見出し画像

(2-2)中学校卒業まで②【 45歳の自叙伝 2016 】

【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

父への憧れ

 私は小学校の友人たちと別れ、知る人など誰もいない中学に行くことになった。しかし、そんなことはお構いなしに新学期は始まった。入学当初は知らない人ばかりで少し不安になったが、クラスの会話を聞いていると、この中学校が二つの小学校から進学しているのが分かった。それだからか、私と同じように不安気に周りを見渡している生徒も何人か見受けられた。似たような境遇の彼らを見ていると妙に私も気が楽になり、自分から話し掛けられるようになっていた。

 さて、入学して間もない新入生はそれぞれ部活に入らなければならなかった。その部活選びは、漠然と運動音痴を克服したいという理由で、まずは運動部の中から選ぶことにした。次に球技や団体競技、格闘技なども苦手だった私は、個人で行える競技から自然に水泳部に目が留まったのだが、実は当時、ほとんど泳げなかったのだ。

 私は父の海上保安庁時代の話が頭にあった。そして、父のようになるにはやはり泳げないと何も始まらないと感じ、泳ぎは部活で教えてもらえば良いと、ほぼ見切り発車でそのまま水泳部に入部したのだった。まぁ、中学進学したての子供が考えるのはせいぜいこの程度であった。

 ある時、教頭先生に「直江君はどうして水泳部に入ったんだい?」と尋ねられたのだが、私は「父が海上保安庁だったから、自分もなりたいと思って…」と答えると、「じゃぁ、防衛大学に行けるくらい勉強も頑張らないとな!」と笑顔で励ましてくれたのだった。しかし、私にはまだ勉強の重要性にはピンと来ていなかった。後で理解するのだが、それはそれなりに勉強も出来ないと難しい進路であった。

 何れにしても、私は父のようになりたいと純粋に思っていた。父自身の話で、持久走で転んでビリから二位まで巻き返したと聞けば、自分の足の遅さが嫌になったものだし、父が生徒会に入っていたと聞けば、私もいつか生徒会に立候補しようと心に決めたのだった。いつも力強く見えた父を頼もしく感じ、その父に近づきたいと思うのも、恐らく自然なことだったのではなかろうか。

 しかし、後々、実際は多くの点で父には及ばないと自覚し始めると、自らの不甲斐なさに落胆したのだった。振り返ると、このような感覚は父が脳内出血で倒れるまで続いていたように思う。

この25年後の冬、父は脳内出血で倒れました。
以下はその時の記事です。


◇  ◇  ◇

妹のこと

 前にも書いたが、私は三つの中学校を通うのだが、転校するたびに部活やクラブも改めて選ぶのだった。様々な手続きもその都度だったが、そんな折、ふと我が家の健康保険証を見ていて、妹の続柄が「養女」とされているのに気がついた。

 中学二年にもなれば、それが何を意味するか分かりもしたが、両親に尋ねることはしなかった。何かの間違いなのだろうと思い込んでも良かったが、もしかしたら妹とは血が繋がっていないのではないかと思うと、それまで何の疑いものなく、当たり前のように一緒に暮らしてきた家族の風景が、急に灰色のフィルターが掛かり胸が詰まるのを感じた。それでも夕食になると妹はいつもと同じようにそこに居り、その明るさに接していると、この重たい気持ちは心の奥にしまい込むより他なかった。そして、私も表向きは何も無かったように振舞った。

 後になり(私が成人した前後ぐらいに)知るのだが、妹は私が生まれたあと、父が母とは違う女性に産ませた子供で、その妹は生まれてから一ヶ月足らずで母が引き取ったそうだ。それを知って、これまでの母の様々な苦労や妹のことを思うと、また私の心も複雑になった。※下記記事にて、妹の経緯を母の視点で綴っています。

 それでも、相変わらず、表立って父には何も言えなかった。怒らせるのが怖かったのである。一方、気持ちは「家の為に何か役に立てないと…」などと思えて、長男としての自覚めいたものもどこか感じていた。


◇  ◇  ◇

水泳部

 三校目の中学校に転校しても私は水泳部を選んだ。その水泳部は部員数も多く、県でも強豪校と呼ばれているようだった。夏場は朝練で泳ぎ、放課後も下校時刻ギリギリまでプールの中に居た。スイミングスクールとの掛け持ちをしていた頃は本当に良く泳いだと思う。冬場もスイミングスクールのプールを水泳部で借りて泳いだが、自転車で片道20~30分の夜道をよく通った。あまりの練習の厳しさに、理由もなくサボる部員もいたが、即座に顧問の先生に呼び出され、こっ酷く叱られていた。


◇  ◇  ◇

ドライブの思い出

 その頃の父との思い出に家族でのドライブがある。よく出掛けたのは伊豆や箱根、富士山周辺だった。

 父の運転で子供たちはよく車酔いをした。あんまり「気持ち悪い…」などと言うと、父は気分を害して怒り出した。今思えば、恐らくは、父自身が出掛けたかったのではないかと想像するが、それでもいろいろな所に連れて行ってくれるドライブは好きだった。

 ほとんどが日帰りだったのだが、ある夏休み、家族全員で松本城を見に行ったその晩は、美鈴湖で一泊した。野宿に等しいような車中泊だったが、中学生の私には楽しかった。翌朝、美ヶ原高原に上がると、北アルプスが雄大に連なってとても素晴らしかった。ひんやりとした空気の中、眼下の松本盆地は広々としていて本当に心地良い風景だった。

美ヶ原から松本盆地、北アルプス ( image )


◇  ◇  ◇

早朝のチンピラたち

 そんなある日の朝早く、家の玄関先から「おい! 直江! 居るんだろ、出て来い!」と怒鳴り声がして目が覚めた。二階の自室から玄関を見ると、チンピラのような男が二人居て、隣近所にわざと聞こえるように大きな声で繰り返し叫んでいた。細かな事情など中学生の私には分かる由も無かったが、借金の取立てであろうことは想像に容易だった。

 とにかく早朝の隣近所中にその叫び声は響き渡り、本当に恥ずかしく耳を塞ぎたい思いだった。その男たちは、私たちが登校する時間になっても玄関先を動かず、ずっと居座っていた。

 結局、勝手口から家を出て、その男たちの前を通って登校せざるを得なくなった。玄関まで来ると男たちは「お父さん、居るんだろ!連れて来いよ!」と言ってきた。少し怖かったが「お父さんは居ません。学校行くので、すみません」と嘘をついて家を後にした。

 その日、学校にいる間は平静を装っていたが、やはり家に帰るまであの男たちが気掛かりで仕方なかった。部活を終えて帰るとあの男たちはもう居なかった。家に入り、母に父のことを尋ねると「上に居るよ」と言うので、二階に行ってはみたが父は見つからなかった。

 もしや…と思い押入れを開けると、なんと布団に隠れている父をそこに見つけた。父は突然開けられて一瞬ひどく狼狽したように見えた。そして「もう居ないか?」と尋ねてきた。「うん…」と答えると押入れからおもむろに這い出し、一階に下りていった。

 この時、やはり我が家は一般家庭とは違うのだと実感した。貧しさに留まらず、もっと社会的な意味合いで、何か漠然としたさらなる劣等感を持ったようだった。

 それでも家族の中では皆普段と同じように過ごし、あのチンピラ話も、友人たちには自虐的な笑い話としてやり過ごした。父がことの詳細など話すはずもなかった。ことの次第を子供から尋ねるられるはずもなく。いつもただ現状を受け入れるのみだった。


◇  ◇  ◇

自転車小僧

 この頃、小遣い稼ぎの為に、家の商売の手伝いを始めていた。当時、給料として幾らくらい貰っていたかなど忘れてしまったが、その使い道の多くは自転車の部品に消えていった。私には新品の自転車など買えなかったので、駅前に捨てられていた自転車を朝早く拾って、家に持ち帰り、手を掛け再生し乗り回していた。

 ある夏の日、私はその再生した自転車で一人小田原まで出掛けていった。大した小銭も持たず、途中はウーロン茶とアイスクリームを買ったぐらい。浜辺に沿った自転車専用道路は午前中の爽やかな光に溢れ、とても心地が良かった。そんな風に時には以前通った中学校の学区まで足を伸ばし、懐かしく映る風景とその空気に浸っていた。


(2-2)中学校卒業まで②【 45歳の自叙伝 2016 】
終わり


*  *  *

続きは以下の記事です。

ひとつ前の記事は…


*  *  *

この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

タイトル画像は PhotoAC より拝借しました。
心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?