンから最短で行けるルートを探すように指示しました。


 
その日は、ドレスデンのホテルに泊まることにしました。カストルプ氏は、ドレスデン美術館学芸員のロマーナ女史に電話して、「インゼルのメゾン」での収穫を伝えました。素晴らしくとろとろのアイスバインを夕食に食べ、部屋に引き上げると、カストルプ氏は、鞄から書類の束を出して言いました。
 
「素晴らしい手掛かりが入ったので、もう一度検討するとしようじゃないか」
 
「でも、『カサノヴァの夜』には近づいていない気が」
 
「いや、あの熊で、随分前に進んでおる。例えば、これを見たまえ」
 
それは、クラウスが、フラゴナールについて書いた、画商宛の手紙でした。

フラゴナール『ぶらんこ』
ウォレス・コレクション蔵

フラゴナールは、当代一の巨匠です。まあ、大変に軽薄な男ではありますが。彼に題材を選ぶ能力があればと思いますが、私が言っても、意味のないことでしょう。
 
でも、付き合って、気持ちのいい男ではあります。この前、彼は、私が持ってきたマカロンとリンゴのタルトを大いに気にいりました。私は、次も甘い菓子を持ってくることを何度も約束して別れました。


「この菓子は、あのハンナの店から取り寄せたものとは、考えられんかね。パンフレットの、創業時メニューを見給え。『フランス風マカロン』と『リンゴのタルト』があるではないか。

つまり、ハンナ=インゼルとクラウスは当時連絡を取り合っていたと考えられる。クラウスは25歳でフランス人と結婚しているから、これは、秘密の関係だったことは間違いないだろう。
 
この手紙は、1778年だ。このパンフレットには、開業から10年経った1773年に、パリに支店を開いたとある。それが、クラウスの紹介だった可能性もある」
 
「なるほど。しかし、憶測ではあります」
 
「そう、ただの憶測だ。構わんよ。何かが繋がっているという予感があるのだ」

カストルプ氏はそういうと、膝に手をあてて、穏やかな声で、ゆっくり、噛み締めるように続けました。

「私はドレスデンに、クラウスのことを調べに何度も来たことがある。しかし、こうしたことは、今まで全く分からなかった。
 
いいかね、彼の生誕の地を訪ねて、彼の書いた手紙を何度読んでも、彼の生涯に踏み込んでいるという感覚を得ることはできなかった。『ハンナ』なんてありきたりな名前で、何の推測も思い浮かばなかった。
 
だが、あの熊によって、符号が繋がったのだよ。あの菓子屋も、私はおそらく何度も目の前を歩いていただろう。だが、店のロゴがクラウスに関係していると、誰が気付くかね。

あの熊がなければ、私は彼について、お菓子屋を開いた秘密の恋人がいるとは分からなかった。

だからこそ、田舎町まで探しにいく必要がある。『カサノヴァの夜』がなくても。そこで、思いもがけない手がかりを見つける可能性だってある。
 
人生とはこのようなものだ。目の前に多くの選択肢や、雑多な情報がある。私たちは、それが自分の人生にとって、何の意味があるのかを全く理解していない。
 
だが、ある日突然、啓示のような何かを見つけ、自分にとって、大事なものが何かを知る。自分が何を掴もうとしていたのか、自分が何を目的としていたかを知るのだ。
 
勿論、それは他人を知る時も同じだ。

誰か君にとって大事な友人や恋人がいたとする。君は、その人と多くの時間を過ごし、理解したと思っている。だが、本当にその人のことを分かるには、この熊のような符号を手に入れる必要がある。
 
それは欲しいと思っても、手に入るものではないし、多くの時間を過ごしたから、手に入れられるものでもない。一生一緒にいても、理解し合えない場合だってある。

その代わり、全く予期せずに、急に手に入ることもある。君と私の関係のようにね」


 
私はその言葉に、とても納得させられました。同時に、今までそのようなことを考えたこともなかったので、急に自分の人生というものが、広大で、茫漠としたものに感じられ、軽い恐怖を覚えました。

同時に、カストルプ氏の奥さんのマリアさんのあの寂しげな顔も思い浮かんだのでした。



私は、パンフレットを手元に引き寄せました。
 
「そういえば、一つ気付いたことがあります」
 
「なんだね」
 
「この創業時のメニューの中にある、フィナンシェのイラスト。これは、ヴェネツィアのゴンドラを模したものと考えられませんか。『カサノヴァの夜』の舞台の」
 
「なるほど。確かに。そう考えると、ハンナ=インゼルがヴェネツィアに行ったことも考えられるな。もしかすると、それはクラウスも一緒で・・・」
 
その日私たちは、遅くまで、手紙を見直し、何か手がかりがないか探しました。


 
次の日、ホテルのロビーに出ると、カストルプ氏の部下のスーツを着た男の人が立っていました。彼の黒いベンツもホテルの前に止まっていて、ロルゲンシュタットへは車で行くことになりました。
 
ドレスデンから車で二時間ほどの、ロルゲンシュタットは、本当に小さな町でした。

町役場のようなところでインゼル氏について尋ねると、クルト=インゼルはもう亡くなっているが、弟のヴィルヘルムさんは存命とのことが分かりました。電話をしても、外出しているようです。私たちは、役場の人の了解を得て、その家に向かうことになりました。
 
町自体も森に囲まれているのですが、そこから更にはずれのインゼル氏の家は、森の中を描き分けていくようでした。昼間でも暗い鬱蒼とした森の中にどんどんと入るにつれ、憂鬱な気分になっていくようです。


 
着いた場所は、今にも崩れそうな、かやぶきの家でした。私とカストルプ氏は、車から出て、うねるような木々の絡まっている、その古ぼけた家を見ました。何か、お化け屋敷のような雰囲気が漂っています。

カストルプ氏の方を見ると、私と同じく、少し憂鬱な気分のようで、訪ねようか迷っているようです。
 
何かご用ですか
 
その時声がして、私は振り返りました。そこには、真っ白いワンピースを着た、長い金髪の少女が立っていたのでした。


【次回】

※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。


<過去話の一覧>

【第1話】はじまり


【第2話】おとぎの国の熊



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、マガジン「エッセイ」「レビュー・批評」「創作」「雑記・他」からご覧いただけます。

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