(4-2)サトルの会【 45歳の自叙伝 2016 】
薬王石
さて、会社を移したところで状況は何も変わらなかった。日銭が入ってくるわけでもなく、父の仕事の話が進展しているかも定かではなかった。そこで考えるのは、とにかく売上を立てることだった。父は薬王石を売ればいいと言って、父の会(サトルの会)で売っている価格帯を基準に販売価格を設定し、説明書などを整備していったのだが、すぐにまとまった売上に繋がることはなかった。
そんな折、様々模索する中で「薬王石の石けんを作ってみよう」という話が持ちあがった。この石けんは半年ぐらいの試行錯誤を経て、多くの人の協力のお陰があって、ようやくきちんとした商品に出来上がった。
初め、この石けんはサトルの会の人たちに爆発的売れた。当然、この最大の功労者は父だった。私はこの時初めて、サトルの会の全体像を掴んだ気がした。それは全国の会員から一斉に注文が入ったからで、顔も知らない人たちの注文を処理していくうちに、自然と顧客名簿が出来上がっていき、それがそのまま会員名簿のようになっていった。この時ばかりは「はぁ、大したもんだなぁ…」と素直に父の実力を認めたものだった。
話は前後するが、サラリーマンを辞めてから、実質的に私は失業状態に陥っていた。それでも何かやれることをやろうと、空いた時間にパソコンスクールに通い始めた。また、父のことを少しでも知って、何か協力できることが無いかと考え、サトルの会に顔を出してみることにしたのだった。
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通すこと
サトルの会は厳密には父の会では無く、どうやら参加者が父を講師として招いているかたちをとり、その参加者たちが自主的に会場運営をしているものだと聞かされた。初めて参加した会場は、登記をし直す為に来たばかりの渋谷の法務局に近かった。そこでは手狭な部屋に 20~30人の老若男女が集まっていて、着いたときはどうやら父の講義が始まる前のようだった。
時間になり、参加者の前に腰掛ける父に対し、一同が起立して「おはようございます!」と、一礼をして着座した。父からは何も聞かされずにいて、私もその場の勢いで、思わず他の人と同じようにしてしまった。そして、まずは周囲に合わせて見たものの、ついこれまでの経緯と様々なことを思い浮かべると、その講義らしきものが終わる頃には「何で自分が頭を下げなきゃいけないんだよ!」と、たまらない違和感を覚えた。それでも「郷に入っては、郷に従え」の通り、ここまで来て、30過ぎの男が一人ふてくされたところで何の意味も無く、また、私の思いなど誰も知る由も無かった。
午後になれば、「あなた、直江さんの息子さんでしょ、よろしくお願いします。早速ですけどね、私の肝臓を通してもらえませんか?」と年配の女性が話しかけてきた。「あぁ、昔に嫌々やったあれだな…」と思わず心の中で呟いた…。そして、その日はひたすらに「氣の実践」を行うことになった。
この「通す」という行為(念と氣を流すこと・ヒーリング・氣の実践)を、私はこの後もずっと行うことになる。望んだ訳でもない何か不思議なもの。そして、この通すことから様々学びを得ることにもなり、これから、多くの人たちとのご縁を頂くことになっていった。
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岡松くん
サトルの会には岡松くんという、私よりも十二歳年下の医学生が通っていた。父は将来、この能力(「通す」ことが出来る力)を持った医者を誕生させ、現代医学に対抗するつもりでいたのか、岡松くんに大そう入れ込んでいるようだった。
実際、父はヒーリング(「通す」こと)に、医学用語を不可欠にしていた。ヒーリングを受ける人たちは、父の性格とその知識の広さに圧倒され、良い意味でその勢いに押し切られ、症状の改善を見て納得していた。そのヒーリングで読み解く心身の問題解決に、医学の知識は有効に作用していて、会員もそれを求めていた。
そんな岡松くんは、父にすれば彗星の如く現れた、時代の寵児のように映っていたのかも知れない。父は岡松くんに「人に教えることでの学びがある」とでも話したのか、ある時、岡松くんを先生にして、会員向けに勉強会を開けと言ったそうだ。
父は私にも、目黒で始まるその勉強会に参加するように促した。岡松くんの講義は説明が正確で納得が行くことが多かった。一方で父の話は、意味合いを自ら考える必要があり、同じ話を聞いているのに、人によってニュアンスが違ってくることが多々あった。私としては岡松くんの講義は、医学の知識を聞くことができ、大きく得るものがあった。
もう少しこの話をすると、当時、父と岡松くんの間は実の親子以上の親密な雰囲気があるようにさえ見えた。ハッキリ言えば「ベッタリ」と言った感じだった。そして、父の岡松くんへのその嘱望する眼差しや、誉めそやす言葉など…周りで見ていても、それはあからさまだった。初めのうちは見てみないようにしていたが、他の会員から「義明さんは岡松くんのこと気にならないの?」とストレートに尋ねられ、表向き平静を装ったものの、実のところ少々不愉快ではあった。そして、その思いは兄弟のことも思うと尚更だった、「今まで、あんな表情子供たちにも見せたことなんか無いじゃないか!」…と。
しかし、岡松くんに非があるわけでも何でもなく、彼は彼で父から何でも学ぼうと言う、そのピュアな姿勢があるのみで、何と言うか、実際に二人はしっくり行っているように見えた。私としては、年上で実の息子でもあるのに、このことをそれ以上気にするのも実に情けなく思えもして、気づけば心の中で二人との距離をおくようになっていた。そして、この状況にも次第に慣れてきて、私は私の信ずる道を行けば良い…と思うようになっていった。
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西脇さん
サトルの会の渋谷会場には学徒出陣された西脇さんがいらしていた。不思議と私のヒーリングを受ける機会が多くあり、その数を重ねるうち、身体のことよりも、いつしか西脇さんの戦争体験を伺う時間になっていた。
西脇さんは大井海軍航空隊(大井空要務分隊)を出て、沖縄海軍航空隊から古仁屋、最後は佐世保海軍航空隊で終戦を迎えたと言っていた。同期の仲間が各地で壮絶な戦死を遂げていった話など、書物からだけでは感じ取れないであろう、当事者としての感懐を伺わせて頂いた。私は「なぜ日本は負けたのか、何がいけなかったのか…」と言うことに関心のウェイトがあったのだろうが、西脇さんのお話を伺っているうちに、一兵士の目線で戦争がどうあったのか考えさせられた。
ある時、西脇さんが「もう持っていても仕方ないから、あなた、よかったらもらってくれないか」と、『牧之原夢幻(大井空要務分隊卒業五〇周年特集)』と『あゝ同期の桜‐かえらざる青春の手記』、『学徒出陣六十周年記念』のファイルをプレゼントしてくれた。『牧之原夢幻(大井空要務分隊卒業五〇周年特集)』には、若き日の西脇さんが端正なお顔立ちで爽やかに写っていた。『あゝ同期の桜‐かえらざる青春の手記』を手にしたときは、もう五分と読み進めることが出来なくて、胸が詰まって苦しくなった。西脇さんに私の読後感を話したら、「みんながあんな風に純粋だった訳じゃないけど、亡くなっていった奴らは本当にいい文章を残しているよ。大変な時代でした…」と優しく語ってくれた。
その後、しばらくして西脇さんは亡くなられた。私は千葉までお通夜に行かせて頂いた。遺影の西脇さんに向かうと、あの柔らかい眼差しが蘇るようだった。そして、計らずも預かった記録と記憶に、西脇さんの思いを受け継ぐような気持ちになって背筋が伸びた。
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社会文化功労賞
平成十七年になって、父は日本文化振興会による「社会文化功労賞」を受賞した。これは父の行っていたヒーリングとその功績に対して贈られたもので、日本文化振興会の人たちも「直江先生のお力でこれからも多くの人を救ってください」と話してくれた。サトルの会でも今までの活動が認められたと多くの人が喜んでいた。渡辺さんも「みんなの励みになるわね!」と父を祝ってくれた。
そして、この社会文化功労賞を受け、日本文化振興会の総裁で元皇族の伏見博明殿下を招き、受賞祝賀会を開くことにもなった。厚木のホテルで大きい宴会場を予約し、式の流れから食事の内容、招待状の発送から引き出物まで、様々なことを母と決めていった。祝賀会の催行にあたって、受付や会場案内などの役割分担は、一族に協力してもらうことにした。これらの準備については、サラリーマン時代の知識と経験を少なからず活かすことが出来たこと、またそれが、父と母の役にも立てたような気がして、この時ばかりは父の受賞に便乗して、少なからず私も嬉しく思った。
祝賀会には本当に多くの人に来て頂いた。伏見殿下の付き人が遅刻してしまい、普段は話すことが無いという伏見殿下自ら挨拶とお祝いの言葉を述べられるというハプニングもあったが、みんなの前であらためて授賞式を行うことが出来、オペラ歌手によるミニコンサートやヨガと太極拳の余興などもあって、それなりに盛り上がったのではないかと思えた。
肝心のヒーリングについては 、その内容が目には見えないということもあり、それまで父のヒーリングを受けてきた人たちによる「感動を語る」という時間を用意して、知らない人が聞けば奇跡にも映るであろう、その内容を宴席で語ってもらった。司会を依頼していた女性は、何人もの劇的なヒーリングの効果やその内容を初めて聞いて「私も受けても良いですか!」と、大いに驚いていた。
家族や一族には、父と母が行っている活動を知ってもらう良い機会と思っていたが、実際は、その一族が「役」で忙しく、また、場に馴染めなかったのだろうけれど、会場の外で時間を潰していたようで、少し残念ではあった。妻にも、この祝賀会を通じて、何か少しでも安心させられる材料になればと思っていたが、思うように伝えられたかどうかは疑問だった。サトルの会の会員にとっては、初めて会う人たちもいて、お互いにいろいろなことを共有できて、楽しく過ごして頂いたようだった。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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