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五月の5日間(day4)

# day4(Chiba)

 「この辺りでは一番高い建物ですから、街が一望できますよ」
 コンシェルジュはそう言って微笑んだ。

 高い塔のようなホテルだった。
 出て行く前にこの街を、この時代をもう一度見ておきたくなった。
 エレベーターを降り、空に向かって回廊のような階段を登る。白い壁に覆われた、人がぎりぎり一人通れるくらいの螺旋階段。一段進むにつれ、何かに吸い込まれているような感覚に襲われる。それはまるで井戸のようだ。僕らは落ちて行く。地面に、上空に。
 視界が開ける。

 その日はひとしきり街を歩いて、セイカの勧めてくれた店で夕飯を食べた。クランベリーの入ったウォッカ、鰊の酢漬け、鹿肉の燻製とステーキ、ラム酒入りのコーヒー……ラップランドの料理はどれも美味しかったが、少し豪奢なせいか、一人で食べるとどこか物哀しさを感じた。
 それからは、ホテルに戻りすぐ眠ってしまうつもりだった。テレビを点け、すぐに消して、帰りがけにスーパーマーケットで買った缶のジントニックが空く頃には。

 階段を登りきると、一面にヘルシンキの街が広がった。
 まだ日の沈まない二十一時。通りを行き交う人はまばらで、建物も静かに呼吸している。吹き付ける風と少しづつ傾いていく夕陽だけが騒々しい。空に尾を引くように敷かれた雲が流れていく。今、この瞬間、この場所が潮目かもしれない。だけどその変化を、時代が変わっていることを誰も知らない。

 僕はいつから夢を見なくなったのだろう?
 今日は何もなかった、今日もそうだった、今日も、また今日も……そんな風にして夢は奪われてしまった。オフホワイトの天井と瞼の裏側の潮騒だけが語る夜。それはあまりに長い夜。
 時代は変わった。確かに時代は変わったのだ。僕はもう一度夢を見ようとしている。今の僕なりのやり方で。

 夢を見たいんだ。
 安らかな眠りに就きたい。
 夜は長く、夢は短い。夢のない夜はもっと長い。
 秘密を隠す色。それは決して瞼の裏の漆黒ではない。でも、その在処を誰も知らない。




 「今じゃみんな携帯電話で好きなように写真を撮れるけど、カメラが生まれた時はまるで違った。それは魔法みたいな驚くべきことだったんですよ」
 僕たちの慎ましくも幸せな空間に、一片の闇が紛れ込んだのはある夏のことだった。

 「カメラができる前はね。みんな絵を描いて記憶を残したんですよ。僕が言うのもなんだけど、それってすごく素敵じゃないですか?」
 婚約者と僕は千葉のある街に部屋を借りて暮らしていた。
 地方に行けばどこにでもあるような街だった。駅前に肩をすぼめた様な百貨店があって、それとは対照的に幾分大きすぎるスーパーマーケットがあって、少し車を走らせれば、ロードサイドのショッピングセンターや飲食店が立ち並ぶ……そんな街。
 僕はその街に対して特別な感情を抱かなかった。好きでも嫌いでもなかった。でも一つだけ気に入っていたことがある。それは部屋のベランダから海が見えることだった。
 その海は決して美しい海ではない。ビルや工場が遮って手のひらほどしか姿を見せてくれない。ビーチパラソルも砂浜もない、もちろん水着姿の海水浴客なんていない。工業地帯の灰色の海だ。
 だけど、そこには自然が持つ抗うことのできない偶発的なうねりがあり、窓を開ければいつでもそれを感じられることが、僕にとっては変えがたい救いになっていた。

 「魔法といえば、私にもとっておきのがあるのよ」
 その日は婚約者の母親が来ていた。僕たちは六畳のリビングルームに腰を下ろし、背の低い丸テーブルを囲みながら酒を飲んでいた。

 「これ、なんだと思う?」
 ちょうど婚約者がコンビニエンスストアに買い物に出た時だった。二人きりになった部屋で、彼女は携帯電話の画面をこちらに見せた。彼女の携帯電話は一昔前の古い機種で、一昔前のストラップがぶら下がっている。

 「部屋……ですか? 多分、ホテルか何かの」
 そこには部屋が写っていた。
 キングサイズのベッドに、アール・ヌーヴォー調のソファと絨毯、シャンデリア。

 「これはね、ある国の要人が泊まった後の部屋なの。あなたも名前を聞けば絶対に知っている人。他にもあるのよ」
 彼女は以前、成田の空港にほど近い場所で、高級ホテルの客室清掃の仕事をしていた。携帯電話には無数の部屋の写真が記録されていた。

 「誰かの部屋を覗くのってね、癖になるのよ。それでね、いつからか盗み撮りするようになったの」
 「大丈夫なんですか? そんなことして」
 「実際に何かを盗んでいるわけじゃないもの。誰もわからないわよ」
 「はあ」
 「それにね、とても辛いのよ」
 「どうして?」
 「触れられないじゃない。何を目にしたとしても。部屋ってね、本当にいろんなものが置いてあるの」
 「お財布とか?」
 「そんなもの何も面白くない」
 「宝飾品?」
 「もっとエキセントリックなものよ」
 「コンドームとか?」
 「そんなのは当たり前。汚れた札束とか、血のついたナイフとか、祭壇を置いている人もいたわね」
 彼女は淡い思い出話をするかのように、楽しげに語った。

 「あとは鞄ね」
 「それこそ当たり前だ」
 「違うのよ。鞄と言っても色々あって、その……何というか意味深な鞄ってやつがあるのよ。黒くて生温くて、まるで人の頭みたい。鞄のくせに騒々しいほどの気配を纏っているの。とにかく薄気味悪い鞄。見てるだけで気分が悪くなるの。でもね、その一方で中身が知りたくて仕方ないの。どんなものが入っているのか開けてみたくてたまらないのよ。目を背けたいのに見たくて仕方ないの。あれは……そう小さなブラックホールね」
 お酒を飲んでいたせいか、彼女の口調にも熱がこもってきた。

 「あなたも開けてみたいでしょう?」
 「僕は……どうだろう?」
 「本当に? 中身を知りたくない?」
 「そうなってみないとわかりませんよ。それで、お義母さんは開けたんですか?」
 「もちろん仕事ですから、開けたりはしなかったわ。我慢したの。でも、今となっては一度くらい開けてしまえば良かったと思う。どうせ、誰にもわかりゃしないのだから」
 「ふう、そうですか。でも、そんなに気になるなら、またホテルで働けばいい。そして開けてしまえばいい。そう思いません?」
 「うーん……そうね。あなたのいうことも一理ある。でもね、ある時からどうでもよくなっちゃったの。虚しくなったとでも言うのかしら。なぜかわかる?」
 「なぜだろう?」
 「私にもうまく説明できないんだけど、何というか……結局どう生きても変わらないと思ったのよ。私が鞄を開けて、そこに何が入っていたとしても、私は変わらない。きっと、こんな風に酒酔い話の肴にしかしないだろうって。だったら開けないほうがいいわ。リスクの割に得るものが少なすぎる。そう考えたら、何もかもが虚しくなったのよ。鞄も札束もコンドームもどうでもよくなってしまった」
 「そんなものですかね」
 「そんなものよ。あなたもいずれ分かるわ。いや、もう分かりかけているでしょう?」

 その晩、母親が帰ると、僕と婚約者は二度性交をした。
 一度目のそれはいつもより良いものに感じられた。だからこそ僕らは二度目を求めた。だが、二度目のそれはほとんど惰性の産物となった。
 後味の悪い夜だった。




 静かな森の中の一本道を彼女は歩いていく。水色のワンピースをはためかせ、両手を広げながら。
 道は八百八十八メートルある。両脇に並んだ針葉樹と芝生の上の石が連なり、辿り着く先に見える小さな終着点。この間に私たちは別れを告げねばならない。ブラウン管のモニターのスイッチを切り、いつまでもループする古い映像に別れを告げねばならない。

 「もうすぐさよならね」
 振り向いて、セイカは言った。

 「また会えるさ」
 「もう会えないわ。これが最後」
 「そうかな……?」
 木々が段々と暗くなっていく。死と生の割合が逆転する。

 「ねえ、シュウ。私ね、時々、どうしようもなくなることがあるの。震えが止まらなくて、押さえつけていた悲しみが、いつの間にか閾値を超えて、怒りに変わる。それを止められない、手懐けられなくなる。胸の奥から声がするの。『奪い返せ! 何もかもを。お前はどうして奪い返さないんだ?』って」
 彼女は突然箍が外れたように言葉を重ねた。

 「その声がすると、どうにもならなくなるの。嘘をついてでも、引っ叩いてでもいい、抵抗する奴は銃殺したって構わない。どんなことをしても奪い返さないといけない。そうしない限り、私はまた古いテレビの画面の中に戻ってしまう。何度も繰り返し再生されて、すり減っていく短いビデオテープの中で一生を終える。そんな風に考えてしまうの。怖いのよ。自分がそのまま取り返しのつかないことをしてしまいそうで。怖いの……」
 彼女はしゃがみこみ、両手で顔を覆って泣いた。森は残酷なほど静かにそれを包み込む。静かだ。本当に。何もなかったみたいに。静かだ。
 僕は方位磁針を確認するように掌を見た。寒気がした。ここはそういう場所なのだ。本来は。

 静けさ、無。
 それは時にどんな暴力よりも力を宿す。それはすべてを根こそぎ奪い取ってしまう。竜巻のように丸ごと。そして、枯れてしまった海にはもう二度と水が戻って来ることはない。だから、僕らは動き続けないといけないのだ。考え続けないといけないのだ。苦しくても、届かなくても、考え続けないといけないのだ。可能性を。

 「怒りも悲しみも僕らには必要なものさ。それを根絶やしにすることはできないよ。でもね、いつ、どこで、誰にそれを表明するかは選ぶことができる。そういうものじゃないかな?」
 僕は精一杯に言葉を紡いだ。彼女は顔を上げ、赤い目で睨みつけるようにこちらを見ている。

 「だったら、やっぱり私は奪いたいわ。もう奪われるのは嫌なのよ」
 嗚咽を堪えながら、吐き出すように言葉は返された。

 「それがうまくいったとして、きっと君は満足しないよ。奪うこと、奪われること、損なうこと、損なわれること……みんな同じことなんだ。ひとつがあれば、もうひとつも必ずどこかに存在する。一度奪ってしまったら、奪い続けないといけない。奪われるまでずっと」
 「それじゃあ私は奪い続けられないといけないってこと? これからもずっと。そうなの?」
 「違う。違うよ。奪うんだ、自分から。自分の中の闇から奪い返すんだよ。君を」
 「そんなことできるの……?」
 「やるんだ」
 「きっと同じ過ちを繰り返すわよ?」
 「何度だってやればいい」
 「もっと酷い目にあうかもしれない」
 「それでも最善を尽くすんだ」
 「戻れなくなるわ」
 「進むにせよ、留まるにせよ、取り返しはつかない。時代は変わる」
 「私は選ばれなかったのよ。世界からも、時代からも。私は選ばれなかった。あなたにこの気持ちがわかる?」
 「多分……わからないよ。でもね、たとえ選ばれなかったとしても、選ぶことをやめてはいけないんだ。僕らは選べるはずさ。いつだって、きっと」
 「嘘よ!!」
 
 静けさがその声を押し留める。
 気が付くと僕らは道の終点にいた。辺りには霧が立ち込め、ひどく寒い。季節は春なのに、雪でも降るんじゃないだろうか? いや実際そこには粉雪が舞っていた。彼女を包む綿毛のような粉雪が。
 光が射す。彼女の何もかもが美しく輝いていた。僕は思った。美しさとは刹那なのだ。限りなく終わりに近づかない限り、本当の美しさは姿を見せてはくれない。それはきっと純度の問題なのだ。ギリギリまで近づかないとわからないことがたくさんある。近づくんだ。僕たちは生から死を見るしかない。有るものから、無いものを想像するしかない。一方通行。想像でしかものを語れない。だから、きっと僕には一生かかっても彼女の気持ちは分からないだろう。だけれども、彼女のことを理解できるのは僕しかいないんだ。

 「待って! まだ僕らには……」
 気が付くと僕はそう叫んでいた。
 だが、彼女はもうそこにはいない。そこは静かな森の一本道の終わりで、季節はいつもの春に戻っていた。時代が変わり、僕が訪れた春に。

 「それなら……あなたもこっちに来て、私と寝ましょうよ」
 彼女がいた場所に風が一つ吹いた。




 「私がいなくても、あなたは変わらずにやっていくんでしょう?」
 婚約者は荷物を片付けながら、こちらに目も遣らずに言った。電池の抜けた懐中電灯みたいな手触りしかそこにはない。カチッ、カチッ、いくらボタンを押しても、光を放つことはない。

 「あなたのことずっと嫌いだったの。ずっと、ずっと嫌いだった。気付いてた? 気付いていたんでしょうね。あなたって、そういうところに敏感だから。でも、変わらなかった。大抵のことは一人で済ませて、私に不平も不満も言わない。迷惑をかけてないから、まあそれでいいだろう、それなりにうまくはいっているだろうって、そんな風に過ごしていたんじゃない?」
 僕の考えでは、先に過ちを冒したのは彼女のはずだった。ある夜、キッチンで夕飯を作る彼女を背に、ベランダの濁った冬の海風に吹かれながら、僕はそれを本能的に悟った。

 「私は誰かに必要とされたいのよ。未熟でも、粗削りでも、誰かに求められたいの。そうじゃないとダメなの。だけど、あなたはいつも遠くばかり見ていた。私のことなんて何も見ていなかった。違う? 難しい顔をして、優しいふりをしているけれど、あなたは空っぽじゃない。そうでしょう? それを私に押し付けないでよ」
 もちろん、探せば彼女の不貞の証拠はいくらでもあっただろうし、見て見ないフリをしていただけで予兆だっていくらでもあったのだろう。

 「……あなたとしてると虚しくて仕方ないの。身体は濡れて、気持ち良くなっても、虚しさは変わらない。いや、むしろより深くなる」
 さらに言えば、すべてはあの夜に決まってしまったのだ。たまたま僕がそれを悟ったのがある冬の夜で、彼女がそれを行なったのがそれより少し前だったに過ぎない。

 「私は自分勝手かしら? わけの分からない女かしら? この気持ちあなたにはきっと分からないでしょうね」
 すべてはあの夜に決まっていた。彼女の母親が悪いわけではない。鞄の持ち主が悪いわけでもない。誰かが悪いというわけではない。ただ、僕らはあの日、あの場所に発生した小さなブラックホールに飲み込まれた。

 「一つだけ言っておくわ、私は被害者よ。あなたのね。他の人たちがどう思おうと、私はそう思っているから」
 こうなることはわかっていたのだ。だけれども止められなかった。いや、止めることはできたはずだ。いくらだって抵抗はできた。つまるところ、止める必要性を感じられなかったのだ。
 浮気なんて大したことない。本当にそう思った。心からそう思えてしまうことが何よりも問題だった。

 そして、僕も別の女の子に手を出した。
 職場の後輩で、細い銀縁の眼鏡をかけた背の低い、ショートカットの女の子だった。
 何でもないフリで食事に誘い、ワインとウイスキーを飲み、そのままホテルのベッドに雪崩れ込んだ。彼女が僕に好意を持っているのはわかっていた。僕も彼女のことを可愛らしいと思った。もちろん、彼女は僕に婚約者がいることを知っていた。それでも、そうなった。

 両手で眼鏡を外してやると、綺麗な丸い瞳が僕を捉える。僕は一瞬目を逸らす。そして、すぐにわざとらしく微笑む。すると彼女は安心したように微笑み返した。
 「はあ、またか……」
 デ・ジャブだ。この瞬間、僕はどの女の子も同じに思えてしまう。着ている服と、着けている下着が違うだけで、みんな同じに見えてしまう。最低だ……
 それから、彼女の細い手首を掴んで滅茶苦茶に犯した。
 最低なら、せめてそれを忘れられるくらい、どうにかなりたかった。

 「私、今幸せです。すごく」
 行為の後、彼女は顔を火照らせてそう言った。
 地味で垢抜けなくて、きっと不義に溺れたことなどないのだろう。そんな彼女を見るのが嫌で嫌で仕方なくなった。下着もブラウスもホテルごと全部燃やしてしまいたいと思った。
 僕は激しい気持ちを抑え、呆けた様子の彼女に服を着せ、駅まで送った。そして、漫画喫茶で一夜を明かし、家に帰らずにそのまま出社した。コンビニエンスストアで下着と髭剃りを買い、会社の近くのクリーニング屋で預けていたシャツを受け取り、公園のトイレで身支度をした。なんてことのない一日を過ごし、なんてことのないまま家に帰り、シャワーを浴びて、婚約者の作った煮物と麻婆豆腐を食べ、食器を洗い、テレビを見て、眠りに就く三十分前にはいつも通り本を持って寝室に入った。彼女はまだテレビを見ていた。僕はベッドライトの橙色の灯りの下で小説を読み、きっちり三十分後に頁を閉じた。
 そして、たまらなく嫌な気持ちになった。



 空っぽになった部屋で過ごす最後の日、僕はもう一度ベランダに出て、夜風を浴びる。
 四月の終わりの風は愛想がよく、「もう少しここにいなよ」と身体に纏わりつく。だが、その向こうにある海は灰色のうねりを深めていた。
 婚約者はとっくに出ていった。彼女がいなくなっても何も変わらなかった。僕も新しい部屋を見つけ、ここにはもう旅行鞄しかない。

 海を見ていると、前にも時代を跨いだことがあったのを思い出した。あれは僕がまだ子供の頃のこと。ノストラダムスの予言が流布し、ツインタワーはまだ健在で、ソファーの上に母がいて、父がいて、豊穣で未熟な二十世紀が終わり、理知的で洗練された二十一世紀がやってくるはずだった。

 「あなたには嘘をついちゃったの。実はね、あの鞄。覚えているかしら? 前に話したホテルの鞄のことなんだけど。本当はね、私開けたのよ。やっぱり、どうしても我慢できなくてね。こっそり開けたの。一旦廊下に出て、誰も来ないことを確認してから、手袋をはめて、そっと手をかけた。興奮したわ。とっても。ギラギラと鈍い光を放つファスナーがまるで拳銃みたいだった。引き鉄に指をかけた時、もう戻れなくなるかもしれないって本気で思った。目を閉じて、思い切ってそれを引いた。堪らなかったわあ。ファスナーは嫌な音を立てて滑った。抵抗はまるでないのに、なぜだか重たくて、固いのよ。だけど一息で引っ張った。汗が滴り落ちそうで、ハンカチで拭った。目を開けるとそこには裂け目ができていた。底なしの井戸のような闇がこちらを見ていた。背筋が震えたわ。それは本当の闇なの。意思を持った闇。逃げ出したくてたまらなかったわ。だけどもう引き下がれなかった。ここまで来てしまったら、開けてしまわないと。それが最善の手だと思った。開けずに逃げ出したら、もっと酷いことになる。そうしている間も闇はこっちをじっと見ているの。鼓動は感じるのに、一切起伏がないの。ものすごい存在感でそこにいるのに、何もないの。対峙しているだけでじりじりと自分が削られていくことがわかった。だからもう開けるしかなかったのよ。私は発狂しそうになるのを抑えるので精一杯だった。裂け目に手をかけて、ひと思いに開いたの」
 婚約者の母親と偶然出会ったのは、冬の一番最後の日だった。
 京成線の駅のホームで彼女は僕を見つけ、それから同じ電車に乗り、三駅分ほど過ごした。

 「あなた達、別れてよかったと思うわ。あなたのこと責めているわけじゃないのよ。でもね、一人の母親として純粋にそう思うの」
 彼女はそう言い残し、電車を降りた。
 灰色の空は重く翳っていた。



 少しだけ眠ろう。
 日が沈み暗くなったヘルシンキの街を見下ろし、僕はそう思った。

 回廊の階段を降りる。部屋に戻るのだ。いつの間にか、頭の中でずっと音楽が流れていた。古いギターのリフとぼやけたドラムスの胴鳴り。フレーズを辿っていく。それはビートルズの『ゲット・バック』だった。

 「戻って来なよ、元いた場所に。戻ろうよ、君の居場所に」
 ポールが歌う。
 戻るべき場所、そんな場所なんてあるのだろうか?

 ベッドに仰向けになる。
 僕は自分の居場所を想像する。そこには白い壁と白い床がある。外から工事の振動が響き、天井から落ちた塵が小さな山を作る。よく見ると、同じような山が部屋にはいくつも出来上がっている。
 無機の地に堆積した有機物は消えることがない。養分にも毒素にもならず、いつまでもそこに留まり続ける。昆虫も微生物も分解してはくれない。だから、誰かが掃いてごみ袋に詰めないといけない。掃除をする者が必要なのだ。どんなホテルにだって清掃員がいるものだ。僕らに不要なわけがない。そうだろう?

 それから僕は眠った。
 とても長い眠りだった。

(day0へ)


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君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない