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【創作】舞踏会の千夜一夜物語【幻影堂書店にて】


 
※前回はこちら
 



光一は、カウンターに座って、色とりどりの本が宙に浮かぶ店内をぼうっと眺めていた。
 
光一が店の扉を開いた時、ノアははたきや雑巾を持ち、棚を忙しそうにかけ回っていた。
 
「今日は掃除と虫干しの日なんだ」
 
陽の差さないこの店内で、虫干しは一体どうするのだろうと思っていると、ノアは、一つ一つの本に指をさしてくるっと円を描く。すると、本が宙に舞って、ページがゆっくりと波のように繰られていった。
 
改めて、ここは「表の世界」とは違うのだと光一は思った。
 
所在ないのでカウンターのところに座ってもいいかと聞くと、あっさり許可を貰った。
 
カウンターの中は、特に変わったこともなく、文房具や帳簿が置いてある。

これらも全て、別に見ても構わないと言われたので、ここには重大なものは特にないのだろうと感じた。




森の中の蝶のように浮ぶ本の群れを見ていると、ふと一冊の紫の表紙の本が、物凄い勢いで、ページがめくられているのに気付いた。
 
本の背表紙の厚さに比べると、明らかに量が多く、無限に思えるほどページが次から次に出てくる。
 
「それは?」
 
「ああ、これは、バートン夫人の『舞踏会の千夜一夜物語』だ」
 
「つまり、『アラビアンナイト』?」
 
「そう、ではあるのだが、ちょっと複雑なものでね。

バートンは、『千夜一夜物語』の翻訳者として有名だ。バートン版と呼ばれるその本は、いわゆる好色本として有名になり、ある種のスタンダードな『千夜一夜物語』になった。
 
そんな彼の奥さんが、まだバートンと出会う前の、若い頃に書いた本だ」
 
「出会う前なのに、彼女も『千夜一夜物語』を書いていたのか」
 
「正確に言うと、別の物語を書いていて、後で名前を変えたんだ」




リチャード・フランシス・バートンは、1821年にイギリスに生まれた。オックスフォード大学を問題行動で退学し、インドに将校として、赴任した。

 

リチャード・フランシス・バートン


その地で語学を熱心に学び、後には中東にも赴任し、メッカに巡礼したり、ナイル川の源流を求めて冒険したりしている。1885年から出版された『千夜一夜物語』の翻訳は、「バートン版」として各国に広く翻訳されることとなった。

彼の妻、イザベルは、熱心なカトリック教徒であり、結婚した時に、夫に改宗を勧めたほどだった(バートンは拒否している)。


 

イザベル・バートン


シリアやパレスチナに旅行し、旅行記を出版し、夫の執筆を助けた。そして、夫の出版に合わせて、より家庭的で道徳的に編集し直した『千夜一夜物語』を出版している。
 
そしてバートンの死後、「夫の名誉を守る」ために、自身が夫の伝記に利用した部分以外の不道徳な部分を燃やし、バートンが翻訳していたアラブ世界の性愛経典『匂える園』の原稿も燃やしてしまった。
 
「それはひどいな」
 
「まあ、バートンの『翻訳』も、明らかにある種のステレオタイプにオリエンタルな、問題のある文章ではあるのだがね。正直言って、性風俗辞典のようなところがあるし。
 
で、イザベルは、公式には旅行記や、夫の伝記、自伝を残している。そんな彼女が出版しなかった、元々は、少女だった頃に書いた作品だ。読んで御覧」




貴族の少女、イザベルは、ロンドンの舞踏会に出て、社交界デビューする。

そこで、ジョージ・ハント大佐という美男子と出会う。彼は、インドやアラブを旅行して名を馳せた、勇敢な軍人だった。
 
惹かれ合った二人は、夜に密会するようになる。彼の話は、空飛ぶ絨毯、アラジンの魔法のランプ、勇敢なカリフ、ハールン・アル・ラシード等、大変面白く、イザベルはハントに夢中になる。彼の話を聞くロマンチックな夜は長く、何夜も続く。
 
しかし、ハントには婚約者がいた。二人は駆け落ちし、アラビアに逃げるが、その地で、イザベルは病気で亡くなる。ハントは、カリフの身を守るための戦争に巻き込まれ、命を落とす。

二人の遺灰は悠久のナイル川に撒かれた。




読み終えた光一は狐につままれたような気分だった。ノアを見ると、必死に笑いを堪えている。
 
「おかえりなさい。どう、感想は?」
 
「途中からテイストが変わって、『千夜一夜物語』の何というか、まがいものになってしまったような」
 
「そう、どうやら、出会いの冒頭と結末は、少女だった頃に書いたらしい。大佐の語りの部分は、夫の翻訳版『千夜一夜物語』を手伝っている時に、それを使って、書き足していったもののようだ。で、中間が大量に膨らんで、こんな長い話になった」
 
「なるほど、道理で。でも不思議と、悪い気がしないな。どうして、出版しなかったんだろう」
 
「うーん、そうだな。それはある意味、彼女の人生が物語を追い越してしまったからかもしれないね」


『千夜一夜物語』挿絵




「追い越した?」
 
「彼女の夫はインドからアラブにかけて大旅行した冒険家だ。それでいて、物語のハント大佐以上に博識で、破天荒で、精力的な男性だったわけで、現実が夢想を圧倒してしまっている。
 
そして、イザベル自身も、元々大変行動的な人間で、クリミア戦争で看護師になるために、ナイチンゲールの元に向かおうとするようなところもあった。
 
当初は、幼い日の夢想を継ぎ足そうとしていたけど、書いていくうちに、現実の夫や自分の人生を書いた方がよほど劇的だと思ったんじゃないかな。そこら辺に、これを出版しなかった理由があるのかもね」




「追い越した、ということは自分が書いた物語が、自分の人生をある程度まで予言していたのか」
 
「そうかもしれないし、彼女の夢想が彼女自身の人生を決めたのかもしれないね。もっとも、彼女の書いた「伝記」は、かなり彼女に都合のいいもので、資料性としてはかなり怪しいものなのだけど。夢想度合いは、後年でも変わらなかったということかな。
 
凝り固まったカトリック教徒だからこそ、ある種の抑圧を経て夢想が羽ばたいた。後年有名人になってしまったから、夫の原稿を焼いたのも含めて、あまりよくない方向に抑圧をかけてしまったのかもね」
 
「でも、この作品は良かったと思う。何というか、香りを感じたんだ」




光一は、現実に体験した以上の強い感覚にくらくらしていた。
 
舞踏会での、甘い薔薇の香水の香り。駆け落ちしたカルカッタの港での、異国の花々や新鮮なオレンジの甘酸っぱい香り。そんな様々な香りが、夜会の暖かな光や、美しく爽やかな太陽の光の下で、横溢していた。
 
「その香りは、中間部の『千夜一夜物語』の部分になると、途端に消えてしまうんだ」
 
「ああ、それは面白いね。きっと、想像力の問題なのだろう。自分に欠けている世界を妄想する時に、現実以上の夢に触れる人たちがいるからね」
 
「彼女が幼い頃触れたのは、もしかすると、人類普遍の夢だったんじゃないかな。これは『千夜一夜物語』で王に夜な夜な話を聞かせるシェヘラザードを、そのまま男女裏返しにしたものじゃないか」
 
「そう、『千夜一夜物語』が時代を超えて多くの人の琴線に触れるのは、まさに、そういう理由かもね。
 

古代ペルシアの王シャフリヤールに
物語を語るシェヘラザード
マルドリュス版(1826)の挿絵


世にも美しい人が、何夜も何夜も、自分の体験していない、遠い美しい異国の変わったお話をしてくれる。それは、多くの人が夢想するエキゾチックな快楽だ。性別も、国籍も、時代も関係なくね。今の自分と違う別の人生という快楽が。。。」
 
「君の姿を、あの本の中に見たよ」




光一の言葉に、ノアは、箒を動かしていた手を止めた。
 
「君は、イザベルの友人だった。イザベルの駆け落ちを止めようとして、説き伏せようとしていた。確かに君の顔だった。そんな君にイザベルが言う。『私はあの人の中に、別の人生を夢見ているの』。
 
今君の瞳が輝いている。右目はカルカッタの青空と同じ色で。左目は、出会った舞踏会の赤い薔薇の色だ。
 
君が僕に見せる物語は、君を構成している、何かのかけらのようだ。君もどこかで、別の人生を夢見ていたのか。それともあるいは」
 
光一は、青と赤と、乳白色が混じって渦巻くノアの瞳を見つめて続けた。
 
「君もまた、もう一人のシェヘラザードなのか?」
 
ノアは、箒を横の棚に立てかけた。
 
そして、人差し指を立てると、そっと唇にあてると、静かに微笑んだ。

その微笑みで、むせかえるような薔薇の香水の匂いを覚え、光一の意識が遠のいていく。

目を閉じるその刹那、ノアの赤い瞳から一筋の光のようなものが見えたように、光一には感じられた。






 
(続)


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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