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鈴木大拙の「即非の論理」とは ~般若系思想~

更新 2024年5月13日

 鈴木大拙だいせつの言葉に「即非そくひの論理」があります。この不可解な論理を明快に説明することはとても難しいです。先生は即非を、霊性の論理で禅の論理だと言っていますが、易しく言い直せば、言語道断・不立文字としてもいいかもしれません。「そくひ」、「すなわち・あらず」、「yes and no」、これは人が言語思考を静め、知性を超えた不生の位相を一瞥して、初めて体感される超知性的論理です。従って「即非」は、文献学的あるいは論理的アプローチで解析できるシロモノではありません。でも、大拙先生は、知性では解析不可能なこの論理を知的に解説し、禅意識を神秘の霧の中から抽出し、思想化しようとしています。宗教意識に社会性を持たせようとしているのです。以下、即非の論理について、少しずつ話を進めて参りましょう。

1. A は A でないから A だ

 A は A でなくて A である、これを即非そくひの論理といいます。即非は、しばしば、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」と重ねて論じられます。まず、大拙が「即非の論理」を解説した一文を、『日本的霊性』の初版、第五編から引用します。

 これから『金剛経こんごうきょう』の中心思想と考えられるものを取り上げてお話しする。これは禅を思想方面から検討するということになる。まず第十三節にある「 仏説般若 波羅蜜 ぶっせつはんにゃはらみつ[1]、 即非そくひ般若波羅蜜、 是名ぜみょう般若波羅蜜」から始める。 これを延べ書きにすると、「仏の説きたま般若波羅蜜はんにゃはらみつというのは、すなわち般若波羅蜜でない。それで、般若波羅蜜と名づけるのである」、こういうことになる。これが、般若系思想[2]の根幹をなしている論理であり、また禅の論理である。また日本的霊性の論理である。ここでは般若波羅蜜という文字を使ってあるが、その代わりにほかのいろいろの文字を持って来てもよい。これを公式的にすると、

 A は A だというのは、
 A は A でない、
 ゆえに、A は A である。

 これは肯定が否定で、否定が肯定だということである。(中略)こういうようなあんばいで、すべての観念が、まず否定されて、それからまた肯定に還るのである。
 これは、いかにも非合理だと考えられよう。すなわち、これはもっと普通の言葉に直していうとわかる。山を見れば山であるといい、川に向かえば川であるという。これがわれらの常識である。ところが、般若系思想では、山は山でない、川は川でない、それゆえに、山は山で、川は川であると、こういうことになるのである。一般の考えかたから見ると、すこぶる非常識な物の見方だということにならざるを得ない。

【日本的霊性】、第五篇「金剛経の禅」、第二節「般若即非の論理」、第5項「般若の論理」

 上記の引用のように、般若はんにゃ即非の論理は、「 A は A である、A は A でないがゆえに」という、矛盾同一性[3]を有する論理的表現形式の一つです。論理的と言っても普通の論理ではありません。後半部をシンプルに数式にすると A ≠ A で、これは、一般常識や数理に対する挑戦状と言ってもいいでしょう。

2. AとBとの即非関係(筆者の拡大解釈)

 さて、これは筆者独自の説明になりますが、A と B との即非関係ということについて考えてみます。冒頭の引用の中で、大拙自身は A と A 自体の即非そくひ性にしか言及していませんが、何冊か大拙の著作を読んでいくと、あちこちで、A が B で、B が A だという形式の表現に出くわすことになります。このことを加味して即非の論理をもう少し丁寧に数式で表わせば、A と B とが即非するという関係は、以下の連立方程式で表わせます。

 ( A = B, A ≠ B )

 この連立式が成立するとき、A と B とは即非の関係にあると考えるわけです。ここで、大拙が示したような A に内在する即非性を表すには、B に A を代入して、以下のようにします。

 ( A = A, A ≠ A )

 A = A は一応自明であるとすれば、大拙自身が示唆する A ≠ A が、 A 自身の即非性を表わす式になります。
 大拙だいせつはあたりまえのように「黒は白だから黒だ」と言います。あるいは「軽視することは正当に評価することだ」とサラリと言い放ちます。鈴木大拙はそもそも禅者です。禅は、しばしば、このような非合理な言い回しで、禅意識を積極的に表現しようとします。

 ここにもう一つ、A と B との即非という形の例を、『真宗入門』から引用しておきます。浄土宗・真宗などの説く浄土についての、大拙流の解釈です。

 浄土じょうどは西方の何兆マイルも離れたところにあるのではない。私の解釈では、浄土はまさしくここにあるのです。具眼の人はここで浄土を見ることができます。アミダは遠くにあるところの浄土を統制しているのではなく、アミダの浄土はこの穢土えどそのものであります。

【真宗入門】、第一章「限りなき慈悲」、アミダの教え

 これは、浄土じょぅどが穢土で穢土えどが浄土だということになります。浄即穢、穢即浄です。「即非」を「そうであってそうでない」を意味する関係子として再定義すれば、浄即非穢、穢即非浄と表現できるわけです。さらにいえば、浄土を無限の世界とし、穢土を有限の世界と見れば、無限が有限で、有限が無限だということにもなります。即非は禅だけの論理でなく、真宗の論理でもあり、また大乗仏教全般の論理でもあるわけです。

3. 禅意識への位相転換

 即非の論理は、このまま知性の平面上だけで詮索しても、スッキリと理解することはできません。どうしても、知性とか合理という平面から一度は跳び出してみる必要があります。鍵を握るのは禅体験です。そこで筆者は、以下のような見方を提案してみたいと思います。
 それは、大拙が ≠ で示した境界に、位相の転換を見るのです。知性から禅意識への場面転換です。見性経験には主客の分離がありません。そこでは、AはAという名を失う。概念を失い、個の輪郭を失います。霊性の側から観るとそういうことになります。そうなれば、「これ」といって取り上げられるような独立した個物も出来事も無いわけです。無いというのは、現物がなくなるのではなくて、認識上の区画整理の絶対性が無くなります。あいかわらず世界は現象していますが、現前意識の中では、「それはそうだからそうだ」という無矛盾性の独断はその正体を見抜かれて、「それはそうでないからそうだ」という矛盾同一性の柔軟な論理が許容されるのです。

 この解釈では、「それ→そうでない→それ」の論理展開の間に「知性→霊性→知性」の位相転換を見ます。そして、観察者が霊性により無分別の現前を見て、日常の知性へと立ち戻るときには、名と概念と個の輪郭は以前のように元通りに復活します。復活はしますが、霊性を直覚した人は、日常の世界から、以前よりも深い意味を読み取れるようになります。すなわち、「山は山でなくて山」になるのです。これは時間的に両位相間を行き来するというのではありません。現実世界そのままの中に、いわば、二重の位相を読みとるようになるのです。そこに時間の経過はありません。とにかく、この位相転換の上に、即非の論理が言われ得ることになります。

 このダイナミズムを知性の側から眺めれば、それは矛盾同一にならざるを得ません。何のために、そのような矛盾した論理が必要なのかと言えば、それは、知性の悪癖を治癒するためです。人間は自然界を、個々が独立して軋り合う世界と見ているために、対立・闘争ばかりを引き起こしています。ですが、見性経験を得た人は、そのような各個の独立は知性の生みだした一種の幻想であることを見抜きます。大拙は、これを広く人々に知らしめて、そのような独立し、対立し、闘争する姿ばかりが、世界の本来でないことをわからせようとしています。それが、即非の論理の狙いの一つなのだと思います。

4. 言葉・概念・観念は否定を介して

 この辺で終わりにすれば、話は楽なのですが、まだもう少し先があります。先ほどの大拙による「即非の論理」の提示部には、以下の言葉が続いています。

 すべてわれらの言葉・観念または概念というものは、そういうふうに、否定を媒介して初めて肯定に入るのが、本当の物の見方だというのが、般若論理はんにゃろんりの性格である。

【日本的霊性】、第五篇「金剛経の禅」、第二節「般若即非の論理」、第5項「般若の論理」

 この一文が、とても悩ましいです。「言葉・観念または概念は、否定を媒介して初めて肯定に入る」という、これはどういう意味なのでしょうか。大拙は、よく、「一度否定を通ってこないと、本当のものにならないと」言いますが、この否定をどの位相に見るかは、大拙の文章からはなかなか読み切れません。即非の論理とは、結局、「知性を否定して霊性に出て、もう一度否定して知性に還る」のか、「霊性を否定して知性に出て、もう一度否定して霊性に還る」のか、それとも、これは最初から知性の上だけの話で、「知性の中でAと非Aとを相互に否定する」意味なのか。それぞれの説明は、それぞれに一理あると言うべきでしょう。しかし、3番目の解釈、これは禅意識を介さない、知性的日常意識の中での事事無礙じじむげもどきの解釈と言えますが、この解釈をとると、即非は、はじめから知性の位相上だけの話で、3項に示した位相転換の説明はマトハズレということになってしまいます。

5. 理事無礙・事事無礙

 この「媒介する否定」の在り処を3パターンのどこに見るかということは、大拙の文章を読むときには常に混乱を生む原因となりやすいと思います。しかし、それを気にしているのは知性・分別の側だけです。結局のところ、大拙のような達人にとっては、この3パターンのどれに当てはまるかなどという問題は、すべてとっくに通過済みなのです。今、少し強引に、無分別むふんべつを「理」に当て、分別を「」に当てて華厳けごんの哲理に沿って説明してみましょう。大拙のような既証の人は、事事無礙じじむげに到るために理事無礙りじむげの仲介を経る必要はありません。事事、たとえば日常的な個物や出来事は、理事無礙の理を介さずに、直ちに無礙になります。これは、現実世界における個々間の対立・闘争は、いちいち霊性的直覚の位相に立ち戻らなくとも、知性上の矛盾をモノともせずに、直ちに無害化され、無分別の分別に飲み込まれてしまうことを意味します。筆者には、大拙先生の場合、知性すなわち分別の中に、既に、霊性・般若・無分別などの働きが、隙間なく入り込んでしまっているように見えます。このような表現は誤解を生じやすいと思いますが、ここは、読者の力量に期待するしかありません。

 筆者は、即非の正しい見方は「知性→霊性→知性」という意識の位相転換にあると思います。霊性的直覚を体験する前は、Aと not-A とは相入れず A≠ not-A であるわけですが、それが無分別智むふんべつちによって、霊性的体験の上で A=not-A を許容してしまいます。でも、まだそこで終わらずに、この既証の人は同時に知性の世界に戻っていて、A=A、not-A = not-A 、つまり、分別は分別、無分別は無分別に返してしまうのです。否、返すまでもなく、既証の人は、現実世界をそのままに「即非観そくひかん」をもって観ているのです。こうして、絶対的矛盾は自己同一し、再び絶対矛盾に立ち戻ります。でも、そのときはもう、矛盾は矛盾でなくなっています。先生は、この脱構築的な矛盾同一の機を捉えて「即非の論理」を提唱したのではないでしょぅか。

 ここでは、知性と霊性の位相をまたいで、個と超個を A と not-A に当てましたが、not-A は実のところ A でないというよりも、何物でもないのです。何物でもないが、何物でもあります。とにかく、この矛盾同一が解ると、日常世界の中にある、あらゆる個物やイベントとしての A, B について、同様のことが言えることになります。 すなわち、 A は B でないが、同時に A は B だとも言えます。言えるというよりも、AB間の対立の絶対性が消えるのです。ここでは、最初の A と not-A の関係性は理事無礙の説明で、後の A と B の関係性は事事無礙の説明です。ただし、これは筆者自身の事事無礙の受け止めですので、曲解というべきかもしれません。

6. 不生、本来生死なし

 更に、大拙は以下のように書いています。

 山が山でないというと妙に聞こえるが、われらは始めから生も死もないのに、生まれて死んで、死んで生まれるというと、かえって不思議になるのに、われらはそれに気がつかないのである。

【日本的霊性】、第五篇「金剛経の禅」、第二節「般若即非の論理」、第5項「般若の論理」

 この一文が、またしても悩ましいです。生まれて死んで、死んで生まれることは、輪廻を信じない人には不思議かもしれませんが、山が山でないことに比べたら、たいして不思議ではありませんよね。これも、大拙は霊性的直覚から観て、これを言っているわけです。本来不生、この立場から生死を批判します。

 霊性的直覚の中では、時間や空間の区切りはありません。ただ絶対現在の純粋経験あるのみです。それは、現前の立場、あるがままの立場であり、その絶対の現在を観ている中には、山と呼ぶべき山はなく、生まれたり死んだりも無いわけです。それで、生死ということは実相でなく、仮想のものだということになります。ただ、山も川もなく、生も死もないというのは、まったく何にも無いという意味ではありません。これは、思考に騙されず、現前に徹している者の視点で見た風景を言うのです。むしろ現成しているもの、有るものだけを見て、「欠けているものは何もない、すべて揃っている」とさえ言います。円同大虚えんどうだいきょ無欠無余むけつむよ、です。

7. 竹箆背触、否定と肯定

 ここでもう一つ、続く 第6項「竹箆背触しっぺいはいそく」から引用します。竹箆背触は、無門関という書物に出てくる有名な公案の一つで、ある坊さんが竹箆しっぺいを取り出して「これを竹箆といえば触れる、そうでないというとそむく。背かず触れずになんと言うか。」と問うのです。触れるは肯定で、背くは否定。肯定してもダメ、否定してもダメ。これに対して、大拙は以下のように説明します。

 問題はその竹箆しっぺいという一つの什具じゅうぐ(道具)にあるのではなくて、この竹箆という一個の存在事実と見られるものの中に含まれている論理的矛盾、その解決が目のつけどころなのである。

【日本的霊性】、第五篇「金剛経の禅」、第二節「般若即非の論理」、第6項「竹箆背触」

 われらの存在事実というものは、この矛盾で構成されているのである。存在しているということが、霊性的の上では、矛盾の自己同一ということになるのである。論理的矛盾そのことが存在なのである。

【日本的霊性】、第五篇「金剛経の禅」、第二節「般若即非の論理」、第6項「竹箆背触」

 これを見ると、大拙が矛盾とか否定とか言うのは、「知性の根底において、個々の観念・概念を形成しているところの矛盾・否定」というように読めます。概念や観念というものを、現前の否定、現前との矛盾という位相に観ているのです。ただ、大拙は、特にその晩年の著作では、その「否定」のり処について、心理的な細かい解説はめったにしません。おそらく、その否定の置き所は、文脈によっても違っていて、知的活動のどういう側面に否定を見ているのかは、必ずしも明確でないようです。いずれにしても、あまり細かく哲学的に整理しようとしても、矛盾同一の場はそこには見つかりません。この即非的否定は、禅意識から眺めてみて、初めて明解になるものなのかもしれません。

8. 存在の矛盾

 この「存在の矛盾」という問題について、大拙は更に、以下のように言います。

 これは何でもないということではなくて、ただちに我らの生死問題、人間存在そのことの問題、客観的世界の存在の問題というようなところに連関してくるのである。連関というよりも、竹箆しっぺいがただちに人生そのもの、世界そのものなのである。そこに突き出された竹箆は和尚の手裡しゅりにあるのではなくて、自分がそれなのである。

【日本的霊性】、第五篇「金剛経の禅」、第二節「般若即非の論理」、第6項「竹箆背触」

 こうして、話はまた、主客未分しゅきゃくみぶん現前げんぜんに還ります。実際を言うと、大拙の文章は常に、ひとつひとつの言葉を、分別ふんべつ側に寄せて解釈するのか、無分別むふんべつ側に寄せて解釈するかで、解釈に誤差が生じてしまいます。これは大拙の責任ではなくて、知性や言語の本質的盲目性に原因があるのです。

 結局、体験的立場から見れば、否定とか矛盾というものは知性の上だけのもので、霊性的直覚の中に矛盾はありません。何の波乱もない霊性的直覚的「いち」に対して、知性は勝手に「山」や「川」といった「」を虚構します。大拙が「矛盾」とか「否定」とかいうのは、この霊性の無分別に対して、分別上で個を仮想して、本来の未存在を存在化し、未認識を認識化することをいうのだと思います。これもまた、本来が非存在だというのは何もないということではなくて、個多は現象していても、本来未分別なのです。そして、有って無い、無いけど有る、個多を概念として知性の上に持ち出すことで生じるこの「存在の矛盾」こそが、知性の上での存在や認識を生み出しているのだと、「概念や観念というものは、この矛盾や否定によって成立する」のだというように話をするわけです。

9. 超個と個

 大拙は、また、【禅の思想】の中で、超個と個の関係について以下のように言っています。ここで、ざっくり捉えるならば、超個は霊性に、個あるいは個多は知性上の認識対象に対応すると見ると理解し易いかもしれません。

 超個と個の関係は超越でも内在でもない、また超越で内在とか、内在で超越とか言うことでもない。超個は超個でそのまま個多であり、個多は個多としてそのまま超個である。このような関係は、一般論理では言われぬものと思うが、どうしても今のところ、そうとしか考えられないから、論理の方をこれに順応するよう作りかえなくてはならない。

【禅の思想】、第二編「禅行為」、「超個の論理」

 こうした事情から、大拙は、一般論理ではうまく説明できないものを、論理の方を禅経験に合わせて、「即非の論理」を提唱するわけです。大拙は、続けて、以下のように言います。

 個多ならざるものが、その中またはその外にあって個多が個多であり能うと言うのではない。外とか中とか言うと、そう言われるものは、また個の姿で受け取られなければならぬようになる。

【禅の思想】、第二編「禅行為」、「超個の論理」

 この説明は徹底しています。個と超個の関係を、対立する二極と考えてはいけません。超個は捕まりません。対象的に捉えることはできません。超個は絶対に超個なのです。このように、読者が正しく理解できるように、大拙は、懇切丁寧に説明を重ねていきます。

 大拙は、よく、「最も抽象的なものが最も具体的だ」と言いますが、大拙にとって親しく具体的で、また私たちのために強調しておきたいものは霊性なのであって、知性の上の山とか川とか存在とか認識などというものの方が、ある意味で抽象性を帯びてきます。とにかく、その知性の上での矛盾そのものを否定して、まだ主客未分しゅきゃくみぶんを観ていない人たちに、現前意識中の本来の個物をつかませようとすることこそが、「即非の論理の狙い」なのだと、そんな風に大きく捉えておくしかないのかもしれません。

10. 不可知論的解釈について

 冒頭に示した引用文の中で、大拙は、原典の「ゆえに、A と名づける」を「ゆえに、A は A である」という具合に「・・・である」に変えています。表現方法としては一歩踏み込んでいるわけです。ネット上の大拙批判の中には、この言い替えを問題視するものもあります。でも、「A は A でない、これを A と名づける」ということなら、「何ごとも言葉で完全には定義できない」という意味にもとれることになります。しかし、大拙の即非は、「人間の知性の限界を知れ」ということもありますが、そのような警句に留まるだけのものではありません。

 即非の論理は、また、相互限定的な関係と誤解されやすいです。しかし、即非はプラスチック成型品と金型の関係とは違うし、集合が補集合により定義されることとは違います。そのようなアイデアは知性の領域を一歩も出ていません。その方向性では、即非を正しく理解することはできません。

初稿 August 26, 2012 Aki.Z


  1.  般若波羅蜜。仏教の最高の智慧を完成させること。六波羅蜜の一つ。

  2.  般若系思想。空(絶対個の否定)や般若波羅蜜を中心に説く思想。般若心経も含まれる。

  3.   矛盾同一は、西田哲学の絶対矛盾的自己同一を短縮した筆者の造語。
    「 A は A でない」は、これだけだと唯の矛盾か不良論理になってしまう。「 A は A でないから A だ」と環流して初めて矛盾同一となる。


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