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アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.1。 フェルナンダ・ヴィットゲンス。

1900年初頭に美術館の館長の座を得た、ミラノのフェルナンダ・ヴィットゲンス。ローマのパルマ・ブカレッリ。性格もアプローチも正反対の二人に共通するのは、アートへの愛情。

調べるほどに、素晴らしき女館長のことが頭から離れず、調べるほどに、忘れ去られてしまった功績を知り、多くの方に知って欲しいという気持ちから書き始めました。

戦時中は戦火のなかに身を賭して、イタリアの魂である芸術作品を守りぬき、戦後は女館長の革新的なアイデアで美術館は息を吹き返します。

彼女達はいったい誰で、どんな運命を生きたのでしょう。

ミラノ編とローマ編の二部作で紹介します。

*****

フェルナンダ・ヴィトゲンス(Fernanda Wittgens)。ミラノ生まれミラノ育ち。彼女の名は、約40年の時を経て、ようやく光に照らされることになる。

ミラノ観光を代表するレオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」。ミケランジェロ作「ロンダニーニのピエタ」。どちらも、ヴィトゲンスが大きく関わっている作品である。

順風満帆のフェルナンダ

フェルナンダ・ヴィットゲンス。1903年4月生まれ。父親がオーストリアの血を、母親がハンガリーの血を引いているので、ヴィットゲンスという姓を持つが、フェルナンダは、生粋のミラノ人である。

父親アドルフォはミラノの名門パリーニ高等学校で文学と哲学の教授をしている。7人の子供に恵まれたヴィットゲンス家では、週末になると家族全員で、ミラノの美術館巡りを楽しんでいた。

1910年に撮影された家族写真
参照:"Sono Fernanda Wittgens"

本物の素晴らしい作品を毎週のように鑑賞していた幼い頃の体験が、フェルナンダの運命に大きく関わるようになるのは当然であろう。

その父は、フェルナンダが7歳のときに他界してしまう。大黒柱を失っても、母親は、男女の隔たりなく自分の子供達に平等に教育を受けさせる。この母親のもとで、フェルナンダは知識を蓄え、女性という立場からの自分を考えるようになる。

高校で優秀な成績を収め、ミラノ科学文学アカデミーに入学。パオロ・ダンコーナ教授のもとで才覚を表し、文学部をトップクラスで卒業したあとは、ダンコーナ教授の勧めでミラノ大学の美術史を専攻するようになる。

卒論では『1800年代のイタリアの画家』を書き上げる。中世やルネッサンス時代に焦点を当てるのが当然とされていた1900年代初頭に、前世紀の芸術家を取り上げるのは、かなり珍しいテーマだった。

大学卒業後、フェルナンダほどの才能の持ち主なら、すぐに芸術関係の仕事に就けるであろうが、当時の女性は職種が限られていた。

情操教育の一環も兼ね、将来の賢妻良母を育てるために良しとされたのか、そのひとつが美術講師である。フェルナンダも当時の時流に迎合し、母校であるパリーニ高等学校で美術を教え始める。

その傍ら、卒論に選んだテーマの研究を深めるために、ある画家に自分と会ってくれるように手紙を出すが、待てど暮らせど音沙汰がない。無視されても挫けないのが、フェルナンダ・ヴィットゲンスである。

今度は、卒論委員会の一員として彼女の作品を賞賛した、ブレラ美術館の監督官マリオ・サルミに相談してみる。

マリオ・サルミはブレラ美術館の館長エットーレ・モディリアーニを紹介する。

初めの一歩

館長はフェルナンダの真っ直ぐな気性、豊富な知識、芸術に対する情熱を感じブレラ美術館の簡単な作業員として雇うことにする。

このときの日給は約2000円。教師とは比べ物にならない低賃金である。

だが、フェルナンダは天にも舞い上がる気持ちだった。

やっとこれで、大好きな芸術の世界に入れる。研究ができるわ。

フェルナンダが嬉々として仕事をする様子をみて、モディリアーニ館長は、ひとつの課題を与えてみる。

『フェルナンダ、君も良く知っているように、ミラノのあるロンバルディア地方には教会や小礼拝堂にフレスコ画が数多く残されている。損傷が激しいものもあり修復しなければならない。調べてくれないか。』

もちろん。仰せの通りに!

フェルナンダは週末返上で働き続け、ミラノ郊外にある教会や小礼拝堂へは、数日間滞在し、寝る間も惜しんで任務に励んだ。

この功績が認められ、1930年にイギリスで開催される『イタリア絵画展』の責任者に任命される。

主要なイタリア美術館の館長達と、貸す、貸さない、の押し問答を何度も繰り返した末、ようやくロンドンへ運ぶ作品が揃い、船に運び込む。

途中で荒波に遭遇し、珠玉の作品も自分達の命も「もはやこれまで。」という場面もあったが、2ヶ月ほどの開催中の来場者数は70万人以上を記録し、モディリアーニ館長ととも大成功を収める。

ウフィッツィ美術館所蔵
ボッティチェッリ作「ヴィーナス誕生」
参照:Wikipedia

ロンドンへ向かう途中で「ヴィーナス誕生」も海に沈んでいたかもしれない。無事にイタリアに戻ってこれてよかった。

このままトントン拍子に運べば、フェルナンダ・ヴィトゲンスの名が後世に残ることはなかったかもしれない。

次回へつづく。

アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 
記事リンク

第1話:フェルナンダ・ヴィットゲンス (本編)
https://note.com/artigiana_arte/n/n7e446f2b047e
第2話:女性館長の誕生
https://note.com/artigiana_arte/n/n4faf1851496f
第3話:守ること
https://note.com/artigiana_arte/n/na9d1aef78c84
第4話:服役
https://note.com/artigiana_arte/n/nb45b5d5eebbc
第5話:立て直し
https://note.com/artigiana_arte/n/n8e205967e9a9
第6話:レオナルドとミケランジェロ
https://note.com/artigiana_arte/n/nb9bccc414d4d
第7話:再生
https://note.com/artigiana_arte/n/n76377feeff15
第8話:足跡
https://note.com/artigiana_arte/n/n9d562c76e066


前回まで連載していた「解放されたアートと勇士たち。」の続編「女性の戦士たち」をお届けしています。

こちらの展示会に足を運んだのがきっかけです。まさか、自分でもこんなに長く書き続けるとは思ってもみませんでした。

参照:『ARTE LIBERATA 1937-1947』 
ローマのクイリナーレ宮殿の美術館で開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」。

ミラノでも残念ながら知っている人が少ない彼女の存在ですが、2023年1月にイタリアのテレビ局Raiでフェルナンダ・ヴィットゲンスの生涯が放映され、ようやく、彼女の一端が知られることになりました。イタリア在住の方でご覧になられた方もいるでしょう。

創作大賞にも応募しています。ぜひ応援をお願いします。

最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

参考資料:
"Sono Fernanda Wittgens" una vita per Brera  di Giovanna Ginex
Biblioteca d'Arte Skia出版

https://pinacotecabrera.org/

https://riviste.unimi.it/index.php/concorso/article/view/5108/5167

https://www.elle.com/it/magazine/storie-di-donne/a22513576/fernanda-wittgens-biografia/

音声&映像の参考資料
https://www.youtube.com/watch?v=A5Tjq8XgiMM
https://it.gariwo.net/storie-di-giusti-24456.html#wittgens
https://www.raiplaysound.it/audio/2023/03/Il-pescatore-di-perle-del-25032023-a7a6618f-a6fb-4404-9825-81f31b25264c.html
https://www.youtube.com/@UnioneFemminileNazionale/search?query=fernanda
https://www.youtube.com/watch?v=u9DwfvCvGHQ

参照表示のない写真は、わたしが撮影したものを掲載しています。

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