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(3-5)不思議な力【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

小田原塾

 そんな折、父が三叉神経の障害で酷い蓄膿になって入院したことがあった。父は手術が決まっていたのにその手術を拒否して、「氣」を使って触れずに痛みを取るという不思議な会に通っていた。そして、しばらくすると父はそこに入会して「氣」を通す(流す)側になって、母とその勉強を始めていたらしい。

 両親が勉強を始めるまでの細かな経緯は良く知らないが、父に「小田原の塾に行くように」と言われ、何の気なしに言われるままに出掛けたのだった。その場所に行くと、何か新興宗教をイメージさせるような簡単な装飾と何かのシンボルが壁に掲げられていた。

 部屋に入らされ、席に座っていると「起立してください!」と声を掛けられた。次に「目を閉じてください!」と言われ、目をつむると「両手を本源にかざしてください」と、壁にあるシンボルに向けて両手をかざすよう促された。続いて「宝珠開命!」と女性の大きな声が部屋に響き渡った。

 正直、全く意味が分からなかった。ただ、親が息子に酷いことをするはずが無い…という信頼が、その違和感を少し中和した。

 しばらくして「目を開けてください」と言われると、そこにいた他の人たちから次々と「おめでとうございます!」と拍手をされた。何ともぎこちない祝福に、ますます良く分からなくなっていたが、直後に「何故、開命を決意したのですか?」と、その時の新人らしい(私を含めた)数人は一人ずつコメントを求められた。他の人は「病気を治すためです」とか「家族を守るためです」とか話していた。程なく私にも順番が回ってきた。突然連れて来られ、何故ここにいるのかも理解出来ていない状況にあって、その雰囲気に飲まれてしまい、つい私は「幸せになるためです…」と、心にも無いことを喋ってしまっていた。そのとき、父は満足そうに見えた。

 こうして「氣」を通す(流す)練習のために、夜の小田原まで、週一で通うことになってしまった。

 この一連のことは、総てが為されるがままで、まったくと言っていいほど私の意思は関与していなかった。判断することが出来なかったと言えばそれまでなのかも知れない。それでもその塾に通わせていたものが何なのか、今もってよく思い出せないが、あえて言うならば、それは、親への信頼感だったのではないかと思う。この時は、親は子供に対して酷いことはしないものだ、と言う安心感はまだ揺らいでいなかったのである。


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強引な実践

 ある夜、塾長の女性が「直江君はもっと人を通さないと(氣を流さないと)駄目!今夜これから一番の親友のところへ私を連れて行きなさい!」と強引に練習をさせようとしてきた。

 この時は、翌朝も仕事が早く、塾が終わったのが 22時近くであり、これから友人を訪ねることは本当にしたくはなかった。しかし何度も断ったのにもかかわらず、終には塾長の女性は私の車に乗り込んで、まったく動こうとしなかった。途中で諦めてもらえば良いと思ったが、実際はそんなに甘くはなかった。

 車を出しても塾長の女性は降りることなく、結局、友人の家に着いてしまった。時計を見れば 23時近くになっていた。そんな時間の急な来訪にも、友人は家の外まで出てきてくれたのだった。

 塾長の女性は「さぁ、痛いところがあったら直江君に言ってね!彼があなたの痛みを取ってくれるわよ!」と友人に話し掛けた。友人は怪訝そうに「お前、何やってんの?」と呆れ顔だった。そして、友人が形だけ付き合ってくれたことで、ようやく塾長の女性は満足して帰ってくれたのだった。情けないことに、自分でも何しているのかよく分からなくなっていて、とにかく早く終わって欲しかった。

 こんなこともあって、ほとほとこの勉強に嫌気が刺していたが、塾では全く知らないあかの他人が、私が通したこと(氣を流したこと)で「楽になりました!」とか、「痛みが無くなったね、不思議…」などと言ってくれたことが、実は何度もあった。とにかく、何か不思議な能力らしきものがあることは否定できなかったが、勉強の仕方や会の雰囲気がどうにも嫌で、その後、塾には行かなくなった。母もその会には通わなくなったようで、最後は父だけが続けていた。

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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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