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(5-7)原因を自分に求める【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

◆(5-7)原因を自分に求める 登場人物、その他

 … ヒーリングの講師( 気功師・真理を学ぶ会旧サトルの会 )として、宇都宮で「新 波動性科学入門」をテキストに講義をしていたが、講義を終えたその夜に脳内出血で倒れてしまった。波乱の四ヶ月の入院後、母が代表を務めるパドマワールドの講師として活動を再開していた。

 … ヨガと瞑想の講師。僧籍にあるが寺持ちではなく、むしろ独立独歩の行者の様相である。パドマヨーガ会(パドマワールド)の代表。母の瞑想体験「 とき子のインナートリップ ~ 直江幸法の瞑想体験(2001年) ~

岡松くん … 以前、父のヒーリングを受けに来ていた医学生。目黒の勉強会では講師役だった。この時の勉強は、後々、私自身のヒーリングに大いに役に立つものとなった。学生ときは父の勉強会にも参加してくれていたが、宇都宮で父が倒れたときには医師になっていた。

ヒーリング … 念と氣を流す・「通す」という行為・氣の実践

都内のファミレスで

 佐藤さんが亡くなられて、ちょうど一年後ぐらいだったか、珍しく岡松くんと両親との四人で食事をしたことがあった。父は本格的に各地を回り始めていて、動きとしてはだいぶ回復してきているようだった。青山の会場を終え、とあるファミリーレストランで久しぶりに岡松くんと会うと、父は最新と自負するヒーリングのテクニックや、読み解いた症状の因果関係をしきりに話し始めた。

 父の話を聞いていて、いつもの癖が出ているな…と私は思い始めた。それは分析の甘さが招く、安易な法則の発見という自己満足と、その法則に固執してしまう危険であり、不確定要素がたくさんあるなかでの短絡的な断定思考で、殊更今に始まったことではなかった。ただ、初めて父の話を聞かされる一般の方によっては、医者と同じ目線で父の話を受け止める訳で、その会話に頻繁にあらわれる強気の断定表現も、時に問題があると考えていた。当然、父がそのようになる背景が何であるか…と言う問いも同時にあった。

 父は医者となっていた岡松くんに理解をしてもらいたかったのだろう、しばらく一方的に話を続けていた。途中、「敏治理論だから」と私が補足すると、岡松くんは「うん、まぁそうだね…」と返したが、父にはこの「敏治理論」という言葉がことのほか気に入らなかったようで、馬鹿にされたとでも感じたのだろう、語気を荒げて激しく怒り始めた。

 しかし、これまで断定的に物事を話す父の危うさと、その弊害もつぶさに感じてきた私は、今まで溜まっていた鬱憤もあり、いつになく反抗してしまっていた。そして、どんなに父が怒ろうとも、むしろ父の考えを問い質していった。まぁそんなやり取りは折り合いなど着くはずもなく、気づけば2時間ほど続くのだった。

 すると、左半身麻痺でまともに歩けない父は「一人で歩いて帰る!」と息巻いた。そんなこと周りがさせるはずもないのに、要はダダをこねて「俺の言うことを聞けよ!」と言い張っているようだった。

 思い返せば、ここまで父と激しくやり取りをしたのは初めてだった。正直、病人相手に卑怯な気もしたが、言い合っているうちに、本当に父とは相容れないんだな…という実感が高まって、ある種のアレルギーにも似た嫌悪感が強く沸き起こった。

 帰り際、岡松くんは「直江さんも変わってないね…」と、場を取り繕うように小さく笑って言った。母は「あんた、もうちょっとお父さんのこと考えてあげなよ!言い過ぎだよ!」と言ってきたが、私は「これだって因果応報だろ!」と言いたくなった。この時は家に戻っても身体はワナワナして、しばらくは胃も痛かった。


◇  ◇  ◇

思いの源泉

 しかし一方で、それ以来、父への苛立ちや嫌悪感がすぐに消え去ることは無いまでも、むしろ私の心の何がそう思わせるのか、その源泉が何なのか冷静に探ってみたのだった。

 このような思考に至ったのは、これまでの仏教を始めとする様々な導きを通じ、問題の本質は父には存在せず、悩みや苦しみの原因は自分自身の中にあると頭で理解出来ていたからだった。

 ただ、頭だけの理解というのは、心の納得がなされていないと中々辛いものであって、つい言い訳をして相手を責めたり、反対に「自分が悪いんだ」という袋小路に入ったりするものである。ここまでを踏まえて、私は自他共に責めず、純粋に嫌悪感の源泉を探し始めた

 数日、いつもの日々にあってこの問いを常に投げかけていると、その原点のような思いが少しずつ顕わになっていった。しばらく眺めていると、私の子供時代からある父への思いに気がついた。つまり、父親としての理想像を求めていたり、尊敬に値する存在であって欲しい…という一方的な私の欲求が、父への嫌悪感の根底でうごめいていたのだ。そしてそのほとんどが裏切られた怒りで、私の嫌悪感は無自覚寸前になっていた。

 これが理解できると「これは執着だ」と気付くまで時間は掛からなかった。執着を手放すことは瞑想や禅においても基本的作業であり、これを期に私は徹底的に執着を手放していった。

 すると次第に父への思いはグレー掛かったようになり、時に死滅するようだったが、完膚なきまでにと言うわけには行かなかった。やはり幾ら手放しても湧き起こる「点」みたいなものが未だ残っていて、それは新たな苦しみへと変わっていった。

 しかして、その「点」の実際は「父を思う心」を手放そうとする私の思索そのものであった。そして、その思索すらも手放すとは、私自身を成り立たせている核心を手放すことであり、自死にも等しいのだった。

 因果を読み解き、その原因を自分に求める。そして総てを自分に求めて、自らを寄る辺たらしめんとするとき、自然と自分の弱さや不完全さに向き合う過程が必ずやって来る

 この自らに求め続ける思索の連続と、その思索という執着をも手放す行為は、確かに価値観の崩壊であり自分の死にも等しい。そして、いっとき苦しみと哀しみを生んだとしても、真の意味で解放を求め続ける中にあれば、その苦しみと哀しみが不思議と清々しさをともなった充実に変わるのを私は知った。

己こそ己の寄辺よるべ 己をきて誰に寄るべぞ
よく整えし己こそ まこと得難えがた寄辺よるべをぞ得ん

法句経 160番


◇  ◇  ◇

平静のうちにあるもの

 こうして父への執着を手放すとき、私は死んでいった。同時に私の中の父も死んだのだ。どこかさめざめとした感覚と不思議な解放感が同居して心は何度も涙を流していた。葬式を出したようでもあり、しばらくは不安定だったが、自分から逃げないように、言い訳をしないように、繰り返し執着を手放すなかで得たものはとても大きかった。

 父は次に会うときには普段通りになっていた。相変わらずの切り換えの速さというか、前向き志向というか、マグマを吐き出せばそれで終わりだったのか。私の方が変わったからなのか。そして表向きは平静に戻っていった。




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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。


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