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「時」の真珠の魅惑-名作映画『ローラ』 について

【木曜日は映画の日】
 
 
 
時というものは、目に見えません。私たちが感じることができるのは、時の痕跡だけ。そして、それが驚くほどの美しさを見せることがあります。
 
そんな「時」の美しさをドラマで描き切った作品としてフランスのジャック・ドゥミ監督、1960年の映画『ローラ』を挙げたいと思います。

「ヌーヴェルヴァーグの真珠」とも言われるこの作品は、精巧かつ簡素な、素晴らしい「時」の結晶と呼びたくなる作品です。


『ローラ』
タイトルロールを演じる
アヌーク・エメ





物語の舞台は、ドゥミ自身の故郷のナント。アメリカの水兵たちが出入りするフランスの港町です。

憂鬱気味の男ローラン・カサールは、仕事をクビになりぶらぶらしていますが、ある日、幼馴染のセシル(現在の芸名はローラ)と再会します。
 
ローラは、一旗あげるために出て行った男、ミシェルを待ちながら、彼の子供を育てつつ、アメリカ水兵相手の踊り子として働いています。そして、今は若いアメリカ水兵フランキーに思いを寄せられています。
 
一方、カサールは、本屋でセシルという少女と、彼女の母親と出会います。そして、早熟なセシルは、フランキーとも出会って、外の世界に憧れ始めます。


カサール(左)とローラ(右)




まずこの作品の素晴らしさは、緊密なプロットです。この作品では、水商売をするローラと、学校に通う少女セシルが相似形を描いています。そして、この2人を繋ぐのが、カサールとフランキーです。まとめるとこうなります。
 

 ローラ:
 
・大人の女性
・母に反発して踊り子になった
・ミシェルに思いを寄せる
・カサールと偶然再会する
・カサールとフランキーに思いを寄せられる
・本名はセシル
 
 
セシル:
 
・少女
・母に反発して踊り子に憧れる
・フランキーに思いを寄せる
・カサールとフランキーに偶然出会う


随分図式的にも思えますが、人物がみんな生き生きしており、見ていると全く気になりません。それどころか、セシルの姿を見ることで、ローラの描かれない過去が想起されます。つまり、ローラの人生が重層化されているのです。


セシル(左)と彼女の母親(右)




ローラと、セシル、そして彼女たちの間に挟まるカサールとフランキーの4人の夢や欲望が、緊密に組み合わさり、メリーゴーランドのように回っていきます。
 
その夢とは、まだ見ない外の世界です。ローラにとってのミシェルであり、セシルにとっての、フランキー。カサールやフランキーにとってのローラとの生活。
 
それぞれの行動や偶然がメビウスの輪のように絡み合って、最終的に、ある者は欲望を叶え、ある者は失いつつ、外の世界を目指すことになります。素晴らしい脚本です。


フランキー(左)とローラ(右)




二つ目の素晴らしさは、プロット以外に、絶えず「時」が介入してくることです。この作品で人物は皆、時間を確認しています。
 
待ち合わせがあるの。約束の時間だ。早く帰らなきゃ。
 
誰もが何かに急き立てられるように、次の場所に歩いていく。その軽快なテンポによって、観客は思わぬ偶然も不自然に感じずに受け入れていきます。まるで、偶然の出会いという形で、時の恩恵を受けているようです。


息子を連れたローラと待ち合わせする
カサール(右)


 
そして、誰もがまだ見ぬ外の世界に焦がれ、急いでいるからこそ、中盤のとあるシーンでのスローモーションが、驚くほど美しく思えます。

物語上は何の必然性も説明もないのですが、それゆえこの瞬間「時よ止まれ」という感情が観客にも湧き起こってくるのです。




そんな「時」を感じさせながら、この舞台は、ほぼ全て真昼の陽光眩しいナントで、夜のシーンがありません。
 
殆どハレーションを起こす寸前のまばゆい光が、夢の中の都のような、無時間な感覚を与えています。

おそらくは低予算で夜の撮影ができなかった(夜間撮影は大量の照明等、お金がかかります)偶然だと思うのですが、その偶然も味方につけ、「時」を味わう最高の舞台ができあがったのです。




私が好きなのは、ナントの名所である19世紀にできたアーケード街、パサージュ・ポムレで、ローラとカサールが歩きながら語り合うシーンです。

2人とも少年少女時代を過ぎて、自分の生活と人生を考えなければならない。まだ残る身を焦がす夢や、諦念、他人への優しさを持って、生き続けること。そうした事柄が、光の差し込む、開かれた場所で語られるのです。


パサージュ・ポムレで語り合う
カサール(左)とローラ(右)




そして、三つ目の素晴らしさは、この作品には、どこかパッチワーク的な、勢いでできた手作りの魅力があることです。
 
例えば、ローラが酒場で歌って踊る場面は、曲が出来ていなかったため、監督ドゥミの夫人で、優れた映画監督のアニエス・ヴァルダが即興で詩を書き、ローラ役のアヌーク・エメに語らせながら踊らせています。
 
そして後から、生涯にわたってドゥミの盟友となる音楽家ミシェル・ルグランが、詩に音楽を付けて、別歌手で歌を被せます。それゆえ、喋りと歌の中間のような不思議な美しさのミュージカル場面になっています。

この経験が、後の、全編歌われる名作ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』に繋がります。


ローラが踊るシーン




他の映画との繋がりと言えば、セシルの母親は、ロベール・ブレッソンの名作『ブーローニュの森の貴婦人たち』で、踊り子を演じたエリナ・ラブルデッドであり、その映画のスチル写真が「若い頃の写真」として劇中に使われます。
 
カサールが「ポワカールは友達だった」と語るところは、ゴダールの『勝手にしやがれ』への言及です。ヌーヴェルヴァーグの仲間として、ゴダールはドゥミの友人でした。
 
そして、カサールと、ローラは、その後同じ登場人物、同じ俳優で、それぞれ『シェルブールの雨傘』、『モデル・ショップ』というドゥミの映画に再登場します。時を経た『ローラ』の世界の二人がどうなったのか、確かめるのもまた一興かと思います。
 
このように、まるで、自分の好きなものを貼り合わせるかのように、映画の外の世界の「時」をも取り込んだ映画なのです。




「ヌーヴェルヴァーグの真珠」とも言われるこの作品。それは、まさに真珠のようにまばゆい輝きの画面そのものの印象でもあるでしょう。
 
と同時に、真珠は、貝の中に異物が入って、それを包むようにして粘液が固まり、まばゆい輝きを放つ宝石です。
 
この作品ではその異物は、登場人物たちの外の世界に向かう夢想と欲望、そして、他の映画世界の「時」です。こうした外部の世界が流れ込んで、人物のドラマに凝固して、映画として純白の美しい輝きを発しています。
 
個人的にもオールタイムベストテンに入るこの映画。是非一度ご覧になっていただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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