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アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.7。 再生
。

1950年にブレラ美術館は一般公開する。

スタッフが全然足りないわ。

1年をかけて美術館のスタッフを増員し、1951年に本格的に始動する。

市民のための美術館

ブレラを、知識人や上流階級に属する人達だけが足を運ぶ場所ではなく、市民が本物のアートに身近に触れられる場所にしたい。

まず初めにしたことは、アートに詳しいスタッフが訪問者に作品を説明するガイド付きツアー。羨ましいことに、館長自らも説明に当たっていた。

いまでこそ、免許を取得したガイドが美術館を案内するが、当時としては、革新的なアイデアだったことだろう。イタリアでは、1983年に
ようやく公式のガイド免許が誕生する。

参照:Elle

特に力を入れたのが、子供達への教育。幼いフェルナンダが家族と一緒に美術館巡りをしたように、子供のときに作品に触れる大切さを知っている彼女らしい企画である。

次いで、学校の教師、会社の社員、日雇作業員、職人、退職者、車椅子を利用している人達。それぞれにスタッフがついて作品を説明をする。

参照:"sono Fernanda Wittgens" Book

小学校や中学校の生徒達が見学するときは、美術館のスタッフではなく学校の教師が説明する。そのために、教師は前もってブレラ美術館で作品や歴史を勉強してもらい正確な知識をつけてもらう。その目的は、学校の外に出ても、クラスで授業を受けているような環境を作りたかったからである。

参照:Elle

このアクティビティは、日中は当然のこと、夜間や日曜日も行われていた。

ブレラの花々 (Fiori a Brera フィオーリ・ア・ブレラ)

現在、ミラノで4月に開始される家具の見本市「サローネ・デル・モービレ」の前身ともいえる、34回目を迎える大きな見本市が、1956年4月に開催される。

参照:milano citta stato

ヴィットゲンス館長にある考えが浮かんだ。

この機会を利用しない手はないわ。人が訪れるような企画を考えてみましょう。

そうして生まれたのが、Fiori a Brera フィオーリ・ア・ブレラ。

参照:Bottega Brera

見本市の開催時期に、ブレラ美術館は花々で埋めつくされる。

おそらく、国立の美術館がプライベートの会社とコラボレーションをする、初めての企画だったであろう。プライベート会社とは、1865年創立の老舗の百貨店リナシェンテ。いまでもイタリアを代表する百貨店で全国展開をしている。ミラノの本店がブレラ美術館と組み、グラフィック広告やデザインを担当する。

ドゥオーモ脇に建つ本店リナシェンテのショーウインドゥには、ヴィットゲンス館長のアイデアで、フランチェスコ・アルバーニ作「Danza degli amorini(キューピッドのダンス)」を目立つように飾り、美術館へ訪れるプロモーションに使った。

参照:Wikipedia

開催は1週間。日中だけでなく夜間拝観も実施し、料金はただ。

館内の中庭も大階段も、もちろん、各部屋も、それぞれの色調に合わせた花々で飾り付けられる。

1週間の訪問客数は18万人!日曜日だけで4万人を記録した。

参照:Elle

ミラノ市民に無料で開放した素晴らしきスペクタクル。と絶賛される。

ウィットゲンス館長は、日記にこう書き残している。

美術館の館長という国家公務員をせずに、広告かジャーナリズムを仕事にしていたら、今頃は裕福な暮らしをしているはずだわ。

フィオーリ・ア・ブレラは、いままで寝ていた市民を起こしてしまったみたい。まったくアートに興味のない色々な人達が訪れてくれたわ。

開館前の9時30分から閉館の19時までブレラ通りは人だかりで真っ黒。スタッフもわたしも本当に疲れたけど、すごく充実感に満ちている。

ヴェネツィア国際映画祭の前身である展示会では、同年の1956年に「museo vivente (生きた美術館)」というタイトルでパオロ・ハーシュ監督が、そのときの様子をドキュメンタリーとして発表。ブレラ美術館とヴィットゲンス館長が大きく評価されることになる。

これを機に、館内でのファッションショー、欧州写真展、国際会議への場所の提供など、ヴィットゲンス館長は留まることを知らずに、次から次へと企画を生み出していく。

ピカソのゲルニカ

時代は前後するが、1953年にピカソ展が開催された。春にローマで開催されたのと同じコレクションが、秋にはミラノに移動しての展示である。

ピカソの展示会は話題性があるが、ローマとまったく同じコレクションを発表するのでは、インパクトが弱い。

その頃、ヴィットゲンス館長の隣では、昔の彼女がモディリアーニ館長の元で活動をしていたときのように、若きフランコ・ルッソーリが控えていた。

なにか、ほかにピカソの作品を展示できないか。

ふたりは、頭を突き合わせて検討している。

1943年にミラノが連合軍の集中砲火を浴びてから10年。象徴するような絵が欲しい。

ニューヨークのMoMA(モマ)に展示しているゲルニカを持ってこれればなぁ。

ピカソは、ゲルニカを欧州に持っていけば、フランコ体制下のスペインに絵を持ち去られるこをと恐れ、極度に嫌がっている。

ここでひとりの人物が登場する。画家のアッティリオ・ロッシ。1939年にアルゼンチンに住んでおり、チリの詩人で政治家でもあり、のちにノーベル文学賞を受賞するパブロ・ネルーダとともに、スペイン内戦で苦しむスペインの芸術家や知識人を、ラテンアメリアへ呼び寄せる活動をしていた。

パブロ・ピカソとは、そのときからの知り合いだ。1950年にアッティリオはミラノへ戻り、ヴィットゲンス館長とルッソーリの元を訪れる。

わたしが、パブロとの間に入り、ゲルニカをミラノに持って来れるか交渉してみましょう。

ピカソが当時住んでいたフランスのヴァロリスへ飛ぶ。

たわいのない会話をしばし続けたあと、単刀直入に聞く。

ミラノで開催されるあなたの展示会に、ゲルニカを加えたい。展示する予定の場所もすでに決めています。王宮のカリアティディの間です。

戦後、多くの建造物が修復し再建したが、カリアティディの間は、1943年の空襲で被害を受けた傷跡をいまもそのまま残している。

参照:Palazzo Reale Milano
参照:Palazzo Reale Milano

アッティリオは、「カリアティディの間」にゲルニカを展示することで、戦争の恐ろしさ悲惨さを、表現したいと考えていた。

ピカソが興味を示してきた。

1953年。ミラノでピカソ展が開催された3週間後に、ゲルニカはミラノに運ばれてきた。3ヶ月の展示期間のうちの1ヶ月間だけゲルニカが展示されるにも関わらず、大反響を収めた。

参照:ArtsShapes

ピカソはゲルニカだけでなく、ほかにも作品を提供してくれ、ローマでの展示数は248点だったが、ミラノでは329点が展示される。

次回、ミラノ編の最終回をお届けします。

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