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(3-10)転職に向けて【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

◆ (3-10)転職に向けて 登場人物

 … 父自身が治療目的で通っていた「触れずに痛みを取る会」の解散後、当時、父はその会員たちの要請でヒーリングの先生(いわゆる気功師のような)となっていた。一方で、興味本位と山っ気たっぷりに、様々な事業に出資をしていた。これまでの父と私の経緯につきましては「中学校卒業まで①」「中学校卒業まで②」「不思議な力」をお読み頂けましたら幸いです。

直上の部長 … ちょっと曖昧な記憶だが、天下りの取締役部長で大概 本社にいるのだが、私の退職話を聞いて珍しく現場事務所まで足を運んでくれた。一見、事務的な雰囲気を強く感じるが、落ち着いた雰囲気の優しい方だった。

営業推進部長 … 線は細めだが、生え抜きでセンスのいい、やり手の部長。喫茶事業が出店ラッシュの時、本社サイドの実質的な実務をこなされていた方。現場サイドの我々とのやり取りが増えるなか、だんだんに親しくさせていただき可愛がってもらった。

父からの話

 父に相談すると少し気持ちが落ち着いたようだった。何か変わるわけでもなかったが、気持ちが落ち着くと、不思議と再び仕事に打ち込もうとする自分もいた。その時は聞いてもらうだけでも良かったのかも知れない。ただ、心の底では「このまま終わるのは御免だな…」という思いが常に横たわっていた。この思いはときに大きく湧いて、ある種の現実逃避のよう感覚にもなっていた。そうなるとまた父に話を聞いてもらうのだった。

 しばらくして父は「少し待っていろ、今、PCBが動き出しているから、いずれ手伝ってもらうから」と話をしてきた。その時は私も渡りに船と思って一瞬喜びもしたが、次の瞬間、子供二人と妻を抱えている中で、その仕事がきちんと我が家を守ってくれるのだろうか、私がその仕事をやっていけるのかどうか不安が過ぎっていた。それ以降、父と会うときは新しく勤めることになるであろう会社の実情や、顧客が誰で、どういう仕事で、どこで勤務するのか…など繰り返し尋ねていった。妻に会社を辞める気持ちを伝えた後も、ことあるごとにその仕事の進捗状況などを何度となく父に確認していった

 ある日、父の仕事場であると言う墨田区の事務所に二人で出向いたことがあった。そこでは「藤田さん」と言う男性が、大和エンジニアリングと言う会社を経営していた。そこの受付は父のところにヒーリングを受けに来ていた「森さん」という女性で、父と藤田さんと三人でPCB処理の話や水素と酸素でエネルギーを取り出す機械の話をしていた。聞けば、そこは情報処理会社ということで「あぁ、自分はこの会社に就職するんだな…」と言う感覚が芽生えていた。父に仕事の話を聞くと、防衛省がどうだ、JRどうだと、やけにPCB処理の話に力が入っていた。特許や関連のデータを見せられたりしたが、私にはまだ畑違いの感で何か難しく映った。正直、随分と大きな話が動いているんだな…と思うと、改めて役に立てるのかどうか、少し不安な気持ちにもなった。それでも、父と一緒に勤める会社に行くことが出来、新しい会社の人たちとも顔合わせを済ませたことで転職の実感が湧いてきていた。

 その後、父は会社や仕事の説明をしに我が家に来てくれた。ひと先ずは妻も納得した…と言うか、結局は妻は納得せざるを得なかったのが実際だったのだろうが、私としては手はずを整えることが出来て、一応の満足感を持っていた。ただ、父が帰った後、妻は「会社なんて立派なビルに入っていたって分からないんだから、本当に大丈夫なの?」と心配を顕わにした。最後は、父を信用することで、私は妻の心配に蓋をするようにしてしまっていた。そしていよいよ会社に退社の意思表示をすべく気持ちを固めていった。


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退社の意思表示

 それから間もなくして、スタンドコーヒー事業の支配人に会社を辞めることを伝えた。支配人は驚いて少し考えるように言ってきた。そしてこのことはすぐに直上の部長の耳にも入った。

 後日、部長は店の事務所にやってきて、私を気遣うようにして(暗に、能力が無いのに退職しても大変なだけだぞ…と言いたげに)「君には、この仕事があっていると思う。今から他の仕事を一から始めなくても良いじゃないか」と話してきた。事実、今いる会社は電鉄の子会社で倒産を心配することはないし、リストラにでも遭わなければ、将来の生活はある程度約束されていた。それを蹴る必要など全くないだろう…と言うのが部長の話だった。これは部長に限らず、会社の仲間の多くも思っていたことでもあった。しかし、私は父を信じて会社を辞めることを選んでいた

 会社に意思表示をすると、前に一緒に仕事をした上司や同僚が、新宿のスタンドコーヒー店を頻繁に訪れてくれるようになった。口々に「お前、本当に会社辞めるのか?大丈夫なのか?」と話しかけてきた。中には「お前良いよな、俺にも仕事を紹介しろ!」とか、「辞める前に会社に文句の一つでも言って行ってくれよ!」などと言う人たちもいた。


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営業推進部長の気遣い

 ある時、レストラン事業にいた頃に世話になった営業推進部長が、食事を一緒にしようと話しかけてくれた。私のことを気に掛けてくれていることはすぐに察しがついた。その部長は経堂にあった洒落たイタリアンの店に私を連れ出した。そして、大の男が二人してテーブルを囲み、勤務中にも関わらず、昼からワインを頼んだ。

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 私を喫茶事業の頃から知ってくれていた部長は、喫茶事業の開店ラッシュだった当事のこと思い返して、とにかく私を労ってくれた。私も貴重な経験をさせてもらったことへの感謝の思いを述べた。

 部長は「直江君さ、テーブルサービスにいたら転職は考えないで済んだんじゃないか?」と話してくれた。私も「そうですね、そうだったかも知れません。接客って楽しいですからね…」と素直に思いの丈を言わせてもらった。部長は少し伏し目がちに笑って、その言葉を受け止めてくれた。部長のこの計らいは本当に嬉しかった。気持ちを分かってくれる人がいてくれるだけでも有難く、どこか救われるようだった。


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最後の日々

 スタンドコーヒー店のスタッフには、退社の日にちが決まってから、その二ヶ月前になったとき、初めて会社を辞めることを伝えた。スタッフは一様に動揺していたが、それまでも「自分が居なくても現場が機能する」ことを前提にした現場作りを、お互い続けてきた中にあって、その現時点でも、営業的なダメージは少ないように思われた。それでも、多くのスタッフは引継ぎや教育にとても協力的であり、現場の一体感もさらに深まっていくようで、どこか惜しい日々に感じた

 年が明け、いよいよ退社の時が近づいた。その後も、昔の上司や同僚は、たびたびスタンドコーヒー店に来てくれた。ときに、送別会を開いてくれたりもして、何か「もうこの人たちと一緒に仕事をすることは無いんだな…」と寂しくも思える一方で、「ようやくこの縛られた世界から解放される…」などと、軽薄な優越感のような思いも沸き起こっていた

 店での最後の勤務を終えた後、本社に挨拶回りに行くと「お前、頑張れよ!」と、大勢の方から声を掛けられた。アルバイトから足掛け 10年以上、私を育ててくれた会社に別れを告げ、上司をはじめ、上役の方々に何度も礼を述べて、ついにサラリーマン生活の幕は閉じた。




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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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