(4-5)カウントダウン【 45歳の自叙伝 2016 】
全国会議
ヒーリングの勉強をしたい人が徐々に増えていく中で、父に随行して全国を回る人も現れてきていた。そのサトルの会は、各地のお世話役が父を講師として招く形で運営されていて、会そのものは父の物ではないと言うことだった。それでも同じ勉強をしていて、以前は会場によって参加費や主催団体の名称など、様々に違うことも多々あり、サトルの会と言う名称も、各地の会場を渡り歩く一般の方の為に、便宜上決めたものらしかった。
そこで全国規模での名称をあらためて決めようと提案があり、会員相互の交流も兼ね、全国会議を伊那の長谷村で開くことになった。その準備の大半は私が担うことになったが、その会議も私が議長として取り仕切ることになった。当初、父は会議に参加せず(父がいると意見が出にくいだろうということで)、皆の会なのだから、皆で新しい会の名称を決めるように…という、父の意向に沿って会議は始まった。
会議では参加費や施術の時間とその内容、講師(父)への対応など、各地のお世話役が自己紹介を兼ねながら、それぞれが受け持つ会についての現状を話していった。会場により治療志向と勉強志向の違いなども浮き彫りにされ、父がいないこともあってか、用意した議題は思いのほか白熱した議論を呼んだ。様々に討論をして、お互いを認識し始めた終盤になり、ようやく新しい会の名称を決める段になった。
会議は予定していた二時間を超えそうだった。新しい名称が、前もって多くの会員から募集していた数々の候補名の中から、会議の出席者による決戦投票でもって、最終決定を向かえそうになったその時、父は突然議場に入ってきた。そして「新しい名称は、そもそも『知りたい会(父が始めて講師として呼ばれた時の会場名らしい)』から始まって以来、真理を勉強することが目的なのだから『真理を学ぶ会』が相応しいよ!」と言い放った。
しかし、この「真理を学ぶ会」と言う名称は、既に投票では却下されていた。それなのに誰も父に逆らう者はいなかった。むしろ迎合する人も何人かいたようだった。私もその場に流され何も言えずにいた。それがこの会の雰囲気だった。議長などお飾りに過ぎなかったのだ。そして、尽くしかけてきた議論が、突然台無しにされたような気持ちになって「要するに、父の会なんじゃないか!」と、私は心の奥で憤っていた。
とにかく、新しい名称は「真理を学ぶ会」となった。新名称について、ある一般の方から、オウム真理教の問題があるので「真理」という文言は絶対に良くない!と提案を頂いたのだが、父は「大丈夫、大丈夫。そんなの気にする方が良くない」と、いつもと同じように、まともに取り合わなかった。これは父の自信の現れなのか、何なのかよく分からないが、それにしても随分と大それた名称になったものだと、私は半ば呆れつつ、冷ややかに傍観するのみだった。そして、誰も父を止めることは出来ないんだな…と、やけに無力感に苛まれ、胸の奥で沸き起こる苛立ちの行き場を探した。
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東京第五期
東京では新人基本研修第五期が企画されていた。今回は初めて父以外の者が講師を務める研修となり、その講師は私と松村さんと内野さんの三人を予定していた。しかし、夏が終わり準備の最終段階になって、父から講師から内野さんを外すよう指示があった。何故かハッキリしたことは分からなかったが、当時、内野さんに対する父の圧力は日を追って厳しくなっていた。浅井くんから「内野さん、血尿が出たそうですよ」と聞かされたとき、日頃、父から強く言われているからだな…と、すぐに想像ができた。内野さんを講師から外す理由を父に尋ねると「内野さんには傲慢の波動があるんだよ、それに気付かないからだ!」と声を荒げて言った。
私は内野さんにあると言う傲慢について思いを巡らしてみた。しかし、何か深い意味があるのかも知れない…と考えてみたものの、正直、父の言っている意味が良く分からなかった。
しばらくして無理やり思い至らせた考えがあった。それは誰にでもあるような無自覚の劣等感を背景に、その自己防衛が故に、他者に対して少しでも自己を保とうとして、勢い張ってしまった自己主張が傲慢と誤解されたような、それこそ自然な心の動きなのではないか…と言う推測だった。簡単に言えば「(知らないと誤解され愚か者のレッテルを貼られないよう、馬鹿にされないように)そんなことなら、私はとっくに以前から知っていますよ」程度のもの。もちろん、内野さんがそのような言い回しをするはずもないことを私は知っているが…
でも、もしそうだとしても、そんな些細なことは内野さんに限ったことではなく、誰にでもあるのではないか? むしろ、それはよっぽど父のほうが酷いのではないかだろうか?…と思わずにはいられなかった。
そして、そもそもそんなささやかな自己防衛を、そこまで大きく大勢の前で愚か者呼ばわりすることもないのに、本当に優しくないな…と思えたが、情けないことに、それでも私は何も出来ずにいた。後日、父は一方的に不適格の烙印を押して、内野さんを講師から外したことを公にした。大変な誤解だな…と私は思った。
研修初日、私は松村さんと渋谷で待ち合わせ、講義の打ち合わせをした。会って話したことは、やはり内野さんのことだった。どこか今回の顛末は腑に落ちないことが多く、それはそのまま父への更なる抵抗感となった。松村さんには「この研修のテキストは父のものだけど、自分の好きなようにやらせてもらいますね」と、その思ったままを言わせてもらった。ただ、父が頑なに内野さんを外すその理由の裏に、私は今までとは少し違う、父が何かに炊き付けられているような違和感を持った。
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中野さん
それにしても、この頃の父はどうかしていていた。何と言うか、王様や皇帝のように見えるときがあった。気づけば周囲はイエスマンばかりとなり、誰も父に物申すことは無かった…いや、むしろ出来なかったのだ。実際は私もその一人に違いなかった。
こうなると、父に物申したい会員は自ら去って行くのみで、父にはそれが何故か分からないようだった。反対に、去っていった会員たちを悪く言うことも頻繁で、中野さんも父と一緒になって、大声でそのことを辺りに喋り散らしていた。この時の中野さんは「虎の衣を借る狐」そのものだった。父も中野さんの勉強に対する熱心さを高く評価していて、他の会員からすれば、父と中野さんに悪く思われることは面倒なことだったろうと思う。特に厄介に感じたのは、中野さんが思う他の会員への評価を父が容認していたことだった。
一般の方でもこの雰囲気は容易に察していたようだった。ある時、吉野さんが小声で「私は好きじゃないんだけど、先生とあの人(中野さん)なら勢いがあって、物凄い会になりそうね」と、マイナスの意味で感嘆して話し掛けてきた。確かに二人は名コンビに映った。所詮、表面的だったのだが、一見、場の盛り上げ方というか、表向きの楽しい雰囲気(面白く、楽しく、愉快に)作りは上手かった。
そもそも、会員(一般の方はもちろん)は身体を良くすることや、その為の勉強を目的として、父の不思議な力に引き寄せられていた。それなのに、父と中野さんから付けられる間違ったレッテルが、それぞれの立ち位置や評価となっていくことについて、多くの人は如何ともし難い居心地の悪さを思ったのではないだろうか。このまま進むと恐怖のカルト集団になってしまいそうな感じすらあって、吉野さんはこのこと危惧していたのだ。
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宇都宮・波動性科学
宇都宮で行っていた波動性科学の講義の際、父が内野さんを非難する中で「いつまでも改善出来ないと、僕が言われるんだよ!」と、みんなの前で怒鳴ったことがあった。それを聞いた者たちは「誰に?」と率直に疑問に思ったし、これは誰かに言わされているんだな…と直感したことだろうと思う。私はその時まだ知らなかったが、会員の何人かはそれが中野さんであると察しが着いていたらしかった。
このことを知っていれば、中野さんの内野さんに対する対抗心というか、ある種の嫉妬心があることを想像させ、先の父の言葉の真相は、中野さんを察して放った父のパフォーマンスであることが容易に理解出来るのだった。後日、神長さんは「そんなの、とっくに分かってましたよ、だから中野が悪いんだよ!」と話してくれたことがあった。いずれにしても父と中野さんの親密さが周囲に滲み出た一つの具体例であった。
とにかく、ここにきて父の内野さんへの攻撃は、重箱の隅をつつくようにエスカレートしていたが、その父を止めることは、もう誰も出来なかった。当時、内野さんの娘さんも宇都宮の講義に参加してくれていて、私は内野さん親子の心境はいかばかりかと心中を察していた。
ある時、宇都宮で内野さん親子と朝食を一緒にしたことがあった。内野さんは父の悪口など一言も言わず、むしろ「至らないところを教えてくださって、感謝しています。直江さんの仰ることには必ず意味がありますから…」と話してくれて、何とも複雑な気分になった。私が父の息子だから言葉を選んだのかも知れないが、それでも、その雰囲気は嘘ではなかった。
上記:父がテキストに使った「 新 波動性科学入門」
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十二月四日を前に
気持ちはますます父から離れていった。振り返れば、父はその刹那刹那、思い描くところに、ただエネルギーを注ぐだけの人であった。それが、以前は岡松くんや近江さん、今回は中野さんになっているだけに過ぎなかったのだ。反対に、父には意にそぐわない人や理解できない相手を悪く言う傾向も強くあって、通えない私の心は、行き場のない嫌悪感が増幅していった。
そして、父の表面的な接し方の中に、一方的で都合の良い、無配慮な心を見るのだった。それは相手の立場や状況を考えない、ひどく傲慢な心に映った。結果として宇都宮の講義後の食事会も、父や中野さんと一緒に過ごすことが私自身苦痛になり、父が倒れるまでの数ヶ月間、他の会員と別行動をして帰るようになっていた。そして、十二月四日がやってきた…。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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