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【創作】湖畔のトリスタンとイゾルテ【幻影堂書店にて】


※前回はこちら



 
 
光一が幻影堂書店の扉を開けると、ノアはカウンターで、分厚い本を読んでいた。
 
「あら、いらっしゃい」
 
ノアが微笑むと、光一は自分の手の甲が濡れていることに気づいた。扉を開けるまでの記憶はないが、「表の世界」は雨だったのだろうか、と思った。
 
「はい、どうぞ」
 
ノアがハンカチを出して、更に、グラスに入った冷たい紅茶も出してくれる。光一は、その甘い後味を味わいながら、何気なくハンカチを眺めた。




 
そこにはアルカイックなイラストの刺繡があった。黒い海に船が浮かび、赤いドレスを着た女性と、青い中世の服を着た男性が向かい合っている。
 
二人が持っている金色のグラス、そして、女性の豊かな金色の髪が、妖しく光っている。
 
「古い絵柄だね。僕が使っていいのかな」
 
「気にしないで。何のお話か分かる?」
 
「中世の騎士とお姫様のようだ」
 
「そう。トリスタンとイゾルテ。二人の悲恋の物語だよ」




騎士トリスタンは、自分が仕えるマルケ王の妃、イゾルテと一緒に、ある時誤って媚薬を飲んでしまい、愛し合うようになる。しかし、そのことが王にばれてしまい、二人は離れ離れになる。
 
「それからまあ、色々あって、トリスタンとイゾルテは二人とも死ぬことになる」
 
「端折り過ぎじゃないのか?」
 
「この話は異稿が多くてね。べディエの『トリスタン・イズー物語』では、最初のイゾルテは「金髪のイズー」と呼ばれ、離れ離れになった後、トリスタンは「白い手のイズー」と結婚するけど、前のイズーのことを忘れられない。代わりにはならないんだね。
 
ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルテ』では、白い手のイゾルテは出てこない。マルケ王の差し金で重傷を負ったトリスタンは、イゾルテを待つけど、ようやく再会できたときに、彼女の腕の中で息を引き取る。
 
その横にある紫の表紙の本をとってごらん。そこにも別のヴァージョンのお話が入っているよ」


『トリスタンとイゾルテ』
エドモンド・レイトン画


光一がその本のページを開くと、ふんわりと海の香りが漂ってきた。
 
トリスタンは、イゾルテと愛し合っていたが、身分違いであり、イゾルテは年老いたマルケ王のもとに嫁いだ。
 
トリスタンは有能な若者で、マルケ王の信頼を得たが、イゾルテのことが忘れられない。
 
ある時、トリスタンとイゾルテは、海の船の上で話しつつ、水を飲む。唇に触れた瞬間、トリスタンの脳裏に、前世の姿が見えた。




前世で二人は鹿で、大きな湖のほとりで水を飲んでいた。

二頭の鹿は、森の中をずっと一緒に走り回って愛し合っていた。そこに、若い王が狩りに現れ、二頭に弓を放った。
 
弓が当たる、と思った瞬間、まるで目が覚めたかのように、二人は顔を見合わせた。二人は同じ夢を見ていた。




そしてトリスタンとイゾルテは再び愛し合うようになり、密会を重ねたが、マルケ王にばれて捕まり、処刑された。
 
二人が処刑された日、雷が鳴り、空から大粒の雨が降り注ぐ。やがて降り続く雨は洪水となり、マルケ王の城や処刑台、王や家臣たちごと、全てを洗い流した。

その後そこには、大きな湖ができた。

雨の中、二頭の鹿が森から出てきて、ほとりで水を飲む。
 
大雨が段々と収まって、静かな小雨に変わる。光一が気付くと、雨音が響く幻影堂書店の店内だった。




ノアは、ポットからグラスに紅茶を注ぐと、静かに口を開く。
 
「二人が飲んだのは、媚薬とされているけど、元々二人は愛し合っていた、という説もある。トーマス・マンは『二人は水を飲んでもよかったのだ』と言っている。
 
二人が飲んだ行為は、以前から抱いていた愛情を蘇らせるものだ、とね。だが、この本みたいに、前世の因縁と繋がっているのは、ちょっと珍しい。面白い異本だね。
 
でも、それは決しておかしな発想でもない。私たちが誰かを愛するのは、今そこにいる存在とは違う反映をそこに見出して、現実以上の幻影を感じているからかもしれない。
 
そうした前世での因縁や結びつきが今の世界での愛に繋がる話は、世界中の神話にある。

それは、人間の愛というものが、そうした、目に見えないけど感じることができる感覚に基づいているという、ひとつの証かもしれないね」


『トリスタンとイゾルテ』
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス画




光一は、ノアの瞳を見つめた。赤い右目と青い左目。その色は、ハンカチに映るトリスタンとイゾルテの服と全く同じ色だった。

そして、先程の紫の本を読んだときに、光一の脳裏に浮かんだのは、そのハンカチの刺繡の二人だった。
 
「もし、その記憶を思い出せなかったら?」
 
「よくあること。私たち人間は、選択することで可能性を失っていく。現実は一つしかないからね。そんな相手に出会えないで人生を終えるかもしれない」




ノアはにやりと笑って付け加えた。
 
「ところで、媚薬というのも、神話に様々なバリエーションがあってね。つまり、神秘を飲み干すという行為だね。

それを飲み干したら、前とは同じではいられない。神秘に染まってもう戻れないということ。大抵は無防備な人が、何も知らずに飲んで、変わっていく」
 
突然、ノアの横に置かれた紅茶のグラスがきらきらと輝くように見えた。
 
「その飲み物に、何か入れたのか」
 
光一は、自分の声が思いもがけず震えていることに気づいた。
 
ノアは目を伏せると微笑んだ。
 
「ただの紅茶だよ。でも、もしかしたら神秘の薬かも知れない。君は何度もここに来て同じ行動を繰り返す。君はこの世界に染まっているのだから。
 
神秘はそうやってある日突然、君を捉える。君が望もうと望まなかろうとね。そこからどうやって生きていくかは君次第だ。
 
雨音が強くなってきたね。もしかしたら、戻る時間かも知れない。また別の日、このお店でお会いしましょう」






(続)


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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