植物から食をつくるということ ~お豆腐さん~
ぐらぐらと煮え立った丸大豆を笊にかけたさらしにあけた。
笊の下にはポリバケツが置いてあり、そこに豆腐のもとがざざざーぁ、と流れでる。
さらしを絞り、それからそのへんにあった椀の底の丸みを使ってさらにぎゅうぎゅうと圧をかける。
おからから、豆腐のもとがまだまだまだまだ流れ出る。
ざざざーぁ、、ざざざーぁ、ざざーぁ
豆腐のもと、それはつまり豆乳のことだ。
飲んでみると温かくてとても美味しい。100%丸大豆の無調整。
こういう“ 本当 ”を知ってしまうと、スーパーで大量に陳列されている調整豆乳の正体があやふやになる。
豆腐のもとににがりをいれる。
「大五郎ボトル4杯分」
これがまた絶妙に便利な単位なので、生活の知恵というには大げさかもしれないが、それでも私は感心した。
祖父母の家には大五郎ボトルがいくつかあって、豆類や手づくり梅酒などの長期保存用ボトルとして役立てられている。
軽いし、取っ手があるので持ちやすいし、ボトルの蓋もちょうど大匙1くらいなので、確かに使いやすいのだ。
にがりをいれると、瞬く間に豆腐のもとに反応がある。
液体は液体、固体は固体と同属同士でわっと寄り集まる。
この指とまれ、の一言で真正直に結び合う子どもたちみたいに。
おたまで底の方をすくえば、まだ半ばながら豆腐の花ができかかっている。
水に浮かぶこの姿が何かに似ているなあと思った。あ、そうだ。藍甕を覗かせてもらったときの不思議な対峙に似ているのだ。
祖母が面白い話をしてくれた。豆腐は酒は嫌うのだと。
以前、私が今教わった通りのいつものつくり方で豆腐をつくっていたときのこと。
その日は気候も天気も別段取り留めもなかったのに、にがりを入れても何の反応もない。
にがりというのは反応がないからといって、じゃばじゃばといれていいものではない。
入れれば入れるほど豆腐が苦くなる。
出来そこなった豆腐を食べながら、不思議に思った祖母ははっと思い至った。
そういえばあのとき、同じ部屋で祖父がちびちびと日本酒を飲んでいた。大酒飲みではないから、お猪口に1杯をたしなむ程度に。
それだから別段気にはしなかったのだが、ところがお豆腐は酒の香りを嗅いでいたのだと。
同じ集落に住むお豆腐づくりの達者なカカさんに聞いたら、「んだらごっだ」という。やっぱり。
豆腐は酒を好かないのっさ、そりゃそうなんだ、という意味だ。
そのことがあってから、お豆腐をつくる日は前日からお酒の気配を部屋から消すのだそうだ。
私は豆腐の花をおたまで何度かすくいながらその話を聞いていた。
はじめは軽くふよふよとして根なしの海藻のようであったのが、
今ではずいぶんと重みがあって、ポリバケツの水色を背景にすると金魚が泳いでいるようだ。
すくっては金魚があらわれ、一瞬ほろりと花の形に変わり、また底に沈む。
今日は外に出たら豆腐になってやろう。酒の匂いもしないしな。
生きているみたいだ。
豆腐の花を眺めるうちに、そして酒ぎらいの一面を知るうちに、
私はもういつの間にか「豆腐」ではなく「お豆腐さん」と呼び始めていた。
何でだろう。敬意と人格。同じ時間を過ごした一人称として?
(言葉にするといつも言葉が足りない)
翻ってまた考える。
ただ買って、食材として口に入れるだけなら「豆腐」とでも?
そうしてきたのかもしれない。私も随分薄情な奴だ。
食べることに感謝、とは口でいうほど容易くはないが
今改めて気がつけてよかった。
またいろいろと教えてもらおう。祖母に、祖父に、植物たちに。