長月 州

コツコツと小説を書いています。読んでおもしろく、読後に何かが少し残る、を目指しています…

長月 州

コツコツと小説を書いています。読んでおもしろく、読後に何かが少し残る、を目指しています。(なかなかうまくいきませんが・・・)べたですが、好きな作家は、村上春樹、桐野夏生、角田光代などです。大阪府出身、愛知県在住です。

最近の記事

「ドラレコの記憶は途切れない」第16話

 数ヶ月後。山田医師のクリニックでは、窓から差し込む光が壁の青い絵を照らしていた。カンディンスキーだろうか、もちろんレプリカに違いない。窓際の椅子に座る達也の隣に、うっすら青みを帯びたヴェネチアングラスの花瓶に紫のアジサイが生けてある。  以前には見られなかった穏やかな様子の達也は、山田医師が部屋に入ってくるのを見て、ゆっくりと向きを変えた。  山田医師は変わらない温和な声で言った。 「久しぶりの診察になりますね。その後、具合はいかがでしたか?」 「かなり良くなりまし

    • 「ドラレコの記憶は途切れない」第15話

       日曜の夜、達也がお気に入りの中華料理店を出ると、かなりの雨が降っていた。水溜まりを避けて駐車場へ急ぎ、家路につくと、大通りで不意に声が響いた。 〈行くで。茶臼山へ〉  何言っているんだろう。辺りはすっかり暗く、雨も降り続けている。しかも、明日は仕事だ。 〈行くで。茶臼山へ〉  再び声が響いた。  そうだ、素直に声に耳を傾けることにしたのだった。そう思い直し、達也はハンドルを山の方向へ向けた。山が近づくにつれ、いつものように緊張感が心を締め付け、手のひらに汗が滲んで

      • 「ドラレコの記憶は途切れない」第14話

         週末の夜、発売審査会議を終えた打ち上げを行った。やるべきことはまだまだたくさんあるが、大きな節目を何とか乗り越えた。参加者は15名ほどで、管理職は課長だけの気楽な打ち上げだ。 会場は入社2年目の若手が選んだ、木を多用した内装にアンティーク調の家具が置かれたイギリスのパブ風の飲み屋だった。  乾杯を終えた後、開発の苦労話が盛り上がり、店内に笑い声が響いた。時間が経つにつれ、自然といくつかのグループに分かれ、それぞれが話に花を咲かせた。店内を満たすBGMと笑い声の中で、達也

        • 「ドラレコの記憶は途切れない」第13話

           3日後。事業部長を筆頭に、品質保証部、製造部、技術部の主要メンバー、全社からは品質管理部と知的財産部の管理職が工場の大会議室に集結した。  品質保証部の課長が、事務局を代表して会議を進行させた。 「次期型ドライブレコーダー、DR3の発売審査会議を始めます」  会議室は緊張で静まり返っている。 「本日は、品保より品質確認結果を報告した後、技術部が開発経緯、製造部が生産準備状況を報告します。また懸案事項に特許問題があり、技術部から報告します」  品質保証部のドライブレ

        「ドラレコの記憶は途切れない」第16話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第12話

           知的財産部からの電話が、達也に衝撃を与えた。DR3で使用している映像圧縮のソフトがトリプト社の特許に抵触しているというのだ。3日後に発売審査会議を控え、背筋が凍るような感覚に襲われた。  その時、声が聞こえた。 〈今さらなに言うとんねん。特許なんて端からわかっとんとちゃうんか?〉  これまでは声に反発してきたが、声に耳を傾け冷静に考えてみる。  そう、今思うとそうだ。けれど品質トラブルに対応していて知的財産部への特許審査の提出が遅れたのは事実だ。はなから特許に問題が

          「ドラレコの記憶は途切れない」第12話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第11話

           達也はメンタルヘルス・クリニックの待合室で周囲を見回した。窓からの光が白い壁を無機質に照らしている。疲れ果てた表情の人たちが、静かにうずくまっている。  いつの間にか壁にストレス管理と書かれたポスターが掲示されており、隣の棚には自己実現に関する書籍が並べられている。達也にはどこか遠く離れた理想のように思われた。山田医師の治療を受けるにつれ、心の奥底から疑念と不安が浮かんできた。  診察室で山田医師が問いかけた。 「いかがですか? 何か内面の声に変わりはありますか?」

          「ドラレコの記憶は途切れない」第11話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第10話

           かつて、この道を何度も走ったのだろうか。苦しみから逃れる何かが、ここにはあるのだろうか。  達也が運転する車は豊田市街を後にし、茶臼山高原道路に入った。辺りは静かで時折、野鳥のさえずりが聞こえる。雲間から漏れた日差しが地面に触れ、窓を開けて息を吸い込むと、冷たい空気が肺を満たした。  面ノ木インターを過ぎ天狗棚トンネルに入ると、ふくらはぎがピクリと痙攣し、つりそうになる。ハンドルを握る手に汗が滲む。手の汗をズボンでぬぐう。トンネルを抜けると、道はやわらかに左にカーブする

          「ドラレコの記憶は途切れない」第10話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第9話

           深夜2時を過ぎても、達也はベッドの中で眠りにつけずにいた。ミゲルと部長をとんでもなく怒らせてしまった。自分の言葉が引き起こした事態を考えると、胸が締め付けられるようだった。このままでは、会社で孤立無援の存在になってしまう。どうして余計なことを口走ってしまうのだろう。言葉を抑えようとしても、心の奥底から溢れ出てしまう。抱える苦悩や混乱が、無意識のうちに他者への攻撃に変わってしまう。  しかし、一方で声が言う言葉は、必ずしも全てが間違っているわけではない。問題は、声の言うこと

          「ドラレコの記憶は途切れない」第9話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第8話

           その日の午後、達也と課長が会議室で待っていると、ドアが突然開き、石崎が慌ただしく入ってきた。  課長が緊張した声で言った。 「お忙しい中、ありがとうございます。今度のDR3の発売審査会議の報告内容について、事前にご説明させていただきます」  発売審査会議は、品質保証部、製造部、技術部など、複数の部門長や課長が一堂に会する重要な会議だ。製品の品質を審査し、結果を踏まえて最終的に事業部長が製品の発売可否を決定する。  スクリーンに映し出した資料をもとに、課長が説明を開始

          「ドラレコの記憶は途切れない」第8話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第7話

           クリニックの治療を受けても、自我は分断されたままで、これといった改善はなかった。日常生活すら重荷になり始め、息苦しさを感じる日々が続いた。仕事のプレッシャーも拍車をかけた。  デイリーミーティングで、今日の課題をチームで共有していると、例の声が耳に飛び込んできた。声は聞こえるが、何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。チームメンバーの声が、遠くに聞こえる。自分だけが孤立しているような感覚に捉われた。  打ち合わせ机の端から、ミゲルがじっとこちらを見つめている。ミーテ

          「ドラレコの記憶は途切れない」第7話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第6話

           疲れ果てて家に帰った達也がソファでぼんやりとスマートフォンをいじっていると、ラインに着信が入った。発信者は山下とある。大学時代の友人だなとはわかったが、顔が思い浮かばない。 「久しぶりです。お元気ですか? 突然だけど今度結婚することになりました。黒滝くんにもぜひ結婚式に出てほしく思っています。式は来年の3月20日の予定です。お忙しいとは思うけど、可能であれば出席いただけると嬉しいです。また会えるのを楽しみにしています」  戸惑いながら記憶を探っていると、電話がかかってき

          「ドラレコの記憶は途切れない」第6話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第5話

           初診から数回の診察を経ても、達也の不安は収まるどころか日に日に増していった。ある晩、深夜に目覚め、心臓の鼓動を背中に感じながら、混沌とした思考の中で不穏な声を聞く。これは本当に僕の声なのか? 自問自答するが、答えは返ってこない。闇の中にキジトラ猫の姿が現れる。手を伸ばすと、猫は霧の中に溶けるように消え去り、失望感が心を重くした。夜は深まるが、達也はもはや眠りにつけなかった。  翌日、睡眠不足の重い頭を抱え出社した。開発チームのリーダーとして、コアメンバーとのデイリーミーテ

          「ドラレコの記憶は途切れない」第5話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第4話

           名古屋駅前の高層ビルの11階。メンタルヘルス・クリニックの待合室は静寂に満ちていた。無音室の中にいるようで、心臓の鼓動音さえ消えていくようだった。  最近、会社の近くに2つのクリニックが新たに開業したが、同僚に見つかるリスクを避け、達也はこのクリニックを選んだ。 名前が呼ばれ、診察室へと足を踏み入れる。部屋の一角に目をやると、見たことのない種類の観葉植物が目に入る。その葉はボルドー色に染まっている。深紅のソファの前に置かれたガラステーブルの上には、赤いバラが1輪飾られてあ

          「ドラレコの記憶は途切れない」第4話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第3話

           翌日、達也が出社すると間もなく、麻耶とミゲルが姿を現した。 「きのうはすいません。疲れていて、想定外の不具合に動揺して、心にもないことを言ってしまい、本当に、ごめんなさい」  達也は神妙な面持ちで頭を下げた。  麻耶とミゲルは一瞬驚いた後、大丈夫ですよ、気にしないでください、と答えた。2人の態度はいつもと変わらないように見えた。  ひとまずほっとした。デスクに戻りながら、自分を戒める。あんな言い方をしてしまったことが自分でも信じられない。人をどなったことなどないのに、

          「ドラレコの記憶は途切れない」第3話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第2話

           その日の午後2時。品質保証部から、品質試験で不合格になったDR3の現品が実験室に届けられた。開発チームの九人のうち、達也、泉麻耶、ミゲル・サラザールの3人が、緊急で実験室に集まった。  ソフトウェア担当の麻耶がデータのチェックを始める。麻耶は達也の3年後輩で、同じ大学の出身だ。その横で作業を見守るミゲルはドライブレコーダーの開発経験はないものの、北米市場への拡販を見据え、パナックス・アメリカから出向してきたヒスパニック系アメリカ人で、年は達也と同じ30歳。  パソコンに

          「ドラレコの記憶は途切れない」第2話

          「ドラレコの記憶は途切れない」第1話

          <あらすじ>  中堅電気メーカーの技術部でドライブレコーダーを開発している達也は、発売を目前にして、品質試験が不合格の報告書を受け取る。  強いプレッシャーに苛まれ、達也に内なる声が聞こえ始める。過去の記憶もぼやける中、内なる声のせいで上司や同僚と激しく衝突してしまう。メンタルヘルス・クリニックを受診すると、内なる声は自我の分断だ、と診断される。催眠療法などを試みるが、一向に改善しない。  上司の助けもあり、達也はなんとか発売審査会議を乗り越える。その後、かつての事故で失った

          「ドラレコの記憶は途切れない」第1話