(3-8)店長の日々② 挫折【 45歳の自叙伝 2016 】
駅ビルの大型店舗
百貨店の地下にあった欧風料理の店 での勤務も一年近くになった頃、再び異動の命令が下った。次は新宿駅の駅ビルにある、100席を超える客席を有した、予算月商 1500万円近くになる、社内でも指折りの大きな店舗だった。この駅ビルの店はイタリア料理を出していたが、既に開店して三年目となっており、なんとその開店以来、毎月売上が落ち続けていた。この店は売上の回復が急務であり、早急なテコ入れを会社は要求しているとのことだった。
しかし、この店に異動して最初の月末に、すぐ問題はおきた。それは前月の棚卸残高の異常だった。計算すると、先月は今月の棚卸しの三倍の残高で、このままでは今月の払い出しが跳ね上がり、どうにも異常な原価率になってしまっていた。早く言えば架空在庫である。
そのことを前任者に問い質すと「そんなはずは無いですね…」と、とぼけた風で埒があかなかった。そのままでは書類として提出する訳にも行かず、とにかく、その前任者と一緒に直上の支配人代理に相談しに行くことにした。話を切り出し、ことの次第を説明していると、なんと驚くことに「お前ら、二人でおかしなことして、変な数字作ってんじゃねーのか?」と疑われてしまった。続けて「俺の店から在庫調整してやるから、よく覚えておけよ!」と、恩着せがましく言われ、二人して叱られる始末となった。何とも釈然としない顛末だった。
その夜、その前任者と呑みに行くことにして改めて問い直してみた。すると実際の話は、あの直上の支配人代理が、駅ビルのイタリア料理の店で何度も支払をせずに飲み食いをし、あってはならないことだが、売上を抜いているのを、ずっと前任者は逆らえずにいたとのことだった。
結果、必然的に原価率が上がることにもなり、それを埋め合わせするかたちで、棚卸残高を膨らましながら、その場しのぎの月末書類を作成して今に至ったとのことだった。ならば、本当は私たちが怒鳴られることなど何一つ無かったのではないか!むしろおかしな数字を作ったのは、直上の支配人代理ではないか!…と心の底から憤るのを感じた。
呑みながらいろいろと話をして、段々と分かり始めてきた。その前任者は学生時代にはラグビーをしていたスポーツマンで、しかも私と同じ年だということ。フェアプレーを大事にするスポーツをしてきたその前任者が、直上の支配人代理に逆らえずにいたのは、様々に理由があったのだが、その話をしている前任者は、とても悔しそうにして、詫びを入れてくれた。そして、その事情が見えてきてしまうと、どこか同情をしてしまうのだった。
しかし、とてもそんな状態で、直上の支配人代理に気持ちがついて行くことなど出来なかった。後日、さらにその上司にあたるレストラン事業の支配人に一連の相談をしてみた。すると「直ちゃん、今回は俺からあいつ(直上の支配人代理)に言っておくからさ、無かったことにしておいてよ」という言葉が返ってきた。とっさに支配人もこのことを把握していたようにさえ思えてならなかった。正直、腐っていると思った。会社の花形と思っていた事業部の驚くべき実態だった。
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やりづらい現場
さて、新しく赴任したそのイタリア料理の店では、実のところ前任者のカラーが色濃く残っていて本当にやりづらいものがあった。具体的には前任者独特のカリスマで店がまとまっていたようなところがあって、後任となった私にはスタッフがなかなか馴染まず、その距離を縮めることが出来ずにいた。そして次第に店長である私の方が疎外感を抱くようになってしまい、これは面倒なことになったな…と思い始めるぐらいだった。
こう言うことなら一度スタッフの総入れ替えをして、一から教育し直すことも考え、そのことを支配人に提案したこともあったが、「予算も無いのに、そんなこと出来るわけねーだろ!スタッフを活かせないお前が悪いんだろうが!」と、それは一蹴された。開店以来ずっと売上が落ちている最中、目先の利益確保の為に人件費削減ばかりが迫られて、求人費などに費用など回せないというのが支配人の考えだった。つまり、会社は利益確保を迫り、その為に、レストラン事業は人件費削減という方策を採ってその体裁を保ち、しわ寄せは現場に来るという構図であった。俗に言う「ヒト・モノ・カネ」ではなく、「カネ・モノ・ヒト」といった具合だった。
前任者が育てたスタッフと、しばらく仕事をしていると、大規模店舗ならではの営業方法があることにすぐ気が付いた。もしかしたら前任者の営業方法に気付いたと言った方が正解だったのかもしれないが、その中身は客席の回転数を上げることであり、スタッフの連携がスムーズであることが重要ということだった。もちろん、そのスタイルはある程度の機能を果たしていたのだろうが、それでも結果としては売上が落ち込んでいたのであり、お客様の満足よりも回転数を上げるスタイルに自分は疑問を持っていた。人件費削減を言われる中で、前任者もそうするより仕方なかったのかもしれないが、それでも引継ぎのときの前任者やスタッフたちを見ていると、ただ楽しい雰囲気を作っているだけで、まるで大学のサークルのように見えたのだった。私はどうもそこに問題があるように思えたし、ハッキリ言えばサービスへの意識は低かったのである。
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崩壊の兆し
ひとりひとりのお客様の満足が蔑ろにされ、売上など上がるはずが無い…と感じながら、会社の求める利益確保の為の人員削減と言う、尻つぼみな負のスパイラルから脱却するには、とにかく今いるスタッフの意識を変えるしかないと私は考えた。そして、改めてスタッフにサービスの仕方や考え方の指導を始めたのだった。
しかし、そのスタッフたちからは「店長、忙しいときにそんなことやってられませんよ」などと言われてしまい、実際の営業も、私の指示は混乱を招くだけで、作業が慌ただしくなると、考えていたサービスのほとんどが出来ない状況に陥っていった。今にして思えば、当時の実際は、人員削減だけが行き着くところまで進んでしまっていて、もうすでに、まともなサービスの提供が不可能に近い状態にあったのだろうと思えた。
いずれにしても、スタッフたちは作業に忙殺され、店を回転させることで手一杯となり、同時に私自身も作業に埋没していくしかなかった。そうなるとスタッフたちとの営業方法の食い違いが顕わになってしまい、メインスタッフたちの気持ちが次第に私から離れていくのが肌で分かるのだった。認める気は全くなかったが、一方的にリーダー失格の烙印を押されたような気にもなって、まるで店が漂流して行くようにさえ感じた。何とも情けない気分だった。
スタッフたちとコミュニケーションが取れないまま、ただ時間は過ぎていった。現場のモチベーションは当たり前のように下がっていった。スタッフは不注意でつまらないミスを頻発させ、私はその都度、細かな対応に追われていった。裏を返せば、私が店長としてきちんと機能していなかったのであり、会社は赴任して二~三ヶ月であっても、売上の伸び悩み、利益の低迷に対する責任を求め始めていた。具体的には、売上が無いならもっと人員削減をして利益を確保しろ、ということであり、暗に店長自身が休みを削ってでも店頭に立ち、アルバイトのシフトを減らせと言うことであった。これは当時の社内の他店舗においてもある程度同様で、私に限らず、他の店長たちの多くも同じように身を削った利益確保を迫られていた。
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こんなはずはない
ある朝出勤すると店先にガス不始末の警告書が置かれていて、ビルの管理事務所に始末書を提出したことがあった。支配人はその責任を私に求めて「今後、お前が店を毎晩点検しろ!」と命令してきた。私はそれ以来、休日であっても夜になれば片道一時間の電車に乗って店に顔を出すことになってしまい、家族の時間は制約を受けていった。これはスタッフの意識の低さが招いた結果であり、責任は私にあった。こうしたことがあると、心の中でスタッフを責め、前任者を責め、そして自分を責めているうちに、あろうことか自らのモチベーションを維持することが辛くなっていった。
そしてその年の忘年会だったか、あの直上の支配人代理から「俺のところに、お前の店のバイト連中が愚痴をこぼしに来ているぞ! ちゃんと姿勢を見せないから人がついて来ないんだよ! しっかりしろよ!」と言われ、ひどく落ち込まされたことがあった。こうなると、今までの理想なんかはどこか吹っ飛んでしまいそうになり、自分の能力不足に嫌気が刺し、誰も理解者が居ないと感じると気が遠くなりそうだった。そして、新宿NSビル店 から異動したときの真逆を今味わっているかと思うと本当に悔しく、忸怩たる思いで「こんなはずはない、こんなはずはない…」と何度も心の中で繰り返した。
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笑顔の効用
そのイタリア料理の店に赴任してから一年を過ぎた頃、レストラン事業の支配人に異動があった。新しい支配人は私の店に顔を出すと「お前、顔が暗いな! そんなんじゃ、お客様は逃げてくぞ!」と笑顔で話しかけてきた。ハッとさせられた。思えば、ある時から接客の楽しさを忘れてしまい、会社から求められる数字に追い回され、スタッフにイライラして、自分の不甲斐なさに落胆ばかりして、すっかり自信を失っていたのだ。
新しい支配人は「レストラン事業は店長がみんな暗い!この雰囲気を変えなきゃ駄目だ!」と言って、とにかく笑顔を出すように指示をしてきた。私も腹では笑えない状況であっても無理して笑うようにしてみたのだった。恐らくはしばらくぎこちなかったのだろうが、なんとか笑顔を出すことを心掛けていると、接するお客様やスタッフのリアクションが変わったように思えてきた。スタッフに少し落ち着きも出てきたように感じ、私の方にあった違和感や苛立ちも少しずつ解消されていくのがわかった。
要するに自分が変わらなければいけなかったのであり、笑顔が大切であることは分かっていたが、実行しなければ何の意味も為さなかったのである。そのきっかけを新しい支配人は与えてくれたのだった。
ただ、このイタリア料理の店を任されている時のことを振り返ると、やはりあの時の私は、リーダーとしては不適格だったろうと思う。スタッフに寄るものとは言え不祥事が頻発していたのは、私の指導不足の現れであり、もっと店の秩序は保たれるべきだった。あの建白魔と言われた渋沢栄一にならって、もっと会社に様々な提言をすべきだった。駄目なものは駄目、出来ないことは出来ないとハッキリ言って、自分の色をしっかり出すべきだった。給料の為にどこか会社の下僕となり、悪いレッテルを貼られないようにと小さくなって、反対にそのレッテルを自らに引き寄せてしまったのだろう。そして何より自分に言い訳けばかりして、私らしさが消えてしまっていた。まして、サービスが伝説になるなんて程遠かったのである。それらの結果が当然の帰結として現れていたに過ぎなかったのであり、以前に聞いた「総ての結果の源は自分」ということそのままだった。
ともあれいろいろあったが、それでもイタリア料理の店での勤務は丸二年になろうとしていた。気付けば店もどこか私の色になってきているようだった。この頃、会社は定期異動の時期になっていた。社内では様々な噂や憶測が飛び交いっていた。しばらくして社報が出ると、案の定、私にも辞令が出ていた。しかし、その異動先は思いがけず、数年前にオープンに携わった、あの町田の店だった。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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