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my select50 vol.15-1「Chanoyu-Tea Ceremony」

my select50の第15回目は「茶の湯」です。
文章にしようか悩んだテーマですが、候補の中でどう考えても入るなと思い、思い切って書くことにしました。

日本の「器(うつわ)・焼き物」に興味をもってから3年。
当然、器の頂点の一角を占める茶器・茶道具にも深く傾倒し、そこから必然的に「茶の湯」の世界にも最近は触れはじめています。

私のインスタグラムやFacebookの投稿でも大部分を占めていますので、ご紹介させていただきます。

一つ前置きさせていただきますが、私は茶道の先生ではありません。
従って、いわゆるお作法には精通してはいないでご容赦ください。

私は、子供の頃からファションを好きになり、そこから現在に至るまで、建築や美術品などとにかく「美しい物」に惹かれてきました。
そして、最近は「器」の良さに気づき、そして傾倒し、結果としてお茶碗を中心とした陶器を扱うお茶を好きになりました。

非常に遠回りな感じです笑

この章は、カッコよく言うと、プロではない、「市井の茶人」の個人的見解として受け止めて頂ければ幸いです。

茶器・茶道具の中でも主役といえば茶碗
その存在を「宇宙」と例える人もいる
一度引き込まれると危ない代物でもある
井戸茶碗/細川護光

まず、「茶の湯」という呼び方と「茶道」という呼び方。
一般的には茶道の方が皆さんに認識されていると思います。

内容は、はっきり言って同義語です笑
※最近は茶の湯というフレーズも美術館の展覧会や個人で使っているケースが増えています。

どちらも、亭主がお抹茶を点てて客人をもてなすことをさします。

京都国立博物館で開催された
「茶の湯」の展覧会
元々は朝鮮半島で拾った雑器が
様々な経緯を経て「国宝」に指定されたり
するのも茶の湯の面白さです。

まずは、簡単に歴史から。

茶の湯はご存じのとおり、室町時代くらいから始まり、織田信長や豊臣秀吉の庇護により桃山時代に一気に開花します。
そして、秀吉の筆頭茶頭(茶の湯をもって主君に仕える職)として仕えた千利休により、一大芸術として確立されます。
利休の死後は、利休の弟子や子孫が、利休の教えをもとに様々な流儀をたてて、現在に至るといった感じでしょうか。

利休存命時くらいまでは茶道は「茶湯(茶の湯)」などと言われ、お作法なども今の流儀などなく、所作が美しく理にかなっていれば比較的自由だったと言います。

その後、茶の湯は江戸幕府の儀礼などにも正式に取り入れられ、武士にとって必要な嗜みとなりました。平和な世の中になるにつれて、様々な物が制度化されていくんですね。
この頃から茶の湯は「茶道」と言われるようになったと言います。
たしかに、一つの流儀を極めるという点ではまさに「道」であり、柔道や剣道にも通じるものがあるからでしょう。

自宅の雪見障子から見える茶庭
以前、紹介した谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の世界も
茶の湯に通じるものがあります。

主だった流儀といえば、まず三千家。利休の養子であり娘婿である千少庵の子、千宗旦の系統から三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)が出ています。そして今もそれぞれ利休の子孫が脈々と守っています。

他には片桐石見守貞昌から始まる石州流。利休の弟子筋の大名になります。
片桐石見守貞昌は、秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である片桐且元の甥にあたる大名茶人です。4代将軍徳川家綱の「茶の湯指南役(将軍のお茶の家庭教師)」となったことで、江戸時代を通じて石州流が幕府の茶道として広がっていくことになります。

次に遠州流。これはご存じの方も多いのではないでしょうか。
小堀遠江守政一から始まる流儀です。利休の高弟で、利休なきあとの茶の湯界で一世を風靡した古田織部の弟子になります。
利休が提唱した質素で内省的な「わび・さび」の境地から、古田織部のファッショナブルな世界を経て、小堀遠州の独特の美意識を加えた「綺麗さび」と呼ばれる茶風を確立しました。これも平和な時代の茶の湯ですね。
また、小堀遠州も大名であり、幕府の作事奉行としての活躍も有名なところです。
お城や作庭など小堀遠州の作品は今でも非常に高い評価を得ています。
私も遠州作の庭園や茶室などたくさん見てきましたが、利休の流れをくんでいるとはいえ、その好みや考え方は明らかに違うものだと感じます。

お茶碗といえば樂茶碗
こちらは金沢の大樋焼の樂茶碗です。
飴釉茶碗/第十代大樋長左衛門

藪内流。藪内剣仲紹智から始まる流儀です。武野紹鷗の最晩年の弟子であり、利休は兄弟子にあたります。
古田織部との親交も深かった人物です。その流儀は「武家手前」という方も多く、見ていると三千家のお作法とは違いがあります。
きびきびしていてカッコ良いという感じでしょうか。

もちろんまだ他にもたくさんの流儀があります。

※茶の湯とは関係ありませんが、少し豆知識です。
遠州や織部、石州といった呼び方は、名前ではありません。朝廷からいただく官位の略称です。
当時の大名は、格付けの意味も含めてなにかしらの官位がありました。そして、官位がある場合は、名前ではなく、官位で呼ぶのが一般的だったため、名前より官位の略称が有名になっているわけです。
大河ドラマ「真田丸」で徳川家康は、真田信之を「豆州(ずしゅう)」と呼びます。これは、信之が伊豆守だったからです。
したがって、従五位下遠江守の略が遠州。
従五位下石見守の略が石州。
古田織部は本名は、古田重然。官位が従五位下織部正だから通称「織部」といった具合です。
遠州流や石州流は通称・ニックネームがそのまま流儀の名前になっているわけです。ちょっと面白いですよね。
ちなみにこの当時の官位は、実際の領地や職務とは関係なく、お飾り的な役割でした。
織部正はその昔は朝廷の高級織物を扱う部署の長官名だったので、これをもらった古田織部はその性質(華やかでファッショナブル)から言っても嬉しかったのではないでしょうか。官位をあげた秀吉も粋な計らいをしますよね。

お抹茶といえば和菓子
その中でもできれば上生菓子をいただきたいところ
和菓子は季節にちなんだ銘もあり日本らしい
秋のお菓子「いちょう」/鍵善良房

長くなりましたが、以上が、茶の湯から茶道に至る経緯や、その歴史になります。

私は、流儀よりも「道具(茶器)/デザイン」からこの世界に入った物欲の人であり、歳もとったので気楽にやりたいので、気分的には「茶の湯」の呼び方がしっくりきています。
※全く作法を知らないと何もできないので、薄っすらと裏千家ではあります。理由は家族がそうだからです笑

茶の湯について触れると、永遠に書けそうなので、今回はその歴史だけで終わりにします。
次回は、ちゃんと「茶の湯」をオススメする理由について書きたいと思います。



※武者小路千家家元後嗣である千宗屋氏の茶の湯に関する一冊。茶の湯の世界を、偏りなく、非常にニュートラルに説明しています。流儀に関係なく楽しめます。


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