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読書ノート 「井筒俊彦 起源の哲学」 安藤礼二


 この本は井筒俊彦の現段階における最新の思想概説を提示してくれる。英文著作を含めた井筒のエクリチュール全体を概観することが安藤礼二によってやっと可能になった。安藤が書いているように、2000年代初頭においては井筒の著作の全体像は一般には掴みきれない状況であった。若松英輔の仕事や河出書房新社の特集本を機に、井筒俊彦が広く関心を持たれるようになったのはここ最近のことである。ここでは私が初見であったり、重要であると思った部分を取り出していく。これ一冊で井筒俊彦の全体像が朧げながら見えてくる。初学者でなくとも読むべし。


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 (西脇順三郎の)「幻影の人」という理念。自分のなかには相反する二つのタイプの人間が、つまり二つのタイプの世界が、存在している。近代人と古代人、理知の世界と自然の世界、論理(知性)と情念(感性)である。しかし、さらに自分のなかにはもうひとつ、より深い次元で、この相矛盾する二つの要素を一つに統合する、決して滅び去ることのないような元型的な存在がある。それが「幻影の人」と名付けられるものなのである。

 西脇にとって「幻影の人」とは永遠の記憶に属し、通常では相容れることのない二つの世界、地上と天上を、さらには現実と超現実を、文学と民俗学を、無限の相のもとで一つにつなぎ合わせるのである。…すなわち「幻影の人」とは、まずなによりも原始的な人間の一つのタイプであり、最古の人間の姿である。しかしそれは個別の人格というよりは「永遠に人間の中に隠れて残る神秘である」。「生命の根源とも真の人間の姿とも、土の幻影とも考えられる」。このような超自然的な生命の幻影は、「何かの象徴によってのみ感じられるもの」としてあり、その象徴から文字が生まれ、またその象徴こそが文学となるのである」(『古代文学序説』「序論」より)

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  • 『大乗起信論』「如来蔵」(如来の胎児)の持つ可能性がすべて顕在化・現動化したとき、そこには「法身」が現れる。「法身」はプロティノス的に言えば、全即一・一即全を体現した「一者」を体現した身体。そしてそれは無形無相、絶対無・絶対空、そこから万物が産み落とされる(流出)。そこから「報身」⇒「応身」へと変化する。この万物産出のあり方は、「無」⇒「一」⇒「多」へと向かう存在一性論(イブン・アラビー)と等しい。

  • そしてそれはまた、モッラー・サドラーとほぼ同時代を生きたスピノザ(一六-一七世紀の間に、モッラー・サドラーが生まれスピノザがこの世を去っている)が『エチカ』で説いた「実体」と「属性」と「様態」の在り方とも等しい。唯一の実体が無限の属性へと展開し、無数の様態へと具現化する。ディオニュソスの憑依によって明らかとなる「如来像」(真如)としての仏、「存在」としての神は、スピノザ的な神即自然にして自然即神と等しいのである。


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 『言語と呪術』で繰り返し言及される『鏡の国のアリス』、ハンプティ・ダンプティ。井筒は、この虚構のキャラクターがなす発言に、現実の詩人たちがなした発言と同等の力、あるいはそれ以上の力を見いだしている。ハンプティ・ダンプティが主張していることは根本的に正しい。ハンプティ・ダンプティは言う。私が言語を語るときは、その言葉に私が持たせたい通りの意味を持たせる。「意味」によって現実が、存在が生起する。それゆえ、私こそが言葉の主なのだ。意味の主にして世界の主なのだ。

 …虚構のハンプティ・ダンプティは、現実のムハンマドのように、「意味」(内包)をもとにして現実を変革してしまった。井筒が生涯かけて論じ続けた現実のムハンマドと、井筒がこの『言語と呪術』のみで論じた虚構の「言葉の王」ハンプティ・ダンプティと、両者は互いの分身であり、互いの虚構である


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  • 統治すること「ウィラーヤ」

  • 代理すること「ヒラーファ」

  • 神のごく身近にあること「ワラーヤ」


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 「タウヒード」…神の唯一性。あらゆるものを「一」の視点から見る。すべての個物には、それぞれが持つ等位性、差異性、関係性が貫徹されている。スピノザの思索はこの「タウヒード」とほぼ共通の場で展開されている。

 井筒はこう述べている。思考の世界、実在の地平においては「存在」は「本質」に先立つ。それをあざやかに示してくれたのは、アンリ・コルバンが「モッラー・サドラーの再来」とまで評価したアーシュティアーニー教授だった。教授は、こう言っていた。

 「我々が一度思考の世界から実在界に立ち出てみれば、事情はガラリと変わってしまう。そこでは存在は唯一絶対の形而上的普遍者であって、他の何ものの属性でもなく、むしろ逆に他のあらゆるものがそれの様態、それの属性として現れてくるのだ」

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 反抗は、蜂起は、「歴史」のなかで可能になるとともに、「歴史」を乗り越えていこうとする。しかし、果たして、そのような革命は、ただイランだけに起こったことだったのであろうか。イランに先んずる形で、この極東の島国、日本に生起した明治の維新とは、まさにこのような革命ではなかったのか。古代的で反動的で排外的な側面と、未来的で革新的で開放的な側面が渾然一体となった「霊性」の革命ではなかったのか。

 …若き井筒のイスラームへの関心、その一つの焦点は、アラビア半島に宗教的な革命──同時にそれは政治的かつ経済的な革命であった──を引き起こし、それを瞬く間に世界へと広げていった預言者ムハンマドという存在に絞られていたはずである。ムハンマドは、「政治と宗教が渾然たる一体をなす新しい共同体」を創出したのだ。

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 意識のなかにひらかれる無彩色にして「無」の領域と、極彩色にして「無限」の領域、道元の禅と空海の密教を、シャーマニズムという深層意識を探求する技術が、二つに切り分けると同時に一つに結び合わせるのである。…空海も道元も、華厳を読み込んでいた


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 『意識と本質』の構造

Ⅰ 「本質」の実在性・非実在性の問題
 ⇒「本質」のない世界と無数の「本質」によって形成された「もの」の世界、言い換えれば、意識の深層にひらかれる絶対無分節の次元での「存在」と、意識の表層で千々に分節された次元での「存在」が対比的に論じられている。「本質」の否定と肯定の根本的な対立。「東洋の哲人」とは、この相矛盾する二つの世界、意識の深層と表層の、「本質」の否定と肯定を同時にその目にすることができなければならない。この一節こそ、『意識と本質』のアルファでありオメガである。

Ⅱ 「個体的本質」と「普遍的本質」の問題
 ⇒しかしながらⅡで論じられるのは、今度は「本質」をめぐる二つの対立である。中世イスラーム哲学における「フウィーヤ」(個体的本質)と「マーヒーヤ」(普遍的本質)。中世スコラ哲学においても「本質」をめぐるこの二つの対立は大きな問題となった。

Ⅲ 中世スコラ哲学「本質」の東西文化における邂逅と衝突
 ⇒ここでは「本質」が「存在」に先立つのか、あるいはその逆かが議論になる。「本質」を把握(肯定)するための二つの層(深層と表層)および、三つの方法、一番目は意識と存在の深層に「理」が存在すると考える。二番目は、意識と存在の深層に「根源的なイマージュ」が存在すると考える。三番目は、意識と存在の表層に「名」が存在すると考える。

 ⅠからⅢまでが序論、以下Ⅳ~Ⅻまでが本論

Ⅳ マラルメ、宋儒における「本質」探求 
 ⇒一番目の方法の記述

Ⅴ イスラーム哲学の「原子論」 
 ⇒二番目の方法の記述 特に禅の思想について 

Ⅵ の無「本質」的存在文節、『バガヴァッド・ギーター』実在認識の三様式
 ⇒二番目の方法の記述 特に禅の思想について

Ⅶ 無「本質」的文節の内的構造、充満している「無」、道元
 ⇒
二番目の方法の記述 特に禅の思想について

Ⅷ 心象産出機能、「本質」実在論の第二の型「元型」
 ⇒
二番目の方法の記述

Ⅸ 元型としての「易」、意識の構造モデル、「M領域」の発見
 ⇒二番目の方法の記述

Ⅹ イマージュの役割、性質、構造
 ⇒二番目の方法の記述

Ⅺ 「本質」肯定論第二の型「セフィーロート」の連関的構造
 ⇒二番目の方法の記述

Ⅻ 「本質」肯定論第三の型、プラトンのイデア論、孔子の正名論、ほか
 ⇒三番目の方法の記述

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  神秘体験とは、人間的な自我を外側と内側へと破壊し、未知なるものへと深めていく営為なのだ。そしてまた、自我を乗り越えていく二つの方向、人間的な自我の外側と内側に、日常を超えた非日常、すなわち「聖なるもの」への通路が開かれることを、エリアーデは、宗教的なるものの起源として位置づけた。エリアーデはそうした事態を「ヒエロファニー」(聖なるものの起源)と名付けた。


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 「ヒエロファニー」からエクスタシス(意識外に自分を置く)とエンスタシス(意識内に自分を置く)という二つの原理が導き出され、「憑依」からやはりエクスタシス(脱自)とエントゥシアスモス(神充)という二つの原理が導き出された。エラノスでエリアーデと井筒が出会ったのは偶然である。しかしその邂逅は、お互いの思想的な出自からして、必然的なものであったはずだ。そしてエラノスは、さらに、井筒が「憑依」から抽出してきた、相反しつつも相補い合うエクスタシスとエントゥシアスモスという二つの原理が向かう方向を、西方から東方へと劇的に変更させたのだ。

 『神秘哲学』が書き上げられたとき、井筒が目指していたのは西方の極である。プロティノスによってはじめて統一された二つの原理、エクスタシスとエントゥシアスモスの統合はギリシアのヘレニズム的世界だけでは完結せず、一神教の教えを伝えるヘブライニズム的な世界と合流して、中世キリスト教が可能にした神秘主義思想、アビラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネで真の完成を迎えるというビジョンを、井筒は抱いていた。しかし、エラノスは、そうした井筒に対して、西方とはまったく異なった東方においても、憑依から導き出される二つの原理が成り立つことを充分すぎるほど教えてくれたはずなのである。


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 インドラの宝珠はお互いにその姿を映し合い、一つの宝珠がすべての宝珠と関係を持ち、すべての宝珠は一つの宝珠のなかにおのれの姿を見出す。外の無限にひらかれ、また自らのうちにも無限を孕み持つ透明に輝く小さな一つの光の珠。それを自らの身体と考え、そして生きよ。空海はそう呼びかけているのである。一なる自己の身体と、多なる他者の身体は、無限を介して一つに溶け合っている。それが宇宙の真実なのだ。


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 『言語と呪術』の第三章で井筒は老荘思想から儒教まで中国思想全体を貫く「気」を取り上げ、こう記している。

 「気」とは、「人を含む全自然のなか、そしてそれを貫いて働く半物質的で半精神的な生命の力、いわば「エラン・ヴィタール」と思ってよい」と。「エラン・ヴィタール」とは、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンが『創造的進化』のなかで全面展開した、森羅万象あらゆるものを産出していく「生命の躍動」、生命が持つ原初的な意志(意識)のことである。精神と物質を二つの極とし、そのなかからあらゆる意味(同時に形態)を生み出す原初の意識、それこそが「神」なのだ(ベルクソン自身がそう表明している)。


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 神楽は、如来としての種子、胎児としての如来をそのまま舞台へと上げる──

 神楽を発動させる荒ぶる神、荒神は「胞衣」を被っている、つまりは自らのなかに無限の変化可能性を潜在的に秘めた強度に満ちた卵細胞のようなものとして捉えられていた。それが舞台の理論、変身の理論の中核をなす。強度の生殖細胞である「如来蔵」は、「翁」と呼ばれ、「宿神」と呼ばれていた。

 中世の神道は、森羅万象あらゆるのもののために生命の根源たる卵、つまりは「霊魂」を産出し、「霊魂」を付与することで生命を活性化させる根源神にして至高神を『古事記』の冒頭に出現する神、「産霊(むすひ)」の神とした。


 生す(苔がむす)ように萌え出る霊(ヒ)


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 ボードレールの二つの批評理論。一つはスェーデンボルグから内界と外界の照応(コレスポンダンス)の理論を、シャルル・フーリエからは極小から極大までの類似(アナロジー)理論を。それらを統合し、自らの詩の理論にして批評理論に組織する。
 ボードレールはワーグナーの舞台に感覚を開放する総合芸術の可能性を予感する。
 ボードレールの詩学を受け継いだランボーは、論理的な錯乱のもと見出される他者としての私という「見者」を詩法をまとめる。
 マラルメは、人間的な「私」の消滅によってはじめて可能となる宇宙としての書物という「無」の詩法をまとめる。
 ボードレール、ランボー、マラルメと続く「象徴」の詩学は、ベルクソンの「記憶」の哲学へと引き継がれていく。


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 スンナ派の神は全てに超越する神、シーア派の神は全てに内在する神


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 空海は、創造論的であり発出論(流出論)、イラン的であり、ギリシア的である翻訳の現場のごく近くいた。空海は創造論と発出論の構造を持ちながら、しかしそれでも、具体的な個物である「私」という存在を決して見失うことはなかった。唯一の「存在」を、この「私」に内在化させたのである。「法身説法」と「即身成仏」は二つで一つの教えなのである。


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 『大乗起信論』が正体不明の論であるならば、その特異な注釈書である『釈摩訶衍論』は、さらに輪をかけて正体不明の書である。そのような書物を参照し続けることによって、空海の仏教は、とうてい「仏教とは言えないもの」になった。空海は仏教を解体し、それを再構築、つまりは「脱構築」しているのである。


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 超越する「一者」をこの「私」に内在させなければならない。

 有限の中にこそ無限が探求されなければならない。


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 無限の光にして無限の時を意味する「阿弥陀」とは、プラトンが言う意味での「イデア」、プロティノスが言う意味での「一者」と構造的に等しいものでもあったはずだ。


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 空海は、『菩提心論』に説かれた「即身成仏」に満足しない。そこからさらなる彼方へと踏み出す。『即身成仏義』において、「即身成仏」の基盤を、精神でもなく物質でもない、両者が浸透し合った「六大」に置く。「六大」において、地、水、火、風、空という物質を構成する五大と精神を構成する識大が一つに融け合っている。

 「六大」は、あらゆる精神にその抽象的な形態を与える形相にして、あらゆる身体にその物質的な基盤を与える質量である。「六大」は精神であるとともに物質である。イデアであるとともに自然である。プロティノスが言う意味での「一者」、光のなかの光であるとともに「質量」、闇のなかの闇である。プロティノスがそこへとさかのぼったプラトンが、すでに『ティマイオス』において提唱してくれていた形相と質量、精神と物質の「間」にあり、ただ「コーラ」(場)としてしか名付けられないものである。


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 「万物が観照する」(プロティノス)


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 スピノザは、「近代」の哲学の起源を画すデカルトが二つに分けてしまった精神と身体、「思惟」と「延長」を、デカルトの定義に厳密に沿いながら唯一の実体が持つことができる、人間が認識可能な限りでの、二つの属性として定義し直す。

 真に存在するのは、無限に多くの属性を持つ唯一の実体のみである(人間はそのうち思惟と延長という二つの属性しか認識できない)。

 唯一の実体は、無限に多くの属性において、その本質を「表現」しているのである。このことによって、実体もまた、絶えず新たなものを産出し続ける「絶対の無限」として定義し直される。自然と外延を等しくする内在神にして産出神である。神即自然にして自然即神である。



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 ドゥルーズは言う。イデアとは、その内部に無限に分化する可能性を秘めた無限の差異であり、生物学的に言うならば、「卵」のようなもの⇒井筒が最後にたどり着いた「如来蔵」そのもの。


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 デリダに取り憑いて離れない「コーラ」(場所)


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(哲学の起源)では、「私」を安定させる「思惟」と「延長」、「物質」と「精神」という二元論は成り立たない。人間的な「私」の同一性は粉々に砕け散り、「私」は大地を引き裂いてあらわれ出る「存在」としての自然に呑み込まれ、同様に天空を引き裂いてあらわれ出でる「他者」としての神に押しつぶされてしまう。。そのような「場所」、ただ「非ー場所」としか名づけられない場所なき場所からしか哲学ははじめられないのだ。

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 「コーラ」は、形相と質量の間、精神(思惟)と物質(延長)の間、ユダヤの神とギリシアの自然の間、レヴィナスの「他者」とハイデガーの「存在」の間ではじめて可能となり、その両極端を、いまここで現に、「現存在」のうちに出会わせるのである。それがはたしてなにかの救いになるのか。明確な解答はない。しかし、あらためて「コーラ」を問い直し続けることこそが、「起源の哲学」を創造的に反復することにつながるはずだ。何度も繰り返すが、それは「おぞましい」体験を反復し続けることでもある。大東亜共栄圏の哲学を、互いに反撥し合いながらも、共に理論づけすることになった師である西田幾多郎と弟子である田辺元の間で生起した「種」の理論をめぐる論争も、この「コーラ」をめぐるものであった。

 西田は「コーラ」を抽象的な「場所」と捉え、田辺は具体的な身体、「種」と捉えた。師である西田はあまりにも「コーラ」を理念的に、プロティノス的に理解しすぎている。「コーラ」はより唯物的に、ヘーゲル的に理解されなければならない。それが弟子である田辺の批判であった。ほとんど現在、井筒に投げかけられている批判そのものである。西田は田辺の批判を吸収するような形で、いわゆる西田哲学を完成していった。井筒俊彦の哲学は、そうした極東の現代哲学にダイレクトにつながり、それを継承したものであったはずだ。

 西田も田辺も、大東亜共栄圏のヴィジョンを華厳の教えにもとづきながら構築していった。それを唯心論的に捉えるのか唯物論的に捉えるのか。あるいは戦争の理論をいかにしたら共生の理論へと転換することが可能なのか。問いは、現在においてもひらかれたままである。だからこそ、われわれは、これからもまた、井筒俊彦が残してくれた貴重なテクスト群を読み直し続けなければならないのである。


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 マルクスの思想がマルクス主義と同じものでないように、西田・田辺・井筒の思想と大東亜共栄圏の哲学は異なるものである。そこから認識論的切断を行い、まずは直近の「おぞましいもの」の呪縛から抜け出よう。その上でアップデートを繰り返すことで、たどり着く伽藍があるのではないだろうか。きっとそれは驚異的な場所であろう。

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