見出し画像

少年たちは学ぶ -小説『最後の授業』、ヘッセ、安岡章太郎

【水曜日は文学の日】
 

 
名作は様々な年齢で受け取り方が変わると言われます。それだけでなく、教科書に載っているような、読みやすくなじみ深い作品でも、大人になると不思議な感触をもたらすことがあります。
 
このことで私がよく思い出すのは、フランスの作家、アルフォンス・ドーデの短編小説『最後の授業』です。名翻訳者桜田佐の訳で知られ、長いこと国語の教科書にも載っていた短編です(私は教科書では読んではいないのですが)。
 



アルフォンス・ドーデは、1840年生まれ。『最後の授業』は、1873年の短編集『月曜物語』に収録されています。


 
フランスとプロイセン(ドイツ)の境のアルザス地方に住む少年、フランツは学校嫌いです。ある日登校すると、教室の雰囲気がいつもと全く違って静まり返っています。
 
担任のアメル先生が、アルザスとロレーヌの学校でドイツ語しか教えてはいけなくなったというお達しが来たと告げます。そして、フランス語の最後の授業が始まります。



この作品の背景として、書かれる2年前の1871年、普仏戦争でフランスがプロイセンに敗北し、アルザス・ロレーヌ地方(ドイツ語だとエルザス・ロートリンゲン地方)がプロイセンに割譲されたという経緯があります。
 
プロイセンの同化政策により、フランス語をもう使えなくなるという哀感が、この作品を覆っているのですが、実のところ、そもそもアルザス地方では昔からドイツ系住民の割合が多く、フランス語に馴染みがなかった、というデータもあります。
 
ドーデは、控えめに言ってもフランスの愛国主義的な作家であり、ある種のプロパガンダとして、この作品を書いたことは間違いありません。
 
『月曜物語』には、他にも、玉突きに夢中になって戦いに負けてしまう将軍や、ナポレオン時代の栄光を忘れられない老人に、噓をついて戦争に勝っているように思いこませる話等あり、何というか、悪い意味で露骨な設定が目立ちます。

『最後の授業』も、そうした「戦争の敗北の悲哀を描くことで、愛国心に訴えるドラマ」です。
 
そして、「戦争の敗北と占領によって、自国の言語の尊さに気づく」というストーリーが、戦後日本の状態にマッチすることを意図して、国語の教科書に採用されたのも、間違いないでしょう。



 
とまあ、ここまでは、それこそ「教科書的」な事実なわけですが、少し年を取ってくると、そうした部分以外、妙に心に残るところもあります。
 
とりわけ、アメル先生。短い間ですが私も、塾講師として教壇に立っていたこともあり、年齢もフランツよりもアメル先生の方に近くなってきたので、どうしても肩入れして見てしまいます。
 
40年以上務め、非常に善良な人であることが伝わってくるこの老先生。彼が、うまくフランス語の暗誦ができないフランツに、静かに語り掛ける場面は、なかなか鬼気迫るものがあります。

フランツ、私は君をしかりません。充分、罰せられたはずです・・・そんなふうにね。
私たちは、毎日考えます。なーに、暇は充分ある、明日勉強しようって。そしてそのあげく、どうなったかお分かりでしょう

桜田佐訳

 
どこか少し胸が痛くなるのは、こんなアメル先生の本当の痛みを、フランツが感じることはできないからでしょう。
 
自分にとって本当に大切なものを手放す時の痛み。そして、無益と分かっていても止められない後悔。それは、誰もがいつかは必ず迎えるものです。

それゆえに、そんな痛みを知らない子供時代よりも、年をとってからこの小説を読んだ方が、胸に残ったりする気がします。




 
後悔をめぐる教科書に載っている小説として他に覚えているのは、ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』です。「心に残っている教科書の作品」でも、度々名前の挙がる、良く知られた作品です。
 
主人公の「僕」の回想で物語は始まります。「僕」は、少年時代、蝶取りに夢中になっています。

友人のエーミールが、珍しい蝶を手に入れたことを聞いて、彼の家に行くと、はずみでその蝶を盗んでしまいます。罪悪感から母に自白し、エーミールに謝罪に行きますが・・。
 
多分、日本で最も読まれている海外小説の一つなので、特に結末は記しません。しかし、エーミールが僕にかけた言葉を含めた、絶望的なまでの苦い結末であるのは、間違いありません。
 
世の中にはどんなに望んでも修復不可能なものがあるということ。それを知ることの、痛み。これもまた、誰もが成長する時に、味わうものでもあり、心に残る理由でしょう。




 
少年の後悔、取り返しのつかなさ、ということで更にもう一つ思い出すのは、安岡章太郎の短編『宿題』です。
 
舞台は戦前の日本、おそらくは1930年代。主人公の僕は、田舎から都会の小学校に引っ越してきて、どこか馴染めないでいます。勉強にもついていけず、夏休み、大量の宿題を抱えても、母親には隠し通しては怠けて、ようやく最終日に何とかでっちあげる始末。
 
二学期になると、宿題をやらずに立たされることにうんざりするようになり、段々と、親には学校に行くふりをして、さぼるようになります。墓地をさまよったりしても、落ち着かず、ある日久しぶりに学校に行くことになるのですが・・。




 
この作品のリアルさは、特段不良でも反抗的でもないのに、全部に退屈してドロップアウトしていく少年の心情を、生々しく追っているところにあります。

宿題を、夏休み最終日の夜中に母親とやるところなど、いつの時代も変わらないように思えて、少し苦笑してしまいます。学校をズル休みしても、心は晴れないのもまた、いつの世も変わりません。
 
そして、そんな彼にも、逃れられない瞬間は来てしまいます。次のような箇所は、その取り返しのつかない線を、いつの間にか超えてしまった、ある意味ぞっとする場面です。
 

母は沢村先生から「こんばん、もしあの子が正直に白状してしまわないようなら、あの子は一生嘘つきで終わる」と云われていたので、最大の努力でやさしくなりながら聞いた。
「学校へは毎日行ってる?」
僕は、そんなこととは知らず、無事を願ってただ、
「うん、行ってるよ毎日」とこたえた。
 


しかし、この作品は、その取り返しのつかなさを、刃のように少年に突きつけることはしません。そこがかえって、現実的とも言えます。現実は、悪い習慣を諭して直してくれる人ばかりではないのですから。

その代わりに、もう一つの現実が、徐々に侵入してきます。作品の舞台は、太平洋戦争の初期の頃であり、段々と少年の日常にも、その影が濃くなってくるのです。

取り返しのつかなさが、僕の中である意味「昇華」される、妄想とも生々しいとも言える、象徴的なラストをどう見るか、なかなか興味深いところです。



 
後悔と、取り返しのつかなさ。そうしたことを、生々しく体験する、3つの比較的知られた小説をご紹介しました。少年たちは、いずれも苦い思いを抱えながら、ある意味、学んで大人になります。それは、どれほど苦く、痛みを伴っても、重要な経験です。

そして、そうしたことは、後から思い出すと分かることであり、その意味で、年齢は大人になっても、これらの作品を読み返す意味はあるように思えるのです。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。

楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?