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2024年5月の記事一覧
第1238回「無我の一法のみ」
白隠禅師の『遠羅天釜』に、こんな言葉があります。 現代語訳を禅文化研究所発行の『遠羅天釜』から引用します。 「お釈迦さまが迦葉菩薩に質問なされた、 「どのような修行をすれば、大涅槃に至ることができるか」と。すると迦葉菩薩は、五戒十善、六度万行など、ありとあらゆる、戒法、善行を逐一挙げて答えたけれども、お釈迦さまはすべて許可なさらなかった。 そこで迦葉が「では、どんな修行をしたら涅槃に契うのでしょうか」とお尋ねすると、お釈迦さまは 「ただ無我の一法のみ、涅槃に契うことを得たり」とお答えになった。」 ということなのです。 「五戒」というのは、岩波書店の『仏教辞典』には、 「在俗信者の保つべき五つの戒(習慣)。 不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)の五項からなる。原始仏教時代にすでに成立しており、他の宗教とも共通した普遍性をもつ」ものとして説かれています。 十善戒は「不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見」です。 その内容は、 第一不殺生は、すべてのものを慈しみ、はぐくみ育てること。 第二不偸盗は、人のものを奪わず、壊さないこと。 第三不邪婬は、すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことのないこと。 第四不妄語は、偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることのないこと。 第五不綺語は、誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさないこと。 第六不悪口は、人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことのないこと。 第七不両舌は、筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さないこと。 第八不慳貪は、仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらないこと。 第九不瞋恚は、不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにしないこと。 第十不邪見は、すべては変化する理を知り心を正しく調えること。 というものです。 六度満行は、六波羅蜜です。 六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。 一番目は布施、施しです。何かを施してあげることです。 物を施すだけでなく、言葉をかけてあげることも施しであり、笑顔をふり向けることも施しです。 二番目は、持戒で、良い習慣を保つことです。 三番目は、忍辱で、堪え忍ぶことです。 どんな辛いと思っても一時の事だと冷静に今の状況を受け入れることです。 四番目が、精進で、怠らずに努め励むことです。 五番目が、禅定で、心を静かに調えることです。 六番目が、智慧で、正しくものを観ることです。 涅槃に到る為には、これらもろもろの修行が必要ですと迦葉尊者がお答えになったのですが、お釈迦様は許しませんでした。 そこで迦葉が「では、どんな修行をしたら涅槃に契うのでしょうか」とお尋ねすると、お釈迦さまは 「ただ無我の一法のみ、涅槃に契うことを得たり」とお答えになったのでした。 これは実に仏法の核心をついた一言です。 これに対して白隠禅師は次のように語っています。 「しかし、この無我には二つがある。ここに一人の男がいる。心身が怯弱でいつも人を恐れているので、できるだけ自分を殺して人と接している。 罵られても瞋らず、撲られても我慢、馬鹿のようになって「事なかれ」で通し、これが無我だと思っている。 しかし、これは真正の無我ではない。 ましてや、このような無我になって念仏し、その功力によって往生成仏しようとすることは、真正の道ではない。 往生せんとする者は何者ぞ、成仏せんとする者は何者ぞ、みな、我ではないか。」 と説かれています。 単に無我を装っているだけではだめなのです。 そこで白隠禅師は、 「真の無我に契当しようと思うならば、何と言っても、まず懸崖に手を撤して絶後に再び蘇らねばならぬ。 そこで初めて、常・楽・我・常の四徳をそなえた真我を発見するであろう。 懸崖に手を撤するとはどういうことか。 誰も踏み入らぬ山中で道に迷い、底のないような高い断崖に出た。 絶壁にはすべりやすい苔が生え、足の踏み場もない。 進むことも退くこともできぬ。ただ頼むところはわずかに生えている蔦葛。 これにすがって、ようやくしばらく命を助かった。 しかし、手を離せば、たちまち真っ逆さまである。 修行もこのようにして進めて行かねばならぬ。 一則の公案に取り組んでいけば、やがて思う心も失われ、からりとして何もなくなり、さながら万仭の懸崖に立たされたようになる。 絶体絶命というところまで推しめていって、そこで忽然として、公案も我ももろともに打失する。 これを懸崖に手を撤する時節と言う。」 と説かれているのです。 無我のふりをするのもまだまだでしょうし、そうかといって一所懸命に修行すると、これまた我になってしまうこともあるのが人間であります。 それよりも妙好人という方の言葉に「無我」を感じるのであります。 因幡の源左さんにこんな話があります。 源左さんが五十代の頃、火事に遭って、丸焼になってしまいました。 願正寺の住職さんが、源左さんに「爺さん、ひどいめに逢ふたのう。こん度は、弱ったろう」と言ったところ、 慰められた源左さんは、 「御院家さん、重荷を卸さして貰ひまして、肩が軽うなりましたいな。前世の借銭を戻さして貰ひましただけ、いつかな案じてごしなはんすなよ」と言ったのでした。 「重荷を卸さして貰ひまして、肩が軽うなりましたいな」という言葉は、痩我慢して言ったのではないでしょう。 蜂に刺されても源左さんは、 「われにも人を刺す針があったかいやあ、さてもさても、ようこそ」と言ったのでした。 また夕立に遭ってびしょ濡れになっても、 「ありがとう御座んす。御院家さん、鼻が下に向いとるで有難いぞなあ」と言ったのでした。 こんな言葉に無我を感じるのであります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
第1237回「煩悩を消したら…」
毎日新聞の川柳の欄に先月の末頃、 「煩悩を消したら僕も消えちゃった」 という句がありました。 私も、いくら坐禅しても雑念も妄想も消えませんという方に、雑念や妄想が消えたら、あなたもなくなってしまうのではありませんかと申し上げることがあります。 では「煩悩」とはそもそも何でしょうか。 まず『広辞苑』を調べてみると、 仏教語として「衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の心理作用。 貪・瞋・痴・慢・疑・見を根本とするが、その種類は多く、「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれる。 「貪・瞋・痴・慢・疑・見」が六煩悩と言われています。 はじめの貪瞋癡は三毒とも言って、煩悩の根本です。 慢は慢心、疑は文字通り疑い、見はあやまった見解です。 「煩悩の犬は追えども去らず」という言葉があって、 「煩悩は人につきまとう犬のようで、いくら追い払ってもすぐ戻ってきて、取り去ることはむずかしい」という意味です。 岩波書店の『仏教辞典』で詳しく調べてみます。 煩悩は「身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称。 輪廻転生をもたらす業(ごう)を引き起こすことによって、業とともに、衆生を苦しみに満ちた迷いの世界に繋ぎ止めておく原因となるものである。 外面に現れた行為(業)よりは、むしろその動機となる内面の惑(わく)(煩悩)を重視するのが仏教の特徴であり、それゆえ伝統的な仏教における実践の主眼は、業そのものよりは煩悩を除くこと(断惑)に向けられている。」 と解説されています。 更に「初期仏教」では「阿含経典では、随眠(ずいめん)・漏(ろ)・取(しゅ)・縛(ばく)・結(けつ)・使(し)などさまざまな呼称のもとに、煩悩に相当する種々の要素が挙げられているが、それらの中で代表的なものは<貪>(貪欲。むさぼり)、<瞋>(瞋恚。にくしみ)、<癡>(愚癡・無知)のいわゆる三毒(さんどく)である。 四諦説の枠組みのなかでは、飽くことを知らない欲望(渇愛(かつあい))、即ち貪が人生苦をもたらす根源であるとされる。 十二支縁起(十二因縁)説においても、渇愛は生死の苦しみをもたらす原因として重視されるが、そのさらに根源には、仏教の道理に対する無知(無明)、即ち癡があるとされるのである」 と説かれています。 更に「部派仏教」では 「説一切有部のアビダルマ(阿毘達磨(あびだつま))では、煩悩を根本煩悩と随煩悩に大別する。 <根本煩悩>とは、諸煩悩中特に根本的とされる貪・瞋・慢・疑・無明(癡)・(悪)見の六随眠を指す。」 とあって、そこから更に詳しく百八の煩悩が説明されています。 「大乗仏教」では 「このように、多くの煩悩を数え、それらを断ずることによって輪廻から解放されようとするのが、初期仏教以来の仏教の基本的立場であったが、大乗仏教になると、煩悩を実体視して迷いの世界と悟りの世界とを峻別する考え方そのものが空の立場から問い直されるようになり、<煩悩即菩提><生死即涅槃>などの考え方が前面に打ち出されるようになった。」 と解説されています。 そして「こういった考え方は、迷いの世界から隔絶されたところに真理の世界を求めるのではなく、迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続けるところに真理の世界を見出そうとする菩薩思想と密接な関係があり、瑜伽行派の無住処涅槃(無住)の説も、この関連で理解されるべきものである。」 と説かれています。 「迷いの世界から隔絶されたところに真理の世界を求めるのではなく、迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続けるところに真理の世界を見出そうとする」というのは、まさに大乗仏教の精神そのものです。 禅でもこの「迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続ける」ことを重視しています。 更に『仏教辞典』には、 「一方、衆生の心は本来光り輝く清らかなものであり、それを汚している煩悩は副次的なものに過ぎない(心性本浄 客塵煩悩)のだから、煩悩の穢れを除くことによって心は本来の清浄性を回復することができるのだという思想は、一部の阿含経典以来存していたのであるが、如来蔵思想に至って、特に重視されるようになったものである。」 と解説があります。 六祖壇経に五祖のお弟子の神秀が作ったという偈があります。 身は是れ菩提樹、 心は明鏡の台のごとし。 時時に勤めて払拭して 塵埃に染(けが)さしむること莫れ。 というものです。 これは心の本性は鏡のように清らかなもので、塵やほこりのように煩悩がついてしまわないように、心の鏡を常に磨いていなさいという意味なのです。 それに対して六祖となった慧能は、 菩提は本より樹無し、 明鏡も亦た台に非ず。 本来無一物(むいちもつ) 何(いず)れの処にか塵埃有らん。 と詠いました。 「悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡もまた台ではない。 本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。」 という意味であります。 『仏教辞典』に 「中国・日本においても、断惑の思想よりは、むしろ煩悩即菩提の思想が重視された。<不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)>を説く親鸞の思想は、その一つの典型例を示したものといえるであろう。」 と説かれているように「煩悩即菩提」と説くようになりました。 『広辞苑』に「煩悩即菩提」とは、 「相反する煩悩と菩提(悟り)とが、究極においては一つであること。煩悩と菩提の二元対立的な考えを超越すること。大乗仏教で説く。」とある通りであります。 昔の人は、「渋柿の渋そのままの甘さかな」と詠いました。 そうかといって、決して煩悩をそのままにしていいというわけではなく、四弘誓願文に「煩悩無尽誓願断」とあるように煩悩に振り回されないように精進することは必要なのです。 煩悩は無尽ですから、煩悩を消してしまって私も消えてしまう心配はないのであります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺