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アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.2。 女性館長の誕生。
ファシズム台頭
フェルナンダ・ヴィットゲンスが、ブレラ美術館でモディリアーニ館長の右腕として活動しはじめた1930年代。
この時代のイタリアは、ファシズムが台頭しており、ファシズムに反対する思想、政治姿勢、抵抗運動を行う反ファシズムは社会から除外される。
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演説するムッソリーニに集まった大衆
(ローマのヴェネツィア広場)
参照:L'immagine del duce
1935年。モディリアーニ館長は、反ファシズムを取る立場から館長の地位を突然解任され、人里離れた僻地の美術館へと移動させられる。
追い討ちをかけるように、1938年には人種法と呼ばれるレッジェ・ラッツィアーリ(Legge razziali)により、ユダヤ人であるモディリアーニ館長は、迫害を避け身を潜めることを余儀なくされる。
時は前後するが、1911年にフランスのルーブル美術館でレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」が盗まれる。
我が国(イタリア)の世界最高の作品を、フランスに盗まれたと思い込んでいたイタリア人が、美術館の掃除夫を装いイタリアへ持ち帰ったらしい。
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中央:モナリザを盗んだ
ヴィンチェンツォ・ペルージャ。
右:1911年9月のコリエレ新聞
参照:ブレラ美術館
「モナリザ」は2年後の1913年にフィレンツェで発見される。
ミラノに移され、フランスまで汽車で運んだのが、ブレラ美術館の館長エットーレ・モディリアーニである。
ちなみに「モナリザ」というホテルがフィレンツェにあるが、実際にモナリザが発見された邸宅だったので、そのままホテル名になっている。
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参照:ブレラ美術館
このエピソードからも、彼がどれだけ重要な地位に就いていたかわかるだろう。
迫害されている間も、フェルナンダは内密に書簡を交わし続ける。
モディリアーニは身を隠しながら芸術論文を執筆したが自分の名では発行ができない。そこでフェルナンダが名前を貸している。
戦後になり、執筆者がエットーレ・モディリアーニであることを発表し、改めて彼の名で再発行している。
モディリアーニと連絡を取り続け、自分の名前で彼の書籍を発行した事実が明るみに出れば、フェルナンダも反ファシズムとして弾圧を受けたかもしれない。
自分が正しいと判断したことに立ち向かう彼女の強さは「もし見つかったら」などという不安や弱さより、ずっと優っていた。
ヴェットゲンス館長の誕生
1940年に万を期して選考試験を受け、同年8月に正式にブレラ美術館の館長の座に就く。これは、イタリアで最も重要な美術館のひとつに、初めて女性館長が誕生したことを意味する。
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参照:fanpage
男性社会のなかで異例の抜擢である。戦争の不穏な空気が流れる状況にあり、ヴィットゲンス館長はどう立ち回るのであろうか。
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ローマの知識人が集まるサロン
当然のごとく、全員が男性。
Romani della Cisterna
参照:ViviCreativo
第二次世界大戦
1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦に参戦。
ブレラ美術館は、ルネッサンス期から20世紀にかけての、珠玉の作品を所蔵している。イタリアで重要な美術館のひとつである。
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参照:Mibact
1938年にジュゼッペ・ボッタイ文化政策大臣が、戦争勃発に先駆けて、芸術作品の強奪と戦争の被害から守るため、全国の美術館に、所蔵する作品を3つのグループに分けさせている。
館長に任命されたばかりのフェルナンダは、資金繰りに奔走し、昼夜なく働き続け、彼女が "最高傑作(capolavorissimi)" と呼んだ作品群を避難させる。
最高傑作にはマンテーニャ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ラファエロ、カラヴァッジョなどが選ばれ、中部イタリアのペルージャに移される。
現在でもミラノから車で5時間はかかる距離である。無事に運ばれたか、館長も気が気でなかったろう。
最高傑作以外の作品は、ミラノ銀行や、スフォルツェスコ城の地下に移される。
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木箱で作品を梱包し避難するところ
参照:Istituto LUCE
1942年10月。トリノとジェノヴァに次いで、ミラノでも初めて連合軍による爆撃を受け、ブレラ美術館に併設される図書館と宇宙観測所の屋根が焼け崩れ落ちてしまう。
動かせない作品の保護を強化し、動かせるものは可能な限り避難させなければならない。国からの指示も許可も、移動させるための車もない状況で、どうすればいいのか。早急に考えなければ。
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カノーヴァ作「ナポレオン像」
を戦争に向けて保護している
参照:Elle
翌年1943年2月の爆撃を受けミラノは更に傷つく。
ヴィットゲンス館長は、その頃、最も安全だとされていたマルケ州のカルペーニャ邸に移すことを決める。
ここは、マルケ州の美術館や芸術作品の責任者で美術史家のパスクアーレ・ロトンディが作品の避難場所として準備していたところである。
カルペーニャ邸には、すでにローマのボルゲーゼ美術館やバルベリーノ美術館から運ばれていた、ティツィアーノ、ベルニーニ、カノーヴァなどの作品も避難している。
決定から2ヶ月後。ようやく、車と資金が調達できた。ペルージャからカルペーニャ邸までは車で約2時間の距離である。
1943年4月21日。爆撃の音が鳴り響き、戦闘機が飛び交う戦時。ドイツ軍はイタリアの芸術作品を機会があれば自国へ運ぼうと虎視眈々と狙っている。
ヴィットゲンス館長は作品と運命をともにするため、ミラノからペルージャへ向かう。ペルージャで避難させていた作品をトラックに積み、自らトラックの助手席へ乗り込む。
山間をゆっくり走り、ようやくカルペーニャ邸が見えてきた。数時間に及ぶ移動のあと、87点あるすべての作品を避難させることに成功する。
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参照:Wikipedia
1943年8月。ミラノは連合軍により攻撃され、街中に爆弾が落とされる。
スカーラ劇場、王宮(Palazzo Reale)、最後の晩餐の描かれているサンタ・マリア・グラツィエ教会も爆撃を受け、ミラノは甚大な被害を被る。
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参照:LaRepubblica
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参照:Duomo di Milano
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参照:FB Milano sparita e da ricordare
当時のブレラ美術館の34部屋のうち、26部屋が瓦礫と化する。これは現在のブレラ美術館の地図である。
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家族や自分の身を守るだけで精一杯の戦時にあり、だれが美術館に展示されている作品を避難しようと考えつくだろうか。避難させなければならないという、考えにも及ばないかもしれない。
美術館の館長達は、自分たちの責任を全うすべく、身を賭して作品を守ったアートの戦士と言っても過言ではない。
ルーブル美術館をはじめとするフランスの至宝を守った、フランス・レジスタンスで歴史家にローズヴァラン(Rose Valland)という女性がいる。
戦時にあなたが取った行動はなんだったのでしょう。と聞かれ、彼女はこう答える。
世界の美を守りました。
ミラノで、フェルナンダ・ヴィットゲンス館長の行動がなければ、いまは姿なき作品がどれほど多いことだろう。
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フェルナンダには、作品を避難させてほっとするのも束の間、身を挺して守るべきものが、もうひとつあった。
次回につづく。
前回まで連載していた「解放されたアートと勇士たち。」の続編「女性の戦士たち」をお届けしています。
もとは、こちらの展示会に足を運んだのがきっかけです。まさか、自分でもこんなに長く書き続けるとは思ってもみませんでした。
参照:『ARTE LIBERATA 1937-1947』
ローマのクイリナーレ宮殿の美術館で開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」。
ミラノでも残念ながら知っている人が少ない彼女の存在ですが、2023年1月にイタリアのテレビ局Raiでフェルナンダ・ヴィットゲンスの物語が放映され、ようやく、彼女の一端が知られることになりました。イタリア在住の方でご覧になられた方もいるでしょう。
創作大賞にも応募しています。ぜひ応援をお願いします。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
参考資料:"Sono Fernanda Wittgens" una vita per Brera di Giovanna GinexBiblioteca d'Arte Skia出版
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