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晴れやかな喜びの試み -ベートーヴェン『田園交響曲』の魅力


 
【金曜日は音楽の日】
 

ベートーヴェンの交響曲の中でも第六番『田園』は、不思議な魅力に溢れています。
 
第五番『運命』や、第九交響曲ほどポピュラーではないけど、滋味と喜びに満ち、そして彼の交響曲中の、異色作でもある。それゆえに美しい作品です。





『運命』は、ベートーヴェンが名付けた題名ではない通称ですが、第六番はベートーヴェン自らが『田園交響曲』と名付けています。それだけではなく、各楽章に、サブタイトルもつけています。
 
第一楽章は、『田舎に着いて、朗らかな気分が蘇る
 
細かく刻んだ穏やかな弦のメロディと、小鳥の啼き声のような木管が交錯します。いつものような金管の咆哮がないのが落ち着いた気分を醸します。
 
第二楽章は、『小川のほとりで
 
柔らかい靄のようなゆったりとした弦のメロディと、多彩な木管の落ち着いた絡みが、小川のせせらぎの晴れやかさを表すようです。
 
第三楽章は、『田舎の人々の楽しい集い
 
舞踊曲のように晴れやかなメロディに、田舎楽師の民族楽器の旋律を模したような木管も加わり、素朴で陽気な集会の雰囲気です。しかし、そんな空気はふっと途切れます。
 
第四楽章は『雷鳴、嵐
 
今までの楽しい雰囲気は消え、ティンパニの低い唸りと一緒に、おどろおどろしい雰囲気が醸されます。

ベートーヴェンの交響曲でお馴染みの金管の咆哮も、ようやく出てきて、楽しいお祭り中に嵐に襲われたその驚愕、自然の力の驚異を味わいます。
 
第五楽章は『牧人の歌:嵐のあとの喜びと感謝
 
先程迄の嵐が止み、ゆったりとした民謡のような旋律が、力いっぱいに奏でられます。

と言っても派手に盛り上がることなく、ゆったりとその雰囲気を崩さないまま、ホルンの美しい音色と共に、今度もまた、ふっと途切れるようにして、全楽章は終わります。




この作品は、1806年の夏、主治医の勧めで療養したハイリゲンシュタットという田舎の村で、完成されました。


 

『田園』や『運命』を作曲した頃の
ベートーヴェン


その村の印象を描いたものであり、第五番『運命』と並行して書かれていました。そのため、第五番の勝利に至るまでの華々しい作風と対照的な、穏やかな作風として語られることが多いようです。
 
しかしそれにしては、かなりの異色作です。

それまでの交響曲は、四楽章形式なのに、五楽章あり、しかも、第三楽章から第五楽章までは通しで演奏されます。彼自身がつけたタイトルも、サブタイトルも、今までの交響曲にはありません。
 
『田園交響曲』は、第五番との対比としてみるより、独自の実験作として見る方がいいように思えるのです。




そもそも、どうして、この作品だけ、五楽章もあるのでしょうか。
 
ハイドンやモーツァルトによって定式化された従来の四楽章形式の交響曲は大体次のように進みます。

第一楽章:華々しい主題を展開
第二楽章:ゆったりと抒情的
第三楽章:メヌエット形式でユーモラスに
第四楽章:再び華々しくフィナーレ


ベートーヴェンの場合、第三楽章をスケルツォとして勇壮に奏で、そのまま一気に第四楽章になだれ込んで、大爆発して熱狂のうちに終わる、というパターンが多いです。第五番『運命』や、第七番はその典型例です。
 
この形式を第六番にあてはめると、『小川のほとり』までは、従来の第二楽章までで表現できます。

しかし、「田舎の人が楽しく踊っているところに嵐が来て、去る」という情景は、明らかに残りの二楽章だけでは足りない、とベートーヴェンは判断したのでしょう。
 
ごく自然に、情景を楽章ごとに分けて、丁寧に紡ぐ。そうすると従来の「第三楽章で溜めて第四楽章で爆発」の展開も消え、嵐のあとのホッとした気分のまま、ほのぼのと終わるのです。




もし、これがハイドンやモーツァルト時代の作曲家であれば、従来の四楽章形式で処理していたでしょう。決められた形式の中で自分の味付けをすること、それが彼ら古典派の作品です。
 
しかし、ベートーヴェンは、青年期にフランス革命を経験し、ナポレオンが秩序を変えていく時代の申し子です。

自分が表したいものは、形式を壊してでも、それにふさわしい表現方法を手に入れる。
 
型にはまらない第六番は、そんな風通しのいい自由な作品であり、第九交響曲に繋がる、過激な実験作でもあるように思えます。




ちなみに、第六番は、1808年12月22日、ウィーンの劇場で初演されました。当日のプログラムは以下の通り。

交響曲第六番(初演)
アリア『ああ、裏切者』
ミサ曲ハ長調(前半抜粋)
ピアノ協奏曲第四番(初演)
 
(休憩)
 
交響曲第五番(初演)
ミサ曲ハ長調(後半抜粋)
ピアノ・合唱・管弦楽による幻想曲(初演)


名曲ぞろいで、しかも、最後の『合唱幻想曲』はベートーヴェン自身のピアノ即興演奏まで聴けたという、現代のファンなら垂涎のコンサートです。
 
しかし、どう考えても、量が多すぎる。
 
午後六時半開演で、四時間かかり、観客は暖房もない真冬の劇場で、寒さに震えながら、聞き続ける羽目になりました。

とある観客は回想で「どれほど良いものであっても、もうたくさんと思えることもある」と書いていましたが、それはそうでしょう。




しかし、このプログラムからは、改めてベートーヴェンの面白さが見えてきます。
 
オーケストラと合唱、ピアノ演奏が混然となって、うねるようにして、咆哮と静寂、瞑想と熱狂を繰り返していく。
 
古典派の秩序では抑えられていた、パワーの高鳴りを感じます。第六番の異色さもまた、そうした発露の一環として受け取ると、よりその色彩が増して聴こえると思います。




第六番『田園交響曲』で私が一番好きな演奏は、ブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮した、1958年の演奏です。



とにかく平明で明るく、テンポも速すぎず遅すぎず、「これしかない」と思わせる演奏です。ごく自然に美しさが染み込んできます。
 
クラシック・ファンにはお馴染みの、定番中の定番ですが、従来のLPやCDしか聞いたことがない方には、2019年発売の新規リマスターCDをお薦めします。
 
製作者自ら、従来のLPの再現でなく、マスターテープに忠実にリマスター・リミックスを行ったと明言しているこのエディション。
 
今までだと、薄味でさらさらと透明だった感触が、木のぬくもりがある、立体的な音響に変わっています。そうなることで、今までのニュアンスが豊かに、典雅な印象もある演奏になりました。
 
そうした典雅な晴れやかさは、元々ベートーヴェンが持っていた資質でしょう。「運命への勝利」や、「歓喜の歌」だけでない、そんな彼の実験的で多様な一面を、ぜひ体験いただければと思います。
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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