(5-9)現実を見据えて② 劣等感と業【 45歳の自叙伝 2016 】
仙台からの帰り道
その頃、市川さんからビジネスの話を頂いていた。仙台からの帰途、夜も0時近かった車内、市川さんの提案について父と話をすると、母は「あんた、何かお金の掛かるようなことをするんじゃないんだろうね、大丈夫なのその話!」と、母自身に迷惑が及ぶのを嫌がるように父と私を疑った。
当時、会社の厳しい状況に喘いでいた私は、母のリアクションをとても身勝手なものに感じてしまい、思わず「市川さんだって、協力したくてしている話なんだよ!(自分たちが)しっかりしていれば済む話なんだよ!だいたい一人は社長(父)で、一人は会長(母)だろうさ!なのに何だよ、こんな体たらく、こっちは明日朝早くからバイトに出るんだよ、何も知らないくせに!」と、矢継ぎ早に怒鳴ってしまった。
父は黙っていた。母は驚いたようだったが、終わりに「あんたはそれ(アルバイト)を頑張りな」と言った。私はその言い方にも、どんな思いでいるか、ろくに理解もしていないくせに、まるで他人事のようじゃないか!…と更なる苛立ちを覚えてしまった。
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母の発言
数日後、市川さんの提案について打ち合わせを行った。参加者は市川さんと両親、私の四人だった。このときは母いろんなことを話した。
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ゆがみ
私は、両親を社長と会長として頂く不幸を感じるようになった。しかし、それでもこの状況から離れることも出来ないもどかしさや、そうさせている私自身の実力の無さにも気づくと「この年になって、まったく何をやっているんだ…」と情けなく思えてきた。一方で、両親が何故そうなのかと言う分析も行わずにはいられなかった。
それを考え始めたころ、その分析より前に「所詮一人なんだ。ならば両親は居ても居なくても同じと決めよう。あてにするから不満になるんだ。結局、一人でやらなければいけないんだ。」という思いが沸いてきた。これは分析ではなかったが、一つの答えだった。勢い、自ら両親に話しかけることは極力避けるようになり、出来るだけ意識しないように、むしろ意識する私の心に問題があるのだ…と、やり過ごそうとした。それに思いの一片を述べたところで、真意を汲んでもらえないだろうという諦めもあり、その思いの一片が誤解を生むのだったら最初から言わないほうがマシだ…という考えもあった。
こうして私のリーダーたる両親へ要望は、直接訴えることなく歪んだ形で進行していった。地方会場の行き帰り、車内で否応無しに聞かされる両親の会話に、いちいち心はアレルギー反応を起こしていたが、私はさらなる両親の分析を続けていた。
繰り返し聞かされる両親の会話に、ある時、他者への大きな事実誤認があるのを私は知った。こんなことは誰しも完璧ではない訳で、幾らでもあるのだろうが、何と言おうか、どこか自己中心的で「上から目線」な両親の物の見方に嫌悪感をもった。そして、両親に共通する「上から目線」が何を持って成立するのかを考えるようになった。
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劣等感の弊害
心にも因果関係はある。何らかのアクションによって、自らのリアクションは発生する。あの「上から目線」の原因は何か。これは両親に限らず、どんな人にも当てはまるものとして、人の心の動きに共通するものが何かしらあるだろうと推論した。
上から目線という心理。人より上位に居なければ済まないという心理は、裏を返せば、ほぼ気づかずにある様々な弱さであり、突き詰めて文字を当てれば、それは劣等感に他ならないだろうと私は結論づけていった。その後、私は劣等感の弊害を考えるようにもなり、さらに分析を続けた。当時のメモに【 指導的立場にある上位者の、自らの劣等感への対処が不十分なときの流れと弊害 】というタイトルで書き連ねたものがあったので転記してみる。
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一族の業(カルマ)に向き合って
劣等感が招くものとは何か。もちろんメモが総てではないし、正しいかどうかも定かではない。こんなのは私の身勝手な解釈だ。ただ幾つか言えそうなのは、劣等感が虚勢となり、自らのことで精一杯となるとき、相手のことは後回しとなり、自己都合が優先され謙虚さを失う。すると周囲は自然と距離を取り出すのであり、不幸なことに当人は「裸の王様」となる。良く言えば孤高の人なのだろうが、そうなると、実際は自己修正の効かない状態にあるのであり、劣等感というエゴに縛られているのである。このことが無自覚に行われているとしたら、これほど人生においてマイナスなことは無いのではないか。しかもこれは、決して当人だけの問題ではなく、その当人の庇護を受けるような家族、一族、大切な仲間に甚大な影響が及ぶのである。
私はこのように感じるようになって、「人から言われなくなったら終わりだよ」とか「我以外皆師也(われいがいみなしなり)」という言葉を思い出した。そして、知らぬ間に自分がアンタッチャブルに成ってはいないか、とどのつまり、謙虚さや敬う気持ちが欠如してはいないだろうか…そんな、どこか恐れにも似た問いを自らに投げかけた。
何故なら、両親にある劣等感を見たとき、私自身にもその劣等感が無いとは言い切れなかったからである。ふり返れば、私の二十歳前後や、サラリーマン時代、等々…今もって、どこかしら似たような心境はあるはずであり、何より否定できないのは、蛙の子は蛙、私は両親の子供であるという事実、両親の影響を受けていないはずが無かったからである。
そして、こう言った繋がりの先に何か一族の業(カルマ)のようなものを感じると、この問題の本質はそこに縁ある私自身にあると思え、結局は総て自らの事として取り組むより他なし…という気持ちになるのだった。こうして私は車内での両親の会話を黙って聞きつつ、過去のことを思い出しながら、自らの内に答えを見つけるべく自問自答を繰り返した。
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思わぬ問題
そんなとき、弟家族が厚木に引っ越してきた。それは両親と弟家族とのやりとりで決まったものらしかったが、どうもしっかりとした意思疎通がなされないままの引っ越しだったようだ。すると弟の嫁は、引っ越しの内容と両親への不満を私の妻に訴えた。しかも、これは両親のことなのだから、直江家全体の問題として取り扱って欲しいとのことだった。
妻は自身のこれまでの思いと重なるところも多々あったのだろう、弟の嫁を同情して、ことの改善と収拾を長男である私に迫ってきた。弟の嫁の具体的な訴えは、プライバシーの確保、生活の安定、それから望まない引っ越しの解決、等々…であった。
妻から私への指摘は両親の将来にも及んだ。それは、もし両親に万が一のことがあったとき、我が家の家計では両親を支えられる余裕は無いということ。それに両親の経済状態はそもそも大丈夫なのか。もうこれは一族全体の問題なのだから、両親と兄弟全員で会議を開いて解決して欲しいと訴えてきたのだった。
世間一般の人からすれば当然そう思うであろうことは想像に難くなかった。むしろ両親のほうが楽観し過ぎていて、弟の嫁とは(ある意味、妻とも)かなりの温度差があった。問題は既出の事柄ひとつひとつも重要であるのだが、むしろ、守る側の上位の人間が、守られるべき家族の気持ちを理解していないことだった。
このときそれまで私と両親の間で感じていた違和感と言うか、歪みが一族全体に拡大し始めたことを感じた。正直、まずいな…と思った。次に思ったのは一族の連帯感の崩壊だった。そして、もしこれ以上、嫁や婿からマイナスなレッテルを貼られるようなことがあれば、いずれ孫たちに出るかも知れない悪影響を危惧した。そしてより現実的には、弟家族と両親との不協和音の拡大、やはり経済の問題はとても大きかったが、何より気掛かりだったのは相手の気持ちがわからない両親の強引さだった。
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母の認識
ある仕事の帰り、両親の車内での会話に驚きと腹立たしさを覚えた。母は弟の嫁とのやり取りの中で、母の思いが伝わらない弟の嫁に対し「良かれと思っているのに、困るのは向こうなんだから、泣きついてくるまで、しばらく放っておこう!」と父に喋ったのだった。私は相手のことを理解できていないのは母の方ではないのか、一方的に恩を着せて何と強引なんだ、弟の嫁が可哀想に…と思った。
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弟とのやりとり
私は弟と二人で話すことにした。即座に家族会議を開くことは、母には厳しいことだろうと想像に難くなく、一連の問題はこの段階で解決できればそれに越したことはないと考えたからで、妻の提案をそのまま受け入れる訳にはいかなかった。
私が事情を聞くと、弟は引っ越しの経緯を細かく話してくれた。弟の嫁についても「騒ぐ人だからね…」と大袈裟になりやすい嫁と、楽観しすぎる両親の間のギャップがあることを話していた。これから先についても「大丈夫じゃないけど、しょうがないんじゃない。やるしかないよ」と言った。私も自分の事情を話してみたが、弟は「兄貴も大変だね」と気遣ってくれた。その時は直接的な解決方法など見つかる訳でもなかったが、お互い話せたことは有意義に思えた。振り返ってみれば、弟と家族や一族のことをゆっくり話したのは初めてだった。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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