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書いて私を発見する -ジッドの小説『狭き門』の魅力


 
 
【水曜日は文学の日】
 
 
なぜ私たちは書くのか。勿論、人によって様々な理由があります。

しかし、書くという行為には、根本的に「信仰告白」のようなところがあって、自分が生きて信じているものを、何かの形にしたいという欲望が込められているのは、間違いありません。
 
フランスの小説家、アンドレ・ジッドの小説『狭き門』は、そうした信仰告白を、捻れた形で凝縮して小説にした名作であり、書かれている事柄は古くても、今とてもアクチュアルに読める作品に思えます。





語り手のジェロームが、回想する形式で始まります。ジェロームは、従姉のアリサに恋をして彼女を幸福にしたいと願います。
 
アリサは、強い抑圧と信仰、そしてジェロームを慕う妹ジュリエットへの配慮等により、ジェロームと親しくしつつ、同時に拒絶します。やがてそれは、一つの結末を招くことになります。。。




この作品には、アリサに象徴される、キリスト教的なモラルの偏狭さ、もっと言うと性の抑圧への批判があります。しかし、アリサの信仰というのは、かなりキリスト教本来の教義を逸脱しているようにも見えます。
 
そこには、不義を犯した彼女の母親に対する嫌悪と、母の淫蕩な血が自分に流れていることの恐怖感があるのは間違いないでしょう。彼女の信仰には、そうしたものを押さえつけるため、手段が目的になっているようなところがある。
 
そして、その矛盾が一気に噴出するのが、終盤の彼女の「日記」です。そこには、ジェロームから見た、どこか狂気じみた清廉さを持つアリサとは違う生々しい彼女の姿がある。それがあるゆえにアリサの像は、決して一面的ではない、人間らしい豊かさを持つことになります。



ジッドの文学は、告白のための手記を、バラバラにして、繋ぎ合わせたような感触があります。
 
書き手は、様々な形で自分の内面、過去を告白していきます。しかし、それは決して一面的な自分の思い込みだけでは終わらない。他者の手紙、日記が絶えず混入され、その混入により、語り手と読者は、ものごとの全く違う面を知ることになる。
 
『狭き門』の、アリサの手紙や日記、『田園交響楽』のジェルトリュードの手紙。勿論、『地の糧』のように陶酔的な語りの作品もありますが、そこには、どこか醒めて、自分を絶えず見直して語りを変えるような感覚があります。
 
そうした語りの混在が頂点に達したのが、『贋金つかい』であり、『贋金つかい』という小説を書く「作者」まで作中に登場し、事件があらゆる視点から語られていくのです。





なぜジッドの文学はそうした錯綜した語りになるのか。彼自身の人生が大きく関係しているのは、間違いありません。
 
アンドレ・ジッドは、1869年、パリ生まれ。従姉マドレーヌに恋をし、1890年にその思いを形にした『アンドレ・ワルテルの手記』を書き上げて、象徴主義の詩人マラルメから高く評価されます。

 

アンドレ・ジッド


しかし、そこに赤裸々に自分たちの関係が書かれていたことをみたマドレーヌは、結婚を拒絶。

その後、ジッドは、北アフリカを旅行し、同性愛行為を体験。自分を今まで束縛していたキリスト教の道徳へのある種の勝利を感じます。この体験は後に『地の糧』や『一粒の麦もし死なずば』で描かれることになります。
 
しかし、母親が死去し、精神的な危機に陥ると、ジッドはマドレーヌと結婚。二人は性的な交渉を持たない夫婦であり、奇妙な夫婦生活が続くことになります。




そう、『狭き門』は、結末を除けば、そのままマドレーヌ≒アリサとの関係を語った小説です。

光文社古典新訳文庫の、中条省平の解説によれば、アリサの母を含む作中の従姉兄弟もほぼ現実をモデルにしているとのこと。また、アリサの手紙は、マドレーヌの手紙を殆どそのまま引用しているようです。
 
それであるがゆえに、この作品は、大変興味深い姿を現します。なぜなら、そこまで現実のジッドとマドレーヌを描きながら、ここにはジェローム≒ジッドの同性愛的な嗜好が欠落しているからです。
 
しかし、それは描かれていないように見えて「アリサへの叶わない思慕」という形で隠されている。丁度、アリサが激しい欲望と嫌悪を隠してジェロームに接していたことが、ジェロームには気付かなくても、読者が読み返せば微かに感じられるように。
 
『狭き門』で直接描かれなかった同性愛が、別作品で描かれるように、ジッドは、自らを告白する手記を、何度も多様な面から見直し、形式を変えて書き直して、継ぎ足していきます。
 
彼自身の膨大な日記も残されていますし、ある種の矛盾を抱えながら、多面的に自己と他者を捉えて書き続けたことが分かるのです。






ジッドの「自己告白」文学は、発表時に一世を風靡した後、一時期はやや忘れられていました。宗教と性の抑圧との葛藤等、どうしても時代遅れに思えてしまう面は、確かにあります。
 
しかし、ジッドは卓越したストーリーテーラーでもあり、『法王庁の抜け穴』や『田園交響楽』は、その物語自体の面白さで、今でもぐいぐいと読ませます。

また、『地の糧』にインスパイアされた若い歌手の歌が人気だったりと、復権の兆しもあるようです。




そして、登場人物たちが、絶えず秘密や、行動と裏腹の秘められた思いを持ち、決して単一の語りで終わらずに、人物の本音と建前、告白とうわべの言葉が交錯するその文学は、決して古びていません。




なぜなら、私たちはみんな、秘密を抱えている生き物なのですから。
 
SNSやAIが出てきて、みんな自分について語っている、私たちの内面なんて光を当て尽くされた、と思い込んでも、私たちの奥には、誰にも言えない、自分自身ですら分からない部分が残っている。光が強くなればなるほどその闇は濃くなる。
 
だからこそ、私たちは「告白」しようとする。 「告白」とは「真実の自分」という名の新しい自分を創り直す行為に他なりません。




『狭き門』のアリサの衝動、『田園交響楽』のジェルトリュードの涙、『地の糧』や『背徳者』の恍惚のように、新しい自分自身、自分が本当に信じたいものは、書かれることによって、創られ、発見される。
 
自分が何者で、何を信じているかを発見し、自分をかたどっていくからこそ、書くことは信仰を告白するようなものなのでしょう。

その過程を描くゆえに、今こそジッドは読んで発見のある、面白い作家のように思えるのです。
 



お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。



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