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違う文化に触れて救われること

国際交流が好きな人がいる。
そういう人を揶揄する人もいる。

確かに、自身のアイデンティティも無いような、もろに海外かぶれ、みたいな人と話していると
主体性がない人だなあと感じることもあるが。
国際交流って、結構素晴らしいなと思う。

学生時代、英語が苦手だった私にとって、国際交流なんて無関係なものだった。
ジャニオタだし、日本のことだけ楽しめりゃいいやー、だった。
だが、いとこの結婚式で初めて海外に行った時、(当たり前だが)自分には知らない世界がたくさんあるのだと衝撃を受けた。
その数年後にKpopにハマったこともあり、国際交流を積極的に行うようになった。
アプリで日本在住の外国人と出会ったり(危険に遭遇しないよう慎重に)、同じアイドルを好きな外国人の友人を作るような
小規模なものだったが、とても楽しかった。
大げさな交流をしていたわけじゃない。
大げさな目的があったわけじゃない。
ただ、とにかく、違う文化の人と話すのって興味深いなと感じていた。


よく、学生が留学をする、という話の際
留学なんて意味がないだのなんだのイチャモンをつけたがる人がいるが
個人的には、違う文化圏で生活することや違う文化を受け入れたり、受け入れられなくて悩んだりすることそのものが
経験として十分に意味があると思っている。
もちろん、外国語を仕事にできる人はつくづく尊敬するし、大尊敬するし、大大大尊敬するのだが
留学経験を実際の就職に活かせなくても、留学中の経験ってこれから多様性を一層求められる世の中において
とても良い経験だと思うんだよな。

謙遜のつもりで使っていた「私なんか」

韓国アイドルを追っかけていた際、私は推しと話したい!の一心で韓国語の勉強を始めた。
4年ほど勉強した。
結構まじめに勉強していたので、ファンレターを書いたり、簡単な会話なら余裕のよっちゃんイカレベルにはなった。
(基本、オタク的な会話しかできなかったが)
会社勤めだったので留学はしなかったが、韓国人の女性の先生とのやりとりで(プライベート含め)会話しまくったり
韓国にもたくさん行くようにしていた。
最終的には勉強からはフェードアウトしてしまったのだが
勉強以外で、心に残っている先生の言葉がある。

―――――― 当時から私はこんな感じで文章を書くのが好きで、アメブロかなんかに日記を書いていた。
それを先生が読んでくれて、感想をくれたのだが第一声が、
「なんで日本人って、私なんか、ってよく言うの?」
だった。
読んでくれた日記は周囲から結構好評だったので、褒められるかなあなんて思っていたら
予想と全然違うところからボールが飛んできた。
日記の内容は特に自分を卑下した内容などではなく、ちょっとした世間話をエッセイ風にしたものだった。
そう、卑下した内容ではなかったので「私なんか」という言葉を使っている意識がなかった。
確かに読み返すと、使っていた。
多分、深い意味もなくなんとなく謙遜的に「私なんか」と用いる癖がついていたのだろう。
そしてそれを読んだ日本人の友人たちは誰もそれを指摘しなかった。
きっと、気にならなかったのだろう。

指摘した韓国人が正しいとか、そういう話ではない。
ただ、意味もなく「私なんか」なんて書かなくてもいいのか、となんだかスッとその言葉を受け入れられたのだ。

「“私”を“私なんか”と書く感覚がない人」から指摘されたことが興味深かった。


アメリカ人に言われた「なぜ家で介護をするの?」

アメリカの男性と親しくしていた時期がだーいぶ昔にあるのだが
その際も驚いたというか、心を緩めてくれた言葉があった。

私の家は拡大家族+親戚も同居していたちょっと複雑な家族構成だったのだが
祖父母が超高齢になった頃、二人の介護が私の家族の大きな負担になっていた。
同居していた親戚も他の親戚も逃げるように去っていってしまって、私たち家族だけが二人を看ていた。
(介護を負担と書くことを不快に感じるかもしれないが、祖父母のことは愛していたし、逝去した今でも愛している。
どの親戚よりもうちの家族が一番愛していたと思うが、一番つらい思いもしたと思っているのでこればっかりは許してほしい。)

当時私はブラック企業勤めで毎日がクタクタだった。
その上、家に帰れば認知症の祖父母。
娘(私の母)を何故か敵扱いして暴力を振るう祖母、突然近所を歩き始める祖父。
なだめたり、追いかけたり、ご近所さんに謝ったり。
メンタルはいつもギリギリだった。

例のアメリカ男性は私の勤めているブラック企業の有様にも衝撃を受けていたが(日本人働きすぎや言うて)
家族で超高齢祖父母を看ている事実にも驚愕していた。

疲れ切っている私に、優しい言葉をかけるだとかそういうこと以前に
「てか、何で日本ってそんなに家族で問題を背負わなきゃいかんの?」
と、超素朴な質問っス!という顔で言ってきたのだ。

疲れているだろ?癒してあげるよ、とかじゃない。
君はよく頑張ってるよ、とかじゃない。
何でそんななんでもかんでも家族がやらなあかんの?だった。

その言葉をすぐさま、母に伝えた。
我が家はお金の許す範囲で施設をどんどん利用していくことを決めた。
介護経験のない人たちに冷たいと言われようが、彼の言葉が心を強くさせてくれた。

結局、そのアメリカ男性とは価値観の違いや文化の違いでサヨウナラした。(この記事内容と矛盾しててスマヌなんだが)
が、あの時、優しい言葉よりも先に素朴な疑問を投げかけてくれたことはこの先も必要な時に思い出したいと思う。


国際夫婦動画で見た楽々ミルク作り器(名前知らん)

これは私の経験ではないのだが、以前、海外出身の奥様と結婚された旦那様のYouTubeを見ていた時に
子育てグッズ紹介という動画を発見した。
子供のいない私だが、なんとなく見てみようと軽い気持ちで見た。

子持ちの友人宅でも見かけるグッズもたくさん出てきたが、まったく見たことのなかったグッズがあった。
お湯とミルクの粉をセットすると設定温度でミルクを作ってくれる機械だった。
日本人夫さんは「海外では普及しているのに日本ではそこまで普及していない。」と言っていた。
また、「日本は苦労してナンボみたいなところがあるから、家事や子育てを楽にできるものを敬遠する人がいるよね」(ニュアンス)とも言っていた。

これ、個人的に大共感だった。

私は日本が大好きだし、日本人で良かったと思っている。
何より日本語が大好き。
日本文化最高。
そう思っている。

もっと言うと、働いている時は、頑張ってナンボ、無理してナンボ、苦労してナンボ、私頑張ってます感めっちゃ出しちゃう系OLだった。(そして、鬱になる)

だが、上記に挙げたような海外の方の発言や日本には普及しない負担を減らすグッズの存在に触れ
考え方が変わったり、気持ちを緩めてもらえた。

前述の日本人夫さんが言う通り、日本人は苦労してナンボみたいな考え方が未だに強いよね。
出産だって、痛みを経験してナンボ、「無痛分娩なんかで産んだら子供に愛情を持てなくて虐待するだろう」という意見を
令和3年、2022年に見て、ひっくり返った。
(無痛分娩の安全性云々、日本で普及しづらい医療的な事情は存じ上げていますがここでのテーマはそこではないのでご了承ください)
日本は素晴らしいが、日本は狭い。
少なからず私は、日本的な考え方に押しつぶされる経験がいくらかあった。

違う文化や違う考え方に触れることってものすごく人生の色味を増やしてくれることだと思う。
日本の考え方が悪いから、他国の考え方を受け入れろということじゃない。

他国の考え方で受け入れ難い考え方ももちろんある。


ただ、自分の周囲の言葉だけで苦しくなったり、何が正しいかわからなくなったり、自分を責めるようなことがあったり・・・・
そんな時に、違う文化圏の人の言葉を聞いて「あ、そっちにも道ってあったんだ!」と考えられるだけで心が広がる。

私の小規模な交流において、それらの経験は財産になった。

まあ、何が言いたいかっていうと休んでいた韓国語の勉強をまた始めたよって話。
英語もやりたいけど、少しずつやっていきたい(これはだいぶ努力が必要)。


いずれは自分の書いているこういう文章を外国語でも書いて
海外のサイト(もちろんちゃんと調べて安全なところ)に投稿してみたいなと思っている。
私が他国の方の言葉に救われたように、私の言葉が海を越えた場所に住む誰かの心に届いたらいいななんて
思ったりしている。

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