(3-9)店長の日々③ 転機【 45歳の自叙伝 2016 】
懐かしい感覚
数年ぶりの町田の店はカジュアルなパスタ屋となって、喫茶事業からレストラン事業に店籍が移っていた。外観や店内は大きく変わっていなかったが、厨房の設備が大幅に変更されていて、ちょっとした料理も出せるようになっていた。雰囲気としては、レストラン事業に来て最初に担当した欧風料理の店に近かったが、数字を見てみると、町田店は利益を出せず低迷していた。
まずは利益を出せるようにしないと…と思うのは当然だった。そしてその為に、まず自分自身が接客の楽しさをもう一度取り戻そうと、店に愛着を持つように心掛けるところから始めたのだった。具体的にはお客様の不便や不満の種を取り除くことに始まり、手作り感が出ても構わないと、手書きのポップやメニューを増やしたり、従業員にもお客様に喜んでもらえる楽しさを教えたりと、店にとって良いと思えることを早い段階から行っていったのである。すると常連客も増え始め、数ヶ月もすると少しずつではあったが利益が出始めた。お客様も近くに感じることができ、次第に接客の楽しさを思い出していくようだった。
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オープンとクローズ
そんなある日、本社から町田店の利益を上げる為に何が出来るか、ヒアリングをしたいと連絡が入った。支配人は「俺もいろいろ調べているけど、会社の利益の為に、お前なりのリサーチと見解を頼むぞ!」と言ってきた。
私は店の立地条件や、会社としてもっと利益を上げるにはどうしたら良いか、頭を白紙にして、客単価や回転数、客層、近隣の競合店の分析など様々に考えていった。結果、客単価が多少下がって、原価率が上がっても、今より客数増が見込める立食い蕎麦か、帰宅途中のサラリーマンをターゲットに立呑みを提供する店への業態変更が得策なのではないかと思い至った。
そのことを支配人に告げると「お前さ、店への愛着とか無いの?」と、現場の店長自らの業態変更案に少し驚いたようだった。もちろん私も店への愛着は強く持っていたが、それなりに継続して今より利益を見込める形となると、この業態に拘っていると何も解決しないように思え、会社全体として持つ資源やノウハウなども勘案すると、この業態変更案はそれほど無理のない内容に思えていた。
数日すると本社から「しばらく店先の通行量調査をさせてもらいますね」と連絡が入った。私は「あぁ始まったな…」とすぐ感じた。ここ最近、パスタ屋としても利益は出てはいたが、それは経常利益ではなかった。会社が不採算店舗のテコ入れするのは当然で、調査を踏まえてどういう決断をするのか、私たちは見守るだけだった。
その調査も終わって半月も経ったとき、支配人から「言うとおりになったよ!お前、店に引導渡したな!」と苦笑いされることとなった。結局、町田店は立ち食い蕎麦屋への業態変更に決まってしまった。それからの会社の動きは早かった。年度の切り替えを待つまでもなく、決定後一ヶ月足らずで町田のパスタ屋はクローズすることになったのである。何の因果か不思議なもので、私は町田店のオープンとクローズの両方を経験することになってしまった。
引渡しの前日となり、総ての片づけを終えて空っぽになった店内は、生まれたばかりの赤ん坊に戻ったようでもあり、白装束をまとった死人のようにも見えた。まっさらになったのだ。最後の電気を消して真っ暗になると、外を走る車のライトがちらちら寂しく店に入り込んだ。
奇しくも、町田店最後の日に手伝いに来てくれていたのは、新宿NSビル店を私の後に引き継いだ、当時新米のあの一つ年下の店長だった。その夜は二人で呑みに出たが、どこかお互い感覚が近いところがあったのか、いろいろと忌憚なく懐かしい話をして、店や仕事への愛着や、上司のこと、会社員としての限界について、家族を守るために会社の歯車になるのか…など、そんなことを話して、思いのほか安い酒は進んだ。
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スタンドコーヒー事業への異動
町田店のクローズ後、しばらく私は担当店舗のない「店長」という、要するに宙ぶらりんな状態にあった。その間は、人手が足りない店舗の手伝いに出たり、支配人の手伝いをしたりと、雑務をさせられることになった。今までは毎日通う店舗があり、部下やスタッフも常に居たはずなのに、急にそれら背負うものが無くなってしまうと、どこかへなへなと力が抜けるのを感じていた。先が見えないまま、そんな状態が 10日も続くと私は会社のお荷物なのではないかと思い始め、手伝いに出た先での風景も虚ろに灰色に見えてきたりしていた。
程なく、辞令が出ることになった。それはスタンドコーヒー事業への異動だった。この辞令は全く予想せずいて、私はショックを受けていた。それは接客がほんの一瞬で終わってしまう物足りなさと、接客意識など高くなくても商売が成立していそうなことへの嫌悪感で、正直、あまりやる気の出ないものだった。好きでやってきたテーブルサービスから離れる実感が湧くと「これは左遷と同じだ…」と、どこか歪んだ感覚にもなった。
ただ、それでも「俺はこの会社の社員なんだ」という気持ちが新しい現場に足を向かわせた。同時に「家族を守らなくちゃ」という思いも大きくその裏側で働いていた。そして次第にそのこと以外には脇目を振らないように、サラリーマンとしての自覚を、無理やりにでも意識し直すことで、どうにかこの悪感情を中和しようとしているようでもあった。
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未経験の現場
新たに担当したスタンドコーヒー店は新宿駅構内にあった。駅構内ということで電鉄が相手であり、百貨店や駅ビルとはまた異なった緊張感がそこにはあった。部下には私と同じ年齢の男性社員が一人いて、後は 20歳位までの若いアルバイトが多数を占めていた。その雰囲気はどこか無神経でふわふわして、まるで高校の教室を覗いているようだった。それでいて作業自体は簡単であって、特に社員が不在でも、店は一見何の問題もなく営業がなされていた。私はテーブルサービスとは違う、このどこか薄っぺらなサービスに、やっぱり嫌な違和感を持った。
一方で、この現場は想像以上に作業効率が優先されていた。それは会社が既にノウハウとして持っていたものだった。そしてこの簡単な作業の連続は、適応さえすれば高校生でも十分通用しそうなものであった。それ故にこの現場においては、社員かアルバイトかはさほど重要ではなく、年齢や性別もまったく関係なく、接客意識よりも作業の速さと正確さが一番大きな物差しだった。
しかし店長として、このスタンドコーヒー店を体験していろいろと分かってきたことがあった。それは町田店をクローズに追い込んだ薄利多売のスタイルが、その客数さえ確保できていれば、莫大な利益を産むということであり、その利益追求には徹底した効率化が必要であるということ、特に最後にはスタッフの連携の良し悪しが、売上と利益に影響するということだった。また、飲み物が主体であるということで全体の原価率も比較的抑えることが可能で、人件費もテーブルサービスほど必要とせずに、実際は大きく利益を産み出す、大変良く出来た仕組みであったのだ。
振り返れば、この店を始めとするスタンドコーヒー事業は会社を支える屋台骨であり、実質的な大黒柱の一つであった。そう思うと、勝手に左遷とばかり思い込んでいたものの、考えようによっては栄転ではなかったか…と少しずつ思うようにもなり、あの花形レストラン事業の浮き沈みを事実上支えているのかと思えると、前向きに吹っ切れるようで、いくらか気持ちも軽くなるようだった。
実際の現場に立つと、やはりあのふわふわとした無神経な店の雰囲気がどうにも鼻についた。私は早めのスタッフ入れ替えを念頭に、各スタッフを良く知るべく、営業の最中でもスタッフとの会話を増やしていった。するとこの店には派閥があって、実は思いのほかスタッフ同士がギクシャクしているのが見えてきた。また、作業の早いリーダー的な女性がいたのだが、彼女の強い言葉と一方的なレッテルの貼り方に、他のスタッフがストレスを感じていることも分かってきた。そして様々な問題解決には、まず彼女の影響力を外さないといけないと、とても心苦しかったがその彼女を辞めさせたりして、今まであまりしなかったことも行っていった。同時に、新たに多少人生経験があって、私より幾らか若く、他の若いアルバイトと私との年齢差を埋めるような女性を採用してみたのだった。これは結果的に店にとっては大正解だった。その後、同じような条件のスタッフを数人採用することで、ふわふわとした無神経な店の雰囲気は解消されていった。
それから先はスタッフのモチベーション向上に取り掛かった。先ずは、お客様に対する姿勢を自ら見せることに始まり、スタッフにその思いを伝えながら、責任を持たせ、気に掛けてあげることに注意するようにしていった。少し余裕が出てくると、お客様との一瞬のやり取りにも価値を見出せるようになっていた。そこにテーブルサービスの接客感覚を入れ込みたいと思う私がいたのだ。そして、店の雰囲気は次第に良くなっていった。
スタッフを連れた呑み会も増えていき、私が思うことを社員やメインスタッフに伝えれば、その内容は他のスタッフにもすぐに伝わった。駅構内の店ならではのラッシュアワーの激しい忙しさも、気の通ったスタッフ同士にはむしろとても心地良い時間となっていた。まるで生き物のように店が有機的に動いているのを、私は久しぶりに見ていた。そうだ、店は良くなっている…。ただ、それでもどこか物足りなさを感じていた。それは店についてどうこうと言うのではなく、実は自分自身についてであった。
それは辞令とは言え、スタンドコーヒー事業に異動して、強制的に引き離された格好にあったテーブルサービスへの思いが、やはり満たされていないということが大きかった。この先ずっとスタンドコーヒーを続けていくのかと考えると、どこかテーブルサービスが遠いものに感じ、胸にぽっかり穴があいたような感覚にもなっていた。そして、30歳を過ぎて、このまま会社の歯車として生涯残るのかと考えると、自分の可能性が摘み取られるように思え、不意に人生が終わったかのような焦燥感に駆られていった。そうなると、以前に思い描いた夢がふつふつと蘇って、まだ当てなど無いにもかかわらず、次第に会社を辞めることを考え始め、何か自分を活かせる仕事はないか…と父に相談したのだった。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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