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(3-4)地に足を【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

◆(3-4)地に足を 登場人物

たまたま連絡を取り合った社員 … 以前、新宿地下街の喫茶店で一緒に働いていた人。仕事は今一つだが、私を可愛がってくれて、よくシャンソンのライブバーに連れていってくれた。

前の店長・代理 … 地味に明るく、ちょっとダンディ。気の利いた言葉など無いが、実感として優しさを感じる人だった。新宿地下街の喫茶店で私を採用してくれた人。昇進して支配人代理となっていた。

渋谷の店長 … 仕事中、自身の株式投資でちょこちょこ店から居なくなったりして、、あたり柔らかく優しくて面白い人だった。

上司 … 百貨店内の喫茶店の店長。馬力があって、つねに仕事中心に動いているように見えた。とにかく熱く、そして真面目な人だった。実質的に私に店舗運営の実務を教えてくれた人。

 … 百貨店内の喫茶店の社員。同い年で、まさに体育会系。相当に自分本位であったが、店ではムードメーカー的存在で、彼もまた仕事に熱い奴だった。本当によく飲みに行った相手。


出戻り

 その頃、たまたま連絡を取り合った社員から「人が足りないから渋谷に来てみないか?」と言われ、大した収入もなかった私は拾われるようにして、その渋谷の店で働き出した。今思えば、前の新宿の店と同じ会社の同じ事業部であるのに、再び働くにあたっても、きちんと挨拶回りも出来ない、まったく未熟な自分であった。そしてこのことは、すぐさま新宿の店にも知れ渡ったことと思うが、しばらくは静かに渋谷で働かせてもらっていた。

 三ヶ月ぐらいして、新宿で私を採用してくれた前の店長が、突然渋谷の店にやってきて「お前、ここで何してんの?」とニヤッと嫌味っぽく笑って言った。「すみません、渋谷で働かせてもらっています…」と言うしかなかった。すると「来週から新宿な!」と一方的に決め付けてきた。驚いて渋谷の店長の顔を見ると「直江君、短い間だったね、ありがとう」と苦笑いをしていた。

 こうして急遽、新宿に連れ戻されることになったのだが、実は行き先は前の店ではなくて、新しく百貨店にオープンしたばかりの喫茶店とのことだった。しかもこの話を勝手に決めた前の店長は昇進して支配人代理(以降「代理」)となっていた。そして、その権限かどうか分からないが、この話は喫茶事業全体の人員配置を勘案しての異動(アルバイトで異動の対象では無かったのに…)のようだった。


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新しい仕事場

 新しい百貨店の店も忙しいところであったが、前の店とは全く雰囲気が違っていた。新店だけのことはあって綺麗で随分と洒落た作りだった。ただ、百貨店のテナントとしての様々な制約や決まりごとがあって、何かと気を遣うことが多く、そこは面倒に映った。現場の上司も、今まで会ったことが無いようなタイプだった。馬力があって、熱く真面目な人だった。スタッフは上司を除いては、概ね若い連中が多く、その若さからなのか、明るい雰囲気を感じていた。

 百貨店の店で働き出すにあたって、上司がシフトについて希望が無いか尋ねてくれたとき、私は今までの経緯を話して、借金があること、出来れば社員にさせて欲しいことを伝えた。すると「目一杯働かせてやるけど、すぐ社員にしてあげられるかは分からない。そこはお前次第。とにかく店で頑張れ、根をあげたら承知しないからな!」と思いっきり使ってやると言ってくれたのだった。私はそれで十分有難かった。そして「よしやってやる!」と久々に内側からエネルギーが湧いてきていた。

 その百貨店の店には私と同じ年の社員がいて、大そう仕事に打ち込んで頑張っていた。彼は雰囲気としては体育会系そのもので、相当に自分本位であったが、仕事には熱い奴だった。年齢が同じと言うことと、代理の意向で異動してきた経緯もあって、初め彼は「お手並み拝見」と言った風で距離感があった。ただ、仕事については、しっかりと教わるべきものをきちんと教えてくれて、むしろそこは清々しさすらあった。彼もまた私とは全く別のタイプであった。

 それから仕事が終わると、上司の誘いもあって三人であったり、店のスタッフを連れてであったりで、本当に良く呑みに行くようになった。酒を呑みながらいつも熱く仕事について語り合って、時に上司に叱られたり、時にお互いが何を思っているか確認しあったり…と。とどのつまり、如何に仕事に対し真剣なのか…と言うことをぶつけ合っていた。

 百貨店の店に来てしばらくすると、自分の立ち位置みたいなものが見えて来ていた。勢いがあってムードメーカーな彼と、冷静で安定感のある私(一応、そう言われたことが実際あるので、そのまま書くが…)とが、店を回すのに上手く機能していることを感じると、何と言うか、仕事をしているのが心地良く感じたりした。上司も私ら二人を可愛がって使ってくれたのが態度で伝わってきて、とても嬉しく感じていた。また、彼と呑みに行く機会も増えていき、どうやって人を育てるのか、どうやってスタッフの連携を良くするのか、どうやってモチベーションを高めるのか…などと本当によく話をした。


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活きた読書とするために

 こういった日々にあっても、その役に立つようにと読書も依然として続けていた。スタッフを高いモチベーションで、有機的に機能させる為にすべき事は何か、よく本屋に寄って、歴史の中にその答えを求めようとしたことも多々あった。特に印象的だったのは、「如何にして人は動くのか」と言う冷徹な分析と、その為の君主のあり方を説いた「君主論」のマキャベリだった。

ニッコロ・マキャベリ『 君主論 』
【 十八史略の人物学から 抜粋④ 】

 マキャベリズム―権力主義という言葉まで残したルネサンス時代のイタリアで辣腕をふるった政治的天才、ニッコロ・マキャベリが『君主論』の中で痛烈にして非情な箴言を吐いている。

● 君主というものは、愛されるべきか、恐れられるべきか。これは興味ある問題である。常識的に考えれば、両方を兼ねるのがよいということになろうが、その域に達するのは困難なことである。したがって、そのどちらか一つを選ぶとなれば、愛されるよりも、むしろ恐れられるようがよく、またそのほうが安全である。

● 他人の武力または幸福によって国を手に入れた君主は、すぐに裏付け施策しないと危ない。しかし、これは難しい。建物を建ててしまってから基礎工事をするようなものだからだ。

● 反乱者は、いかに恩恵を与えても、かつての自由を口実として、また反乱する。

● 人間は迫害を受けると思っていた者から、わずかな恩恵を受けると感激する

● 重臣や側近から「不決断なり!」と見くびられた君主は危ない

● 君主は恐れられてもよいが、恨まれてはいけない

● 君主は、民衆の支持を得ていると錯覚してはならない。彼らが「わが君のためには死をも辞さぬ」というのは、死を必要としていないときだけである。

● 君主は、あるときは善をなし、あるときは悪ができねばならない。悪人との妥協も必要である。ただし、国を滅ぼすような悪や国の存亡に関係のない悪をしてはならない

● 君主は吝(けち)であれ。いくら気前がよくても、増税すれば怨まれる。君主の気前のよさの恩恵に浴する者は近くにいる少数であるが、その被害者は多数である。

● 新君主は尊敬を集めようと思ったら、人びとの度肝をぬけ

自国より強い国の手を借りるな。たとえ勝っても、獲物を横取りされ、悪くすれば自分自身が、その国の捕虜にされる。

君主の頭脳の程度は、その宰相を見ればわかる

● 君主は宰相を優遇せよ。しかし、与えるもの以上を望ませるな。

● へつらい者を避けるには賢い側近を選び、その者たちだけに直言させよ

● 進言を生かすものは君主自身である。よい進言は君主の深い思慮から生まれるべきであり、よい進言から君主の深い思慮が生まれるようではいけない

● やむにやまれぬときの戦は正義であり、他に方法がないときの武力行使も、また神聖である。

● よい君主が二代続けば偉大な事業ができる。

自国民で軍隊を編成できない君主は失格である。

● 占領地民には、支配されているという印象を与えるな

● 戦に破れたら、外交で勝て!

出典:十八史略の人物学/伊藤 肇/PHP文庫


 同時に「組織の盛衰(堺屋太一)」という本を読んだときには、組織が陥る病や幾つかの失敗実例を知ることにもなり、成功体験よりも失敗から何を学ぶかが大事…と言うことを感じさせられもした。そして、この失敗と言うキーワードから次に「失敗の本質/日本軍の組織論的研究」と言う本を読むことに繋がっていった。

 これらの大きなテーマとは不釣合いな感は否めなかったが、この頃は何かと本で読んだ内容を私自身と現場に照らして眺めていた。そして、今まで団体競技のように集団で何かを成すということが少なかった私としては、少人数であっても、集団が成果を出す為のハウツー…のような体験と、その感覚めいた経験値に対して、どこか、ウィークポイントであると自覚するようになっていた。それでも実際の仕事は現在進行形なのであり、私の経験不足が現場の足かせにならないように…と言う、ある種の強迫観念がこれら読書を進めさせた一側面でもあった。とにかく過去を読み解いて、現実に活かすことを目的にした数々の書物は、それまで好んで接してきた東洋思想とも相互作用をして、ますます染み入っていくようだった。

 「失敗の本質/日本軍の組織論的研究」で、更に痛感させられたのは日本軍敗退の真相だった。これは子供の頃にプラモデルを作りながら、いつも苦々しく思っていた、連合艦隊壊滅の過程を辿ることともほぼ同意であり、勢い、日本として、その過った戦略のあり方が、どの時点から始まったのか、必要に知りたくなるきっかけともなった。※下記記事「中学校卒業まで① - 歴史への関心」に歴史好きになった原点を載せています。

 
 その後、日本の近現代史(幕末から東京裁判まで)を徹底的に調べ上げたい衝動に駆られていった。様々に読み進めていく中で、特に胸に残ったのが「落日燃ゆ(城山三郎)」だった。主人公・広田弘毅の「自ら計らわず」と言う姿に感動して、以降しばらくの間、城山文学の虜になり、「男子の本懐~浜口雄幸と井上準之助」「雄気堂々~渋沢栄一」などを読み、その繋がりで渋沢栄一の「論語講義」をかじるようになり、次いで佐藤一斎の「言志四録」「重職心得箇条」などにも目を通すようになっていった。

 こうして、端から見ればどこにでもありそうなありふれた現場であっても、組織ととらえて再認識するとき、それまで読み進めてきた書物たちが様々な角度から絡んできて、今この瞬間、この組織にあって、歴史や先哲から学んだことを如何に活かすべきか…と、これは特段、大袈裟に言おうとしているのではなく、私個人の中にあっては本当にそのように考えていたのだった。


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陸軍と海軍

 当時は毎晩のように仕事が終わると呑みに連れ出された。上司の誘いでなかなか断ることが出来ず、嫌ではなかったが、ほぼ強制的だった。終電を逃して、歌舞伎町のカプセルホテルで泊まることも多かった。サウナに入っても仕事の話をしてくる上司に、その熱血さに敬服しつつも、早く解放して欲しいな…と内心思うことも多々あった。

よく飲みに出かけた新宿大ガード脇の「思い出横丁」

 ある時、上司が彼のことで話があると私を呼び出した。聞けば、彼を批判する声を他の連中から聞くようになって、どう思っているかを尋ねてきたのだった。そして、上司が居ないときの彼をフォローして、店を上手く回せとのことだった。彼は仕事に熱くなり過ぎるあまり、彼自身の思った通り進まないと、店の質が落ちると強く思い込んでいる節があり、もともと体育会系のノリで勢いが良いのもあって、他のスタッフに高圧的な態度に出てしまっているようだった。

 元来がアルバイトの多い職場である。仕事に対するモチベーションは始めから高いわけではなく、アルバイトへの指導は、君主論にある「飴と鞭の使い分け」が有効にも思えていたが、彼のその「鞭」は空回りしてしまっているように見えた。彼自身もどこか気付いていたのだろう「直江さん、だらけさせないように、あまりあいつら(アルバイト連中)の話に乗らないでくださいよ!」と釘を刺されたこともあった。

 仕事の質を上げるとは、とにかくお客様に喜んでもらうところが第一義であるが、接客業の場合、店の雰囲気と言うのが肝心で、やはり良い店には良い従業員が居るものなのである。そして、その雰囲気が同じ質で安定して提供されることは大きなポイントでもあった。それ故に指導的立場にある者は、自身のお客様への接客意識はもちろんのこと、従業員に対しても常に見本であり、価値判断の基準であり、モチベーションの源泉である必要があった

 しかし、私は上司の言われるように機能することが出来ずにいた。その理由の一つは、自分も他の連中と同じような気持ちになりつつあったということだった。もう一つは、彼が女性スタッフに手を出し、どうもトラブルとなっていて、それが幾人かの知ることとなり、彼の良さや求心力が低下し、他のスタッフの気持ちも離れつつあるということだった。そうすると、その「鞭」がさらに空回りするところとなり、彼には次第にイライラがつのるようで、店でも荒れ始めていた。

 程なくして、上司に呼び出されると「あいつ、どうしたら良いと思う?どう思ってる?」と尋ねてきた。思わず「日本の陸軍と海軍に似てますね…」と言うと、上司は思いっきり吹き出して「お前、随分デカく出たな!」と大声で笑った。それでも、私としては大真面目であって、陸軍は彼、海軍は私の喩えであり、歴史的には海軍は陸軍の暴走を止められなかったのであり、ことここに至っては陛下(上司)のご聖断に頼るほかありません…というのが本意だった。


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広田弘毅「落日燃ゆ」解説/赤松大麓

【 落日燃ゆ/城山三郎 解説/赤松大麓から 抜粋 】

 広田の「自ら計らわぬ」生き方は、徹底していた。弁護人から罪状認否で無罪と答えるよう求められ、「戦争について自分は責任がある。無罪とはいえぬ」と語ったほどだ。単なる手続上の問題にさえ、このような受けとめ方をした彼は、裁判を通じ始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした。最終的には文官としてただ一人、絞首刑の判決を受けるが、これは検事団にさえ意外な結果で、キーナン首席検事は「何というバカげた判決か」と嘆いたという。広田と死出の旅を共にする六人の軍人は、いずれも何らかの形で、彼の協和外交の努力を妨げた者ばかりだった。しかし、彼は不満めいたことは少しも口外せず、教誨帥(きょうかいし)の仏教学者花山信勝の面接にもほとんど無口で「今更何もいうことは事実ない、自然に生きて、自然に死ぬ」と答えている。

 公人としての広田は、自身の信念に従って、ほとんど感情の起伏を見せていない。が、彼は非常に人間性豊かな愛情深い人物で、妻子を深く愛した。名門の子女と結婚し、閨閥(けいばつ)の力で出世する外交官は少なくないが、広田は貧乏なかつての自由民権の志士、月成功太郎の娘静子と結婚している。二人は老いても相思相愛の仲で、静子は夫の覚悟を察知し、裁判の最中に自害した。夫の未練を少しでも軽くしたいという願いから、死を選んだのだ。その報知を伝えられた後も、広田が獄中から家族に送る手紙は、最後の一通まで静子宛であった

 「翻訳して検閲を受ける便宜上、広田は手紙を片仮名で書いたが、その最後を『シヅコドノ』と結び続けた。その『シヅコドノ』の文字が見られなくなったとき、つまり広田が死ぬとき、はじめて静子は本当に死ぬ。生きている自分は死の用意をし、一方、死んだ妻を生きているひととして扱う。幽明境を異にすることを、広田はそうした形で拒んだ」

 この一節に広田の妻に対する限りない愛情、死生観、決意、そして彼の稀有な人間性が、はっきりと集約されている。『落日燃ゆ』のなかで、最も感動的な文章といえるだろう。城山氏の切実な鎮魂の願いが、この一節にこめられ、読む者の胸に惻惻(そくそく)と迫ってくる。氏はこの作品で、感情を抑制した執筆態度を始終貫いた。情感をにじませず、あくまで真実を追求し、近代日本の転落の歴史とその流れを堰止めようと苦闘した広田の悲劇を、醒めた目で見すえている。けれども全篇を読み終えた時、これが氏にとって書かずにいられぬ内的必然を持った小説であることを、誰しも納得するに相違ない。

 戦時中の皇国史観への反動で、氏は歴史不信に陥っていたが、広田という人物と出会い戦争回避の努力を知るに及んで、昭和史検証の必要性を痛感したのではあるまいか。とりわけ、「長州の作った憲法が日本を滅ぼす」と述べて軍部に抵抗しながら、戦争責任について決して自己弁護せぬ広田の言動は、城山氏の心を強く動かしたことだろう。だが氏は、広田に対する共感や敬愛を安易に作品の表面に出さず、客観的な記述を守り通している。深い哀惜の念を胸の奥に秘めながら、この記述方法に徹底することによって、『落日燃ゆ』は広田弘毅への頌徳表(しょうとくひょう)ではなく、彼に手向けられた真の鎮魂曲になりえているのである。


昭和六十一年十月、前毎日新聞論説委員長

出典:落日燃ゆ/城山三郎/新潮文庫


第32代 内閣総理大臣 広田弘毅

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/183/




続きは以下の記事です。


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この自叙伝、最初の記事は…


この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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