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(2-3)高校生になって【 45歳の自叙伝 2016 】

【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

浮ついた感覚

 転校を繰り返し、結果、三つの中学校を通った私は、今度は自ら転校生を志願するような、学区外の新設高校を進路にした。思えば、既に長い付き合いの友人などもなく、転校の連続に慣れもあってか、あえて新しい環境に浸るのも心地良いストレスのように感じていた。実際、高校に進学すれば割と早く友人は出来た。そうすると入学間もないどこか浮かれた雰囲気のなか、たまたま仲良くなった五人組で、演劇部を野次馬気分で体験入部してみたのだった。

 当初、演劇部の顧問の先生は、大喜びをして私たちを受け入れてくれた。しかし、その先生の喜びも束の間、正式に入部をしてから、私たちは部活動をまともに行わず半ば遊び場に変えてしまっていた。

 夏休みが終わり、三年生が引退し、二年生の男子の先輩が部長になると、その部長と私たちはどこか距離を取ったり取られたりで、うまく交流を出来ないでいた。三学期になると、その部長も突然、演劇部を辞めてしまい、気づくと私たちと同学年の女の子数人だけになっていた。顧問の先生も呆れ果て「あなたたち、どうぞ青春を謳歌してください!」と吐き捨て、部活動に寄り付かなくなってしまった。ついに指導者も居なくなったのだ。

 二年生になると、残った女の子たちもみんな辞めていき、気づけば本当に私たちだけとなった。するとますます部活動は荒んだものとなり、まったく酷い、完全な遊び場と化した。


◇  ◇  ◇

強化合宿

 誰の指導も受けなくなった二年生の夏、私たちは強化合宿と称し、自転車で伊豆半島を走る計画を立てた。何故伊豆になったのか。それは、自転車で行ける場所であることは大きいが、私個人としては、家族でドライブに出掛け眺めた景色を再び見たい思いがあった。

 夏休みに入ると、自分で手入れした自転車に跨り、いつもの五人組で一路伊豆を目指した。しかし、標高差や距離などをまったく考えずに組んだコースは想像以上にハードだったが、友人たちと一緒に走り切った経験はとても良い思い出となった。


◇  ◇  ◇

生徒会役員

 話は前後するが、高校に入学して間もない時期に、生徒会の役員選挙があった。父が生徒会役員だったことを憧れに、自分がどこまで出来るか試したい気持ちにもなって、半ば勢いで立候補を申し出てみたのだった。

 職員室に行き、受付の社会科教員に「生徒会会計に立候補させてください」と願い出ると「え、君、立候補するの?」と少し困惑したような表情で驚かれてしまった。思わず「自分は計算外の人物なのではないか…」と詮索てしまいたくなるリアクションだった。

 そうこうしているうちに選挙の当日はやってきた。私も「やる気だけはあります!」と、ただ何遍も喋るだけ喋って演説を終えたのだが、その後の開票作業にまったく目を疑った。それは立候補者自ら開票作業を行うというものだった。

 さらに開票結果はと言うと、有効得票数に足りない立候補者が何人かいて、あの社会科教員は「仕方ないな、A君に200票、B君に150票、足しとけよ!」と我々に指示をしたのだ。何だか曇った雰囲気がその場に漂った。無事、私は当選してはいたが、正直これには驚いた。

 会計としての仕事は、各部活動との予算折衝などが印象的で結構楽しかった。自分たち演劇部の予算を増額して、もう時効だろうが、やりたいようにやっていた。生徒総会も、大勢の前で話すにしてもあまり苦も無く、こういう経験は少なからず自信に繋がっていたように思えた。そして、生徒会役員室の扉を出入するたび、どこか特別な気持ちにもなって、演劇部では味わえない、何か充実した感覚が沸き起こっていた。


◇  ◇  ◇

偏った受験勉強

 高校三年生の冬、大学受験を控えた私は余裕が無くなっていた。試験日が近づけば近づくほど、気持ちは近視眼になっていった。そうなると、不得意な科目は切り捨てて、得意な科目のみに勉強時間を割くようになった。当然、本試験での結果は厳しく、案の定、私は浪人生となった。最初から分かっていた結果に、私は「僕一人じゃない…」と不安に蓋をして現実を直視出来ずにいた。そして、どこか間に合わせの前向き思考でもって自らを慰めていた。

 思うに子供には良い先生が必要である。それも出来るだけ身近な存在であれば、なお良いことだと思う。これは私なりの実感でもあるが、子供が一人で総てを判断していくには無理というか限界がある。そして、若いときの経験のロスは、後で取り返すのをとても難しく感じるからである。神内先生は「どういう大人に出会うかが重要だ」と、私に教えてくれた。十代の自分を振り返る、今の私もまったく同感だった。
※日立OBの神内先生との経緯を下記記事に載せています。


◇  ◇  ◇

引越しのアルバイト

 入試に失敗した後、私は丸一年後に備えて、急に楽観的になっていた。何というか、時間に余裕が出来たと錯覚したのか、根拠の無い前向き…とでも言えばいいのか。それは一時的なストレスからの解放に過ぎなかった。

 私は空いた時間でアルバイトをしようと考えて、日給で支払われる引越しの手伝いに応募してみた。面接に行くと、屈強な感じの従業員が何人かいて、私は居合わせた面接者数人と奥の部屋へと案内された。採否は電話にて、合格者のみ連絡が行きますとのことだったが、実は翌日になっても連絡は来なかった。

 私は不合格なのか確認するつもりで事務所に電話を掛けてみた。すると「あぁ、ちょうど欠員が出たから、こんど出勤してください」と言われ、後日、久しぶりの仕事に軽い気持ちで出掛けていった。

 ところが、仕事の内容はとてもきついものだった。朝から夕方まで働くと、身体が放心状態になってしまっていた。途中、従業員の男性に怒鳴られたりして、とにかく早く終わって欲しいと思った。事務所に戻った際、「直江君、次回いつ入れるの?」と尋ねられたのだが、即座に「すみません、今日で辞めさせてください」と泣きを入れてしまっていた。

 家に帰る途中「お金を稼ぐって、こんなにも大変なものなのか」と、泣きを入れた自分がつくづく情けなく思えた。ただ、家族にはそんなところを見せたくもなく、シャワーを浴びて、さっさと布団に潜り込んだ。


(2-3)高校生になって【 45歳の自叙伝 2016 】
終わり


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続きは以下の記事です。

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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

タイトル画像は mimorning_art さんより拝借しました。
心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

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