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(5-6)参考資料~真の解放のために①【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…


武士道の淵源(仏教についての記述)

 新渡戸稲造の「武士道」に、仏教と瞑想の記述がある。文末、新しき天と新しき地とに覚醒する…と、さらりと述べられているが、この風景こそが、我々個々の現象世界に対する智慧である。

 まず仏教から始めよう。運命に任すという平静なる態度、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤(いや)しみ死を親しむ心、仏教は武士道に対してこれらを寄与した。ある剣道の達人〔柳生但馬守〕がその門弟に業(わざ)の極意を教え終わった時、これに告げて言った、「これ以上の事は余の指南の及ぶところではなく、禅の教えに譲らねばならない」と。

 「禅」とはディヤーナの日本語訳であって、それは「言語に表現の範囲を超えたる思想の領域に、瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」。その方法は瞑想である。しかしてその目的は、私の領解する限りにおいては、すべての現象の底に横たわる原理、能(あた)うべくんば絶対そのものを確知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある

 かくのごとく定義してみれば、この教えは一宗派の教義(ドグマ)以上のものであって、何人(なんぴと)にても絶対の洞察に達したる者は、現世の事象を脱俗して「新しき天と新しき地」とに覚醒するのである。

武士道 ( 岩波文庫 )


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ラマナ・マハリシの教え

 真我の探求にあたって「ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)」は外すことの出来ない書籍と思われる。この訳文は山尾三省氏によるものだが、訳文にある「自己」について、母は「真我」と訳されるべきだと言っていた。確かに、その文言を置き換えて読むと、意味内容はより分かりやすいように感じた。幾つか文章を紹介させて頂きたい。

◆ 私は誰か Who am I ?
 すべての生きものは、いつでも幸福であることを願い、悲惨ではないことを願っている。私たちひとりひとりについて考えてみても、そこに自己への至上の愛があることが認められる。その愛の泉はただ一つ、幸福である。人間の自然性である幸福、心のない深い眠りの中で体験される幸福を手に入れるためには、人は自己(真我)を知らねばならない。自己(真我)を知るためには、「私は誰か」という問いで自己(真我)を尋ねる知識(ジュニャーナ)の道が、最も重要な方法である。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 私は誰でしょうか?
 七つの気まぐれな部分(頭部・両手・胴体・生殖器・両足)から成るこの粗大な身体、私はそれではない。五つの感覚器官、聴覚・触覚・視覚・味覚、そして嗅覚は、それぞれの対象である。音、感触、色や形、味、そして匂いをとらえるけれども、私はそれらではない。五つの能動的な器官、発声・運動・認識・排泄および生殖器官は、それぞれに話すこと、動きまわること、認識すること、排泄すること、楽しむことを機能するが、私はそれらではない。(*1)五つの生気、すなわち (*2)プラーナその他のものは、それぞれ吸気その他の働きをするけれども、それらは私ではない。ものごとを考える心すらも、私ではない。対象物の印象のみが刻みこまれている無知、そこに対象物の働きかけもない無知も私ではない。

(*1) 五つの生気
 生気という語はプラーナというサンスクリット語の訳である。プラシナ・ウパニシャッドによれば生気は、排泄と生殖の両器官を司る呼気(アパーナ)、眼と耳と口と鼻を司る生気(プラーナ・出気)、胴体を司る等気(サマーナ)、心臓から流れ出て毛細血管に至るまでのすべての血管を司る介気(ヴィアーナ)、そして人間の善悪の行為によって人を上昇させたり下降させたりする上気(ウダーナ)、の五つに分かれる。この五気(五風とも言う)のすべてを支配するものは、生気としてのプラーナである。

(*2)プラーナ
 前注の五気の内の一つとしてのプラーナは狭義のものであって、一般的にはプラーナと言えば、すべての生物を支配している生命素としての気を意味している。最古のウパニシャッドと言われるチャンドーギァ・ウパニシャッドによれば「プラーナはまことに希望よりも広大である。例えば車の輻(や)が轂(こしき)に集中しているように、すべての生物はプラーナによって統一されている」と述べられている。時代が下がってヨーガの行法が盛んになってくると、その中の大切な一要素としてプラーナヤーマ(調息)が設定されるようになる。この場合のプラーナは生気であると同時に呼吸そのものをも意味するようになる。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
 今述べたことのすべてを「これではない」、「これではない」と否定し去った後に、ただひとつ残る自覚、それが私である。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 自覚の本性はなんでしょうか?
 自覚の本性は、存在‐意識‐至福である。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 自己(真我)の実現はいつ得られるのでしょうか?
 「見られているもの」である世界がぬぐい去られたとき、「見るもの」である(*3)自己(真我)の実現がやってくるだろう。

(*3)自己(真我)の実現
 マハリシの言う「自己(Self)」とは、のちに語られているようにアートマンを指す。「真我」と訳されることもある。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 見られている対象物である世界は、いつ消えてゆくのでしょうか?
 すべての認識作用と、すべての行動の源である心が静かになったときに、世界は消えてゆくだろう。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 解脱を願う者にとって、本を読むことはどんな価値があるのでしょうか?
 すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと説いている。だから、すべての聖典の結論は、心を静かに保つべしということである。ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読む必要は何も無い。心を静めるために、人はただ、自分自身の内に自己(真我)とは何かと問いつづけるべきである。聖典を読むことによっては、この探求はできない。人は自分自身の智慧の目で、自身の自己(真我)を知らねばならない。自己(真我)は(*4)五つの覆いの内側にあるが、書物はその外にある。自己(真我)は、五つの覆いをはぎ取ることによって探求されるべきものだから、それを書物の中に求めることの愚かしさは、言うまでもない。やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

(*4)五つの覆い
 五つの感覚機能、視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚のこと。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 洞察力(ジュニャーナ・ドゥリシュティ)とは何でしょうか?
 静寂にあることが、洞察力と呼ばれているものである。静寂にあるということは、心が自己(真我)に溶けていることである。過去のできごとを知ったり、現在や未来のできごとを知るテレパシーや千里眼のようなものは、洞察力(ジュニャーナ・ドゥリシュティ)ではない。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 智慧(ヴィヴェーカ)のしるしは何でしょうか?
 ひとたび真理を悟れば、その後には惑いのない美しさが残される。至高のブラフマンにわずかでも違和感のある人には、恐怖がある。身体が自己であるという考えがあるかぎりは、彼が誰であろうと、真理の実現者ではありえない。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 意識の光とは何でしょうか?
 それは、自己発光する存在‐意識であり、人の内部および外部にある名前と形の世界を見せる当事者である。この存在‐意識という存在は、それによって照らし出される対象物によって推し測ることができるが、意識の対象物にならない。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ 知識(ヴィジュニャーナ)とは何でしょうか?
 それは存在‐意識の静まりかえった状態であり、それを熱望する者によって経験されるものであり、波ひとつない海のようなものであり、動かぬエーテルのようなものである。

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)

◆ ディヤーナとサマーディの違いは何でしょうか?
 ディヤーナは、慎重な精神的な努力をとおして得られるが、サマーディにおいてはそのような努力は必要ない

ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)





Amazon に投稿したレビュー

 初めてこの本を読んだとき、私は自分の心が電気と言うか稲妻にでも打たれたような感覚になりました。

 過去、誰でも一度は本当の自分を知りたい、自分探しをしたいと思ったことがあるのではないでしょうか。

 この本は明らかにその答えを私たちに伝えていると私は思います…思いますが、だがしかしです…読めば一瞬のその言葉、この「ラマナ・マハリシの教え」を心の底から納得出来るていると自分に嘘をつけずに言えるかどうか?頭で、真我の探求において「私は誰か」と言う思索と瞑想の実践が最重要と分かっていても、どれほどそのことが自分の支えになっているのか?もっと言うと、道元禅師も仰る「生死一大事」の特に「死」に際してもなおそれは自分に有効なのか?…実際は、この部分は生涯かけて取り組むに余りある課題です。きっと、自己のうちに総てがあると揺ぎ無く自認できるまでそれは続くのでしょうけど…

 この本は悩み多きこの時代にこそ必要なのではないかと思えてきます。もし、多くの人がこの理解を持つことができたなら、この世の争いは金輪際(←死語かな)無くなるかも知れません。それほどのインパクトのある本だと私は思います。特に瞑想を行う人であれば必携な本です。

平成三十年一月四日 投稿



平成二十八年十月以降の文章ですが、
追記載しています。

 



続きは以下の記事です。


ひとつ前の記事は…


この自叙伝、最初の記事は…


この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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