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読書ノート 「井筒俊彦ざんまい」 若松英輔 編


目次 

若松英輔   知られざる井筒俊彦
井筒俊彦年譜

I ── 原点と回想
白井浩司  時代への批判者
柏木英彦  遠い日の井筒先生
松原秀一  つかずはなれず四十年
牧野信也  師としての井筒俊彦先生
丸山圭三郎  〈読む〉ということ
河合隼雄  井筒俊彦先生の思い出
安岡章太郎  あの頃の井筒先生
日野啓三  言い難く豊かな砂漠の人
佐伯彰一  求む、井筒俊彦伝――ポリグロットの素顔
瀬戸内寂聴  豪華な学者夫妻
立花 隆  職業選択を誤らなかった話
伊東俊太郎  井筒俊彦先生のこと

II ── 東西の出会い
福永光司  井筒俊彦先生とわたくし
高木訷元  乾坤は經籍の箱
長尾雅人  井筒さんの『起信論』哲学
森本公誠  井筒先生を東大寺にお迎えして
門脇佳吉  井筒先生の風貌と思想の源泉
栁瀬睦男  井筒氏の思い出
ナスロッラー・プールジャヴァーディー  井筒先生との最後の会見(1)(2)
ヘルマン・ランドルト  井筒俊彦を回想して
サイイド・ホセイン・ナスル  井筒俊彦の思い出
ナダール・アルダラン  ことばに尽くせぬ思い出
関根正雄  井筒俊彦氏のこと
今道友信  少年時からの展景の中で
松本耿郎  井筒先生と『アラビア思想史』
江藤 淳  井筒先生の言語学概論
中村廣治郎  コーランと翻訳
山折哲雄  井筒訳『コーラン』の文体
黒田壽郎  井筒先生のアラブ・イスラーム研究
丸山圭三郎  井筒哲学における東西の出会い
安藤礼二  ディオニュソス的人間の肖像
合庭 惇  『イスラーム思想史の頃』ほか(全3編)

III ── 追  悼
司馬遼太郎  アラベスク――井筒俊彦氏を悼む
丸山圭三郎  追悼 井筒俊彦先生 
遠藤周作  井筒俊彦先生を悼む
牧野信也  井筒俊彦先生の死を悼む

IV ── 継  承
池田晶子  『意識と本質』を読む
中沢新一  歴史とトランス――井筒俊彦先生のしぐさの記憶
河合隼雄  井筒哲学と心理療法
松永有慶  井筒マンダラ学の炯眼 
安藤礼二  新たな時代の「東方」の哲学
澤井義次  エラノス会議と井筒哲学
互 盛央  井筒俊彦と丸山圭三郎――出会い、交錯した二人は、どこに向かったか


  • 「意味連関の生きた全体構造が、おのずからにして指示する必然不可避的思考の線にそって考えを推し進めていくとき、はじめて与えられたテクストを正しく誤読するということが可能になるのだ、現に書かれている思想についても、書かれていない思想についても。書かれている思想だけが読まれるのではない。誤読的コンテクストでは、顕示的に書かれていないコトバもあたかも書かれてそこにあるかのごとく読まれるのではなくてはならない。構造的に緊密な思惟の必然性には、それだけの力がある、と私は思う。(『マーヤー的世界認識』)」


  • エラノス会議には1967年から参加

  • エラノスとはギリシア語で〈饗宴〉もしくは〈会食〉の意味


  • 「言い換えるなら、特定の鍵概念の整合的組織体として成立している個々の思想伝統が、それぞれの自閉的孤立状態を脱して、他のすべての伝統にたいして意味構造的に開かれたものになり得るような広い統合的な場を作り出さなくてはならない。(『東洋思想』編纂の立場から)」

  • 「『古典』とは、まさしく古さを窮めてしかも絶え間なく新しくなるテクスト群なのだ。新しくするもの、それは常に、『読み』の操作である。(中略)幾世代もの文化的生の集積をこめた意味構造のコスモスが、様々に、大胆に、『読み』解かれ、組み変えられていく。現代の知的要請に応える新しい文化価値創出の可能性を、『温故』と『知新』との結合のうちに、人々は探ろうとしている。(「テクスト『読み』の時代」)


  • 恐懼(きょうく)おそれかしこまる(河合隼雄)


  • (井筒の関心が)西洋の方はあまり関心がなくて、東洋の方ばかりが面白くなってきたということ。なかでもユダヤ教・キリスト教やイスラム教のような人格神の信仰を入れないで、純粋に形而上学的「一者」を追求する禅仏教が一番身近に感ぜられるということ。また、深層心理学者として日本の学会でも広く知られているユングは、その生涯の後半期になってから、とみに東洋の思想に注目しはじめ、易とか老荘とかの中国哲学についても数々の興味深い見解を発表している…

  • 無はカオス(混沌)無を虚無と同定するのは後世の神学的思想であって、『旧約聖書』の原テクストに表れている考え方とは根本的に異なる。

  • 古ウパニシャッド的コンテクストによる「非有(アサト)}とは、何ものも明確な輪郭で截然と他から区別されていない存在状態を意味する。つまりカオスということ。カオスは古代中国思想の渾沌に当たる。


  • 乾坤は經籍の箱なり。萬象一点に含み、六塵縑緗 に閲ぶ(空海『游山慕仙詩』)

  • 天地すべては経典の入れ物。一滴の露に全宇宙が含まれている。

  • 一点とは、宇宙的存在喚起エネルギーとしての絶対的根言語。六塵は全存在世界を意味する。


  • 真如の双面性、アーラヤ識の双面性。

  • 法蔵の祖父はサマルカンドの人


  • 華厳経の教主が太陽仏(ヴァイローチャナ)であるという事実に、なんとなくイラン的なものを感じる。ゾロアスター教の「光」の神、アフラ・マズダの面影を見てしまう。

  • 『意識の形而上学』の主題は「アラヤ識」の機能フィールドで展開される「覚」と「不覚」の個別的実存意識のドラマである。


  • イブン・アラビー『叡智の台座』未だ日本語訳は出されていない。


  • 「あえて誤解を恐れずに言うならば、先生にとって学問とは、それ自体が目的ではなく、むしろ、それを通じて、この上なく厳しく自己自身を凝視し、徹底的に追求する生涯をかけての修行道であったとさえ言えよう」(牧野信也)


  • 常に無欲 以て其の妙を観

  • 常に有欲 以て其の徼を観(老子)


  • 常に無欲とは、深層意識の本質的なあり方。名を通して対象として措定された何ものにも執着しないこと。妙を観るとは、絶対無分別的「存在」(『道』)の幽玄な真相が、絶対無分別のままに観られること。これに対して、「徼」とは明確な輪郭線が区切られた、はっきり目に見える形に文節された「存在」のあり方を意味する。これを観るのは「常有欲」の意識、つまり表層意識なのである。そして、このふたつの「存在」の次元が、ここでは鋭く対立しつつ、しかもひとつの「存在」地平のうちに均衡を保って融和しているのである。


  • 『意識と本質』における三種類の本質肯定の思想

①本質は実在するが、それは表層的意識ではなく、深層意識によって捉えうるとし、宋学の「格物窮理」を代表的な思想とみる。
②本質が象徴性を帯びた元型として現れる思想で、密教マンダラ、易の六十四卦、カッバーラのセフィーロートなどにその例が認められる。
③本質を意識の表層で理知的に認知するところに成立する見解で、孔子正名論、インドのニヤーヤ学派ヴァイシェーシカ学派の存在範疇論などを例としてあげている。


  • (井筒俊彦と丸山圭三郎の)晩年の二人のあいだに生み出された「真如」をめぐる違いは、重要な問いを投げかけている。

  • 私達は今も言葉を語っている。私が語っているのが言葉であることの根拠を求めるなら、「真如」に遡ることになるだろう。その「根拠的無分別」から「分別」への「中間地帯」には、非言語から言語への転換がなければならない。

  • その転換は、非人称の「それ」が語る、としか言いようのない出来事である。かつてニーチェがこう書きつけたように。

  • 「主語『私』は述語『考える』の前提である、と述べるのは事態の捏造である。それが考える」(『善悪の彼岸』)

  • 「私が語る」ことが言葉を語ることであるのなら、その向こう側に「それが語る」が見出されなければならない。それはどこまでも事後的にしかなされえないことだ。だから、井筒俊彦は「それが語る」のを聞き取ろうとしたが、丸山圭三郎は「それが語る」という出来事そのものになろうとした。これはどちらが正しく、どちらかが間違っている、という問題ではない。

  • 正答も誤答もできず、しかし答えなければならない問いというものが、ここにはある。私たちが言葉を語るということが軽視しえない事実であるのなら、二人の交錯が今も発しているその問いに、私たちは答えなければならない。(互盛央)

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